1、今日も元気に健やかに



 物心ついた時から世界は暗闇に閉ざされていた。


 まるで隠すように屋根裏へ押し込まれ、食事なんて一切出されない。それでも死ぬことのないこの身体は永劫と続く空腹に耐えながら世界の終わりを願っていた。


 自分が何者で、どうしてこんな苦痛を味わっているのか。何もわからなかったけれど、ただ時折聞こえてくる怒鳴り声や、何かの割れる音が怖いものだということだけはうっすらと理解していた。


 怖いものに近寄ってはいけない。

 だから私はずっとここにうずくまっていた。

 あの日、あの時、魔女管理教会の人たちに見つけてもらえるまで、ずっと。


 もし誰にも見つけられず十五歳を迎えていたらと思うと背筋が凍る。私は一体いくつの国を滅ぼしていただろう。



「リディア、あなたの役目は分かっていますね」



 柔らかい陽だまりのような声に「はい」と頷く。

 司卿様はお優しいが、彼女の言葉が私を心から心配しているものではないことくらい、とうの昔から知っていた。誰も、私の生を望んでいない。さりとてただ平凡に死ぬことも許されていなかった。

 私の役割は――。



「日々、穏やかに、健やかに。この命果てる時、世界を祝福できるよう努めます」


「ええ。どうか息災で」



 背後から差し込む光が逆光となり、司卿様の表情は分からなかった。

 これが人の世界で暮らした最後の記憶。

 その日を境に、私は人に会うことを禁じられた。




 * * * * * * *




 姿見の前でくるりと回って身だしなみを確認する。

 腰まである髪がふわりと舞った。


 亜麻色の髪。栗色の瞳。何一つとして特徴のない平凡な顔。それが私、リディア・グランツだ。

 身長だって高くも低くもない155センチ。当然胸もない。町ですれ違っても誰一人として振り返りはしないだろう。

 額にこの菱形のアメジストさえついていなければ、だけれど。


 このアメジストこそ災厄の魔女の証。

 魔女の命が消えると同時に、この宝石も砕け散って新しい寄生先を探す。一国を滅ぼしたとされる前任の魔女がこの世から消えた時、運悪く私が生まれた。おかげで宿主に選ばれてしまったというわけだ。


 生まれた瞬間から顔も名前も知らない大勢に誕生を呪われる子どもなんて、魔女くらいのものである。


 誰からも望まれないのなら物心つく前に殺してしまえばよいのに――そう考える人もいるだろう。

 しかしその辺りは上手くできているようで、魔女が十五になるまでは誰一人として傷すらつけられない不死の身体になっているのだ。その代り、どれだけ殴られようが罵られようが魂が曇ることはない。

 ゆえに災厄の魔女が死した後の十五年間は安定期と呼ばれ、世間は束の間の平和を大いに楽しむそうだ。


 魔女に選ばれた者にとっては真逆の期間だったけれど。そんなもの大多数の人間には関係のない話。

 その辺の屑箱に丸めて捨てられるような、些末なことだ。



「寝癖よし! お化粧よし! 服の皺よし! オールオッケー!」



 右手で櫛を持ち、左手を腰に置いてピシッとポーズをとる。誰が見るわけでもないが、それでも十七の乙女。少しでも可愛く在りたいという小さな意地だ。


 森の中に建てられた赤い屋根の一軒家。

 人間の感情は毒になるからと十五になる少し前からここで一人暮らしをしている。


 掃除炊事洗濯、生きるために必要なことは幼少期にすべて教わった。大変なことも多いけれど、緑豊かなこの場所でのびのびと暮らせているため魂が曇ることはない。

 やはり引きこもり生活こそ至高。多少の不便なんて一人身の楽に比べれば問題にすらならない。



「さぁて、補給物資を運び入れないとね。今日も元気に健やかにっと」



 子供の頃から唱えている呪文を口にし、家を後にする。

 いくら一人である程度こなせるとはいえ、さすがに食料や衣服などを自給自足するのは厳しい。なので三日に一度、魔女管理教会から補給物資が届けられる手はずとなっている。

 場所はここから一キロほど離れた小屋の中。


 誰もいないから自分自身で取りに行かなければならないけれど。補充の人と出会わないように時間が決められていること以外は結構自由で、欲しいものは注文票に書いておけば大抵叶えてくれたりする。

 意外と至れり尽くせりなのだ。


 私はころころと台車を押しながら整地された道を歩く。

 雑草を抜いたり、石を退けたり、花を植えたり、道の手入れもちゃんとやっているから躓くことはない。


 今日は実に気持ちの良い天気だ。

 木漏れ日から差し込む光が心地よい。ふんふん、とつい鼻歌を歌ってしまいながら足を速める。


 なんたって今日は長年購読している小説「バラの乙女たち」の最新刊が届く予定なのだ。

 架空の王宮を舞台に三者三様の恋物語が展開される大人気ロマンス小説。中でも真面目なアイシャのお相手であるユーリーン王子が本当に素敵で、私は彼に夢中だった。


 金髪碧眼のゆるい雰囲気を纏ったお兄さん。普段は飄々としていて頼りないが、裏の顔は国を守るためならどんな冷酷な任務も顔色一つ変えずに行う正義のヒーロー。もっとも、作中では悪役っぽく描かれているのだけれど。


 誰よりも正しいのに間違っている人――確か、アイシャはそう評価していた。

 けれど私には理想の王子様に見えた。


 彼ならきっと私が世界を呪ってしまう前に、幸せな夢を見せたまま魔女の役目から解放してくれる。それが仕事だと割り切って、なんの躊躇もなく、心も痛まず、一思いに殺してくれる。

 そんな気がするのだ。


 悪い魔女を殺すのはいつだって王子様の役目。

 その行為は絶対に正しいものだから、傷付くような優しい人には背負ってほしくない。情に流されず、業務として処理されるくらいが丁度いい。



「前巻、とってもいいところで終わっていたのよね。危険な任務へ赴こうとしているユーリーン王子をアイシャが必死で引き止めて……か、壁に、ドンって……」



 思い出したら顔が火照ってきてしまった。



「ど、どうしよう。まさか付き合ってもないのに抱きしめたりなんて……ああああユーリーン王子それはまだ早いです!」



 頭の中の妄想をかき消すようにぱたぱたと腕を振る。

 いけないいけない。落ち着け私。読む前から興奮してどうする。ふうと息を吐いてまた台車をころころと転がす。


 でも恋愛をすることなんてこの先一生ないだろうから、こうやって疑似体験できるのはとても楽しかった。作者の先生には感謝しかない。



「おっと、もう着いちゃった」



 だいたい十五分ほど歩いたら目的の建物が見えてきた。

 木でできたなんの変哲もない小屋。しかし、道のを塞ぐようにぽつんと建っているのでとても目立っていた。

 ここが境界。これ以上は人間の土地。


 だから小屋にはあちら側とこちら側とで扉が二つあり、あちら側の扉には魔女が決して外に出られないよう特殊な鍵がかけられている。あの鍵が開く時は、この小屋に日用品が運び込まれる時だけである。

 ちなみに、この小屋以外の境界には結界が張られているので、もし空が飛べたとしても逃げ出すことは不可能だ。私は魔女の責務から逃れたいと思ったことはないのだけれど、人間に会ってはいけないのだから仕方のない。うっかり迷い込まれても困るし。


 扉を引いて中に入る。

 壁に沿って設置された棚には、三日分の食料や日用品、頼んでおいた小説などが並んでいた。私はうきうきとそれらを木箱に入れて台車に運び込む。

 一つ一つは軽いものでも、全部あわさるとかなりの重さだ。軽々と木箱を持ち上げる私は、傍から見れば物凄く力持ちに映るだろう。もちろん、そんなことはない。魔女だって腕力は普通の少女と一緒。ではなぜこんなにも軽々持ち上げているのかといえば、この木箱には腕力のない人間でも楽に運べるよう、特殊な仕掛けが施されているからだ。重たくて苦しくて、魂が曇っては大変だもの。

 教会はこんなところにも気を使ってくれている。


 そういえば、この間うっかりお皿を割ってしまったのを思い出す。ついでに頼んでおこう。壁に紐で吊るしてある紙――注文票から一ページ剥ぎ取り、お皿、中サイズ、一枚、と書く。あとは向こう側の扉に設置されているポスト穴へ投函するだけだ。

 また三日後くらいに届くだろう。



「さて、と。用事が全部終わったらバラ乙の時間! 頑張って終わらせるぞ!」



 バラの乙女たち、略してバラ乙だ。

 教会の管理下で過ごしていた頃、私の世話役を担ってくれていた修道女見習いの女の子から、巷ではこうやって呼んでいるのだと教わった。懐かしい記憶だ。誰もが心の奥底で魔女に近づきたくはないという感情を抱えている中、彼女だけは花のような笑顔で話しかけてくれた。今も元気にしているだろうか。

 本の感想が言い合えないのは少しだけ寂しいけれど、あの子が元気でいてくれるのならばそれでいい。あの子のような優しい人が魔女の災厄に巻き込まれないように。私は日々、人間の幸福を願いながら心穏やかに過ごすのだから。

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