2−3

 さくらがきりっと顔を上げ、指をくわえた。一瞬だけひゅっと甲高い笛の音が鳴り、背後にすたっと人影が降り立つ。頭からつま先まで灰色の全身タイツ風の、ローズ達と比べられそうな小柄な少年――さくらの弟の卯場流プロ忍者・平太が、拝跪するように片膝をついている。

 背中を向けたままで、さくらが語りかけた。

「今日ここまでの経緯は聞いてますね?」

「はい、姉上」

 まだあどけなさが残る変声期前の声で、少年が低く答えた。

「私の方はいいから、これより直ちに優理枝様の元へ向かいなさい。今日に限り、あの方の不規則行動は逐一報告するように。あと、不審な接触を図る者が現れた時も直ちに連絡、その様子を徹底的に記録して……いえ、少しお待ち、平太」

 片手で制止すると、さくらは少年と正対した。

「今一度訊きます。お前が、科学部室で優理枝様にむざむざ接近を許したその男、殺気も邪気も感じられなかったというのは、まことに?」

「はい、恐れながら。姉上のご指示は、優理枝様からあらゆる悪意を遠ざけよ、とのことでしたので、手前も――」

「言い訳はよいです。それよりも、確かにその男は……その……いかような意味でも、姫に手出しなどはしなかったのですね?」

「それは確かに。紳士的、と申し上げてもよいかと」

「その男がこれまでに姫の身辺に潜んでいたことは? 不確かな可能性でもよいです。昨日の夕刻以前はどうでした?」

「手前の記憶にある限り、初めて見る顔でした。昨日も、学院でも『萌えの湯』でも、一切現れておりません」

「分かりました。行きなさい。次に会ったら直ちに確保するように」

「御意」

 ひゅっとロケット花火のような効果音を立てて、少年は飛び上がった。姉弟の愛情あふれる交流を見守っていたローズ&マリーが、上を見、周りを見回して、さくらに尋ねた。

「ねえ、さくら」

「聞いてええ?」

「何です?」

 ちなみに今日の二人は、ペールグリーンの社員服風タイトスーツに合わせて、OLっぽくロングをストレートに下ろしている。装飾品の微妙な違い以外では全く区別がつかない。

「あの子、いつもどこから出てくるん?」

「どこに消えよるん?」

「天井裏」

 即答するさくら。もう一度双子が本部テントのキャンバスを見上げた。薄っぺらい麻布一枚が、ただ風にぺらんぺらんとはためいている。二人は諦めたようにため息をついて、

「ま、卯場流忍術の奥義は」

「この際どうでもええとして」

「今の会話で一つ気になったんやけど」

「一つ答えてほしいんやけど」

「何?」

 心持ち、イラついた声でさくら。急に目元を暗くすると、双子はステレオ音声で質問をぶつけてきた。

「「あの子、昨日の『萌の湯』でも、うちらをずっと眺めとったん?」」

「…………」

 槍ヶ岳の頂上で「俺の青春を返せー!」と叫んだ声が、何十もの山びことなって飛騨山脈の峰々に吸い込まれていくだけの時間が、たっぷりと経過した。さくらは二人に背中を向けたまま、姿勢も変えない。が、心持ち、肩の筋肉がこわばっているようにも見えた。

「「ねえ……さくら?」」

 二人の声が一オクターブ下がった。俗に言う、「腹の底からの声」というやつだ。さくらは一つ咳払いをすると、ことさらに明るい声音を作ってみせた。

「卯場に生まれた者は、みなことごとく香好の影。今の執行委員会は、みな香好の姫君の随臣。主君の影が随臣の裸を見たとて、何を騒ぐ必要がありましょう?」

「詭弁や!」

「論理のすり替えや!」

 双子が拳を振り上げる。二人へ向き直ったさくらは、口元だけでにっこりバカ丁寧な曲線を作った。顔の上半分は異様にのっぺりとしていて、ほとんど能楽の女面そのものである。

「そう目くじらを立てずとも、あれに邪心はありません。浴室の女性の裸体など、ケモノの裸も同然に受け止めております。わたくしがそう教育しました」

「そういう問題やない!」

「ちゅーか、もっと問題やん、それ!」

 じりっと双子が一歩詰め寄ったところで、さくらの携帯が鳴った。「失礼」とわざとらしい断りを入れて、オンにする。

「はい……え?……何で!? いったい指くわえて何を……ギガントパレス? まさか……ええ……ええ……分かりました。私も出ます。あなた達はそこで待機してて!」

 何やら急展開が起こっているのは分かったのだろう。双子の姉妹が、一応の物わかりのよさを見せて矛先を収め、短く尋ねた。

「何?」

「また優理枝っち?」

「……大ムカデの採集準備に時間がかかるのにしびれを切らして、ついさっき現場を飛び出したって」

 さくらの唇が引きつっている。これから優理枝が戻るという話でないのは明らかだ。

「それで?」

「どこに行ったん?」

「今度はギガントパレスに急行中ですって! 仕事ほっぽってサルと仲良しになるつもりなのよ、あの放蕩娘は!」

 今朝になって突然ニホンザルの来襲を受け、敷地内の庭園をすっかり占拠されるという「自然災害」に見舞われているのが、或摩ギガントパレスである。サル達は露天風呂付きの温泉浴場へも侵入を果たし、関係者も弱り切っているという。適当に蹴散らせばいいのだが、ホテルには某国際環境保護信仰団体の大物が滞在中だそうで、うかつな真似はできかねるとのことだ。むろん、その冗談のような間の悪さが偶然などであり得ないことを、さくらは看破していた。

「もう許せません! 行事進行への支障は回避できているとは言え、総務として、香好の跡取りとして、これ以上の醜態を衆目にさらせるものですか!」

 肩をいからせ、陽炎まで上げながら部屋を出ようとするさくらに、双子の片割れが落ち着いた声で語りかけた。

「なあ、さくら。交通局もギガントパレスも或摩の稼ぎどころやん」

「だったら何!?」

「ほんで、ユリユリは超弩級の生物オタやろ?」

「だから!? 手短に言って!」

 ローズがいつになく思慮深い瞳で自分を見ているの気づいて、さくらはのれんに掛けた手を止めた。

「今朝から続いとるあっちこっちの騒ぎ、やたら動物絡みのケースばっかりやけど、この或摩であの子より早う確実に処理できる人間って、他におるか?」

「なるほど」

 マリーがぽん、と手を叩いた。

「優理枝っちの好きにさせた方が、却って万々歳やな」

「そう言うこっちゃ。本人にどこまで自覚あるかは別にして、総務の大活躍ってことで、美談にも持っていける話やで、これは」

 秒針半周分の沈黙を置いてから、さくらは、つい、と視線を逸らせた。

「二人とも、ギガントパレスに回って。あなた達の方が色々気が利きそうだし。……しっかりサポートして差し上げてちょうだい」

 拗ねたようなさくらの口元を見て、双子はそっと笑みを交わした。



 峰間翔雄は彫像のように動かなくなった。セシルの前で突っ立ったまま、何もない斜め上の空間をじっと睨みながら黙考を続けているようだ。

 なんだかこのまま何十分もシーンが切り替わらないような気がしてきたので、杏は恐る恐る声をかけた。

「あの、先輩、領家りょうけ帯って何ですか?」

「地質区分の名前。領家変成帯とも言う」

 思いがけず、翔雄は即答した。呼びかけても返事もしないんではと思っていた杏は、わずかに目を見開く。

「西日本の、中央構造線の北側の、瀬戸内海を囲むような感じで東西に延びてる岩石帯で、このへんだと――」

 杏の目が泳ぎ出したのを見て取ったのか、翔雄はソファに腰かけ、テーブルに置いてあるメモ用紙を一枚はぐって、地図のようなものを書き始めた。近畿地方全域の海岸線の輪郭をささっと描き、琵琶湖と淡路島を描いてから、紀伊半島の真ん中あたりで東西に横断する線を入れる。

「これが中央構造線」

「はあ」

 何の線で何の構造なのかまではさっぱりだが、そういえば地図帳でそういうものを見たような気もする。翔雄は続けて、中央構造線の上に三本ほど平行線を書き入れた。幅はまちまちで、よく見ると平行でもないのだが、そうやって区切った横長の区画のうち、伊勢湾から奈良北部・大阪府・淡路島がまとめて入りそうな真ん中付近の帯をとんとんと叩いて、杏の方を見た。

「ここが領家帯。これ見て何か気づかないか?」

「え? ええと」

 説明してもらった以上、何か言わないわけにはいかない。少し焦った杏だが、幸いすぐに答えはひらめいた。

「あ、六甲山がぎりぎり……入ってる?」

「そう。厳密にはぎりぎり入ってないぐらいなんだけど、この変成帯って地下で北側に傾いてるから、六甲山の地底は領家帯の岩石だと言っても、まあ間違いじゃない。……他に何か気づかないか?」

 そう言って翔雄がセシルの方を見やる。セシルはぼーっとテーブルの上の地図を眺めるばかりである。その間抜け面のおかげで、というわけでもないのだけど、今度も杏は翔雄の言いたいことがすぐにわかった。

「千津川は領家帯から外れますけど……先日出かけた『やまもみじ』のあたりって、ギリギリ入ってます? あ、じゃあ領家帯の南端部って、あの旅館のあたり――」

「そういうこと。領家帯という括り方をする限り、うちと水枯さんのとことは地質学的には一応共通の話題がある」

「では、あのへんの地下で……超……長周期……の、地電位? が変化したのって」

「そこがよくわからない」

 翔雄が微かに眉根を寄せた。情報を慎重に吟味しているというよりは、単純に手に負えない課題にぶつかって、思い切り不機嫌になっているという顔だ。

「こんなテーマ、大学生以上の研究課題だって。僕はただの高校の地学部員だよ? 地電位がどうしたとか、いきなり振られてもわかりゃしないよ」

「で、でも、だったら」

 どうして昆野さんの報告に、そんなに目の色を変えて食らいついてるんですか、と訊きかけた杏を、「ただ」と翔雄が遮った。

「ちらりと読んだことがある。地電位観測って、地震予知の目的でかなり前から研究が続いているんだけど、実際は雷の電気とか地球の磁気変動の影響とか、はたまた電車やら工場やらから漏れてくる電気の影響とかでノイズだらけで、純粋に地殻変動を電気的に観測すること自体が、まだほとんどできてないって」

「そうなんですか? でも」

「そう。……そんなレベルの研究領域のはずなのに、なんで水枯さんが『超長周期の地電位変動を観測』なんて報告を出せたのか。……それと、ジジィも」

 なんでそんな報告を受けられる状況になっているのか。きっとそう言いたいのだろう。

 どうやら事の真偽を確認するだけで専門家レベルの知見が必要な話のようだけれども、そこは念を入れていても仕方がない、と思う。

 とりあえず、その地電位変化とやらが、セシルの言葉通りにクリアに観測できたものとして、かつ諜報機関のトップ同士が慎重にやりとりしなければならないほどの価値がある情報だとすると、その意義は――

「あの~~」

 深刻な疑念とは真逆の雰囲気の声が、二人の間で上がった。機密をうっかり漏らしたというのに、セシルの表情はまるで緊張感がない。

「なんか難しゅう考えるのは結構やけど、あたし、今のこと、峰間学園長に直接報告せんとあかんくて……会いたいんやけど、どこ?」

 翔雄が杏を見たので、即座に、私は知りませんよ、と首を振った。今回の学園長は自ら活発に飛び回っているようなので、おそらく今現在は学園にもいまい。ダメ元で下っ端の立場からのメールを送るしかないが、そもそも翔雄なら直接電話ぐらいできるはず。

「そりゃ連絡つけようと思えばすぐにつくけど……」

 イヤそうな顔でグズる翔雄。こんな場面で直通一本の手間ぐらい惜しまないでほしい。そんなに学園長と言葉を交わすのがイヤなのか。

 ふと、杏はひらめいた気がした。

「先輩、こういうことはさっさと片づける方がいいと思います」

「え? いやまあ、そうだけどさ」

「ちょうど私も学園長に会って確認したいことがあるんです。ご一緒しますから、できればこの午前中のうちに会見をセッティングしていただけないでしょうか?」

「君が? ……まあ、千津川のついでもあるし、そういうことなら」

「どっちがついでやねん! って言うか、うちのこれ、極秘会見で口頭報告せんとあかんもんなんやけど!」

「今さらだろう。そもそもそっちが勝手にぺらぺらと」

「そそそ、それは峰間が再会早々にイケズな精神攻撃を」

「ええと、いいですか、昆野さん? そういうことなら不可抗力で私たち二人がその情報を耳にした、という状況にすればいいのでは?」

「……どないするっちゅうねん?」

「ちょっとした考えがあるんです。これから三人でお出かけしてですねえ、あ、遊びに行くわけじゃなくてぇ、あくまで作戦の一環なんですけどぉ、まあ変則デートを擬態する? みたいなぁ?」

 デート、という言葉に、セシルの目がぎらんと輝いた。よし、かかった、と杏がこぶしを握ったちょうどその時、まさに杏が心中で妄想したようなお出かけコーデをばっちり決めた女生徒が一人、鼻歌交じりに玄関へと向かっていった。見た感じはどこかのお上りさん観光客そのまんまだ。あれ、ここってうちの貸し切りだったはず……と〝女生徒〟を注視した杏は、ひぇっと息を呑んだ。

「ま、真知……? お前、どこ行くんだ?」

 翔雄も一瞬見違えたようで、呼びかけの語尾が半疑問形になっていた。

「ん~~~? あれえ、セシルやんか。お久~~~っ」

 湯塩真知は元気いっぱいだった。昨晩に深刻な心理クライシスを経験したのが嘘のように……というか、いつになくハイになってるような感じである。

「元気してたぁ~? なにィ、或摩と滝多緒のドつきあい、わざわざ見物に来たん~? もの好きやなぁ~~」

 そうまくし立ててケラケラ嗤う。翔雄と杏と、セシルも加わって、つい無言で顔を見合わせてしまう。三人とも、眉根に思いっきり力が入っていた。





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