1−19
誰もいない大部屋に引き上げてようやく一人になれた翔雄は、奥の布団にごろんと横になると、改めて今日一日のことを思い返した。
組織のヘッドとして、何か危険な見落としがないかとか、そういうことを考えたいのに、夕方以降の流れはそもそもの発端からして意味不明で、考えるだけアホらしくなってくる。どうせ再検討したところで今の自分が介入できるものでなし……などと自嘲気味に結論し、自然、意識は直近の記憶へと向かった。真知と杏とにサンドイッチにされて一時間もみくちゃになっていた体験は、今後しばらく夢でうなされそうなほどの強烈なインパクトを翔雄の心理に及ぼしていた。
(ってか、いったいありゃどういう種類のトラブルだったんだろう?)
恋愛騒ぎ、というくくり方で一度捉えてみたものの、蛎崎先輩の話し方だと、なんかそういうものとも違うような……なにやら恐ろしく複雑な話をしていた空気といい(いつの間にか料理の話題になっていたようなのは何だったんだ?)……あれは好きとか交際したいとかいうような世界とは全く別次元の問題ではないだろうか?
組織の中で起きる人間関係的なトラブルだったら理解は難しくないのだけれど……あんな奇々怪々な、異常と言っていい行動を真知も杏も取っていたということは…………まてよ、ストレスか? 何か僕が把握できなかった種類のストレスが二人に強くかかってしまったんで、憂さ晴らししたかったという?
(うーん、だとしたら、これは労務管理の問題かな? あるいは医学上の問題?)
そういう相談ができる身近な人間って、いないんだよなー、などとちょっと悩んでいると、唐突に甲山博士の顔が浮かび、半ばそれを打ち消す形で、聖泉学院科学部長の彼女の顔が脳裏に現れた。
「あ、しまった」
即座にメアドを交換していたことも思い出し、帰ってから全然着信を確認してなかったことに思い至って、慌てて端末を取り出す。ちょっと緊張気味にメール画面を開いた翔雄は、すぐにほっとした顔で口元をほころばせた。
――今日は部室に来てくれてありがとう! さっそくだけど、イベントの期間中に、またお会いすることはできませんか? アリマガエル(命名しました *^^*)の検証実験を早くやっておきたくて。そちらの都合を教えてください。
端末を胸に押し当てて、じんわりと幸福感を堪能する。そうだよ、と心の中で深く頷いた。
(こういうのが恋だよな。ストレスなんかとは無縁の。幸せで、前向きで、すごく……そう、特別な感覚)
任務中にこんな浮かれたことをしていていいんだろうか、という疑問は、胸の底でずっとわだかまって滞留している。でも、作戦の要でも責任者でもないという今回の立場が、翔雄をいつになく開放的にしていた。たまには僕だってプライバシーを持ってもいいじゃないか、との気持ちもある。
誰も戻ってこない大部屋の片隅で、翔雄はじきに返信メールの文面に没入していた。
「これで記録は全部です。映像処理すれば、もう少し鮮明に顔が出ると思いますが、どうしますか?」
「いえ、結構。これだけ確認できれば十分です。ご苦労さまでした」
代わって或摩聖泉学院の警備室。構内の記録映像を一元管理している部署のスタッフに、不審人物の照会をかけていたさくら達は、いくつかの映像を確認しただけで、満足してその場を引き上げた。科学部室に現れた男子生徒は、簡単なチェックで学院の生徒ではないことがはっきりしたからだ。
慌ただしく踵を返すと、三人の女生徒は足音も高く執務室へと戻っていく。標準体型のさくら、女子相撲部の主将かと見紛いかねない璃亜、小学校の見学生と即断されそうなマリーが並んで歩くと、たまにすれ違う教員や生徒が、なぜか揃って口元に手を当てる。
「あいつら、大・中・小とか、腹の中で笑っとるんちゃうんか」
鬱陶しそうにマリーがぼやくと、一瞬璃亜が首元を痙攣のように震わせ、咳払いして、冷静に調査結果を総括した。
「さっきの記録映像ですが、柳堂先輩が遭遇した相手はほぼ滝多緒のエージェントと言っていいでしょうし、同じタイミングで現れた他校生が、無関係の別組織などということは考えにくいです。状況的に、あれが評議会議長、峰間翔雄と見て間違いないかと」
「ふうん。殊勝な話やん。うちの総務に会う以上は、トップ同士やないと失礼やって思うてくれたんやろ? 何がしたかったんか知らんけど、礼儀正しいやっちゃ」
なおも軽口を叩くマリー。さくらは黙って前を歩いている。後ろに従っている二人もろくに意識していないような足取りで、せかせかと特別活動棟に戻り、あともう少しで執務室という場所で急に足を止めた。
「先に戻って。私もすぐに行くから」
そっけなく言うと、そのまま直交している廊下を曲がり、人気のない特別教室の並びを奥へと進む。もう少し先は学生食堂だが、さくらは薄暗い廊下の真ん中で静かに立ち止まった。
怪訝な顔をした璃亜が、「ははあん」という顔をしているマリーを見下ろして、尋ねた。
「卯場先輩は何をなさるつもりなんですか?」
「まあ見ててみ。めったに見られんものや」
背後で璃亜とマリーがこちらを窺っているのは充分承知だろうに、さくらは特に気にする素振りもなく、曲げた指を口に当て、ひゅっと笛のような音を発した。
その刹那。
それまで何も存在しなかったはずのさくらの背後に、ふわっと人影が現れた。全体的に灰色っぽい全身タイツのような装束で、ローズ&マリーほどではないにしても、小柄な体躯だ。
「えっ、あ、あれは!?」
押し殺した声で驚きをあらわにする璃亜へ、ドヤ顔でマリーは笑みかけた。
「あれがうちの生ける伝説、
「えええええ、あの子が!?」
さくらの弟である。ちなみにちゃんと血はつながっているらしい。中等部二年だが、さくら同様、卯場流忍法免許皆伝の身で、或摩執行委員会公認のプロ忍者である。優理枝の警護の専任役として、もう二年前から(文字通りの意味で)陰ながらずっと総務に張り付いているとのことだ。もちろん執行委員会にも所属しているのだが、任務中の彼をまともに見た者はほとんどおらず、委員の間でもその存在が疑われているほどだった。
「え、でも、わざわざ平太くんを呼び出して、卯場先輩は何を?」
「そら、さっきの科学部室の中でのこと、いろいろ確認してるんとちゃう? 『お前の見た限りにおいて、その男の
「はあ」
「まあ、平太が何も手ぇ出さんかったんやから、その峰間っての、少なくとも敵意はなかったんやろな。そやから、多分次は『部室で何を話し、何をしようとしていたのか、もらさず報告せよ』とか言うてるんちゃう?」
「な、なるほど……え、あれ?」
二人が見ている前で、平太の姿が急にかき消えた。どうやら接触が終わったらしい。戻ってきたさくらに、マリーは悪びれもせず、
「で、どうやったん? 何話してたって?」
ちょっと嫌そうに、じろっとマリーを睨むさくら。
「知り過ぎた
「それ、あんたらもやんか。ええやん、先行き短い近習同士、教えてや」
「まったく……別に、大したことはわからないままよ。だいたい、あの子が優理枝様のしゃべる内容についていけるわけないでしょう。なんだか科学部っぽい難しい話してた、としか」
「なるほどね。……ってことは、その峰間っての、部の見学装って、挨拶に来ただけやったっちゅうことか?」
「そういう結論になるけど……わざわざ敵の奥深くに入り込んで、挨拶だけなんてバカな諜報機関がいると?」
「案外、総務のスローペースに流されただけなんじゃないですか?」
なんとなくぐだぐだな方向に流れている会話を続けながら三人が執務室へと戻ると、優理枝はまだ帰っておらず、やたら真剣な目つきの大歩が、備えつけのノートパソコンを独占して何かの作業に没頭している。横でスマートフォンも操作しながら、何人もの相手と並行して連絡を取っているようだ。
「これはこれは。柳堂の御曹司のかくも熱心な精勤ぶりは、初めて目にした気がするな」
冷やかすさくらにちらっと視線を投げると、大歩が画面に向かった姿勢のままで、ぼそりと尋ねた。
「侵入者の正体は割れたのか」
「え? いや、特定には至らなかったが、まず九十九パーセント、滝多緒だろうと」
「それだけか?」
「夕方に配布した情報以上のことは、未だ分からぬ。タイミングがタイミングだし、今日はこれ以上深堀りできんだろう。なにか仕掛けてきた時の態勢を万全にしておくとしか」
「ふむ……まあいい。こっちはこっちでやらせてもらう」
その時になってようやく三人は、大歩の、常にない昏い表情に気がついた。さくらが足を踏み出しながら詰問する。
「ちょっと待て。さっきから何をしている?」
「お前たちには関係ない。これは俺個人の復讐戦だ」
おちゃらけた空気など微塵もない、すっかり入れ替わったキャラを全身にまとい、なおも何かの準備に余念のない大歩。さくらは軽く鼻を鳴らすと、一応納得の構えを見せた。
「そういうことか。……あまり『或摩オータム』に影響のないようにしてもらいたいものだがな」
「企画の仕込みはすでに完了している。学院に迷惑はかけない」
「結構だ。まあ、ついでに滝多緒の行動目的まで探れるなら、執行委員会としても殊勲賞の一つぐらい贈呈してやる」
わずかに冷笑のようなものを頬に浮かべながら、大歩は頷いた。
「いいだろう」
何人かがすでに就寝している女子の大部屋で、杏はまんじりともせずに天井を睨み続けていた。
(今日は何もかもが失敗だったって感じ――)
思い返すと、聖泉学院での張り込みで不意に気温が冷え込んだ時があったのだけど、まずあれがいけなかった。土地勘の全くない場所で、いつ出てくるかわからない相手を待ってて、いつになく侘しさが増してしまったのだろう、なんだか急に「あったかいものがほしい!」って思ってしまった。食べ物じゃない。もこもこのオーバーとか。毛布とか。寝袋とかそういうの。もちろん人肌の。というか、熱量補給用の人体がセットになってなきゃだめ。いや、なんなら人体だけでもいい。可能ならその人体はハグして嬉しい人物であるべきで。たとえば、そう、み、みねません――
「かはああぁぁぁぁっ!」
つい声を上げて布団の中でもんどりうってしまう。なにごとっ!? とこちらを凝視する就寝間際の女子メンバーが何人か。もっとも、杏が知らん顔して狸寝入りしたら、すぐに視線は剥がれたようだったが。
(何考えてんのよ、私はっ)
いや、確かにあの時、そんな妄想もしてた。それはほんと。ちょっとポッとなって物陰でもじもじしてたら、そう、まさにそのタイミングで4WDのご立派な車両で飛び出てきやがったのよ、あの議長は!
私がどれだけショックだったか。夜闇の寒気の中、ハグの妄想だけをせめてもの慰めにしていたのに、その本体の現物が秒速十五メートルで遠ざかっていくのを目の当たりにした衝撃!
許せない、と思った。宿に帰ったら絶対要求してやるって思った。何を? もちろんハグ……って、さすがにいきなりじゃ強引すぎるから、せめて背中。「寒かったんです。先輩、ちょっとだけ背中貸してください」って、これなら言えそうかなって。私は先輩のあったかい背中をたっぷり堪能して、そしたらちょっと戸惑ってた先輩もだんだん面白がって、「なんだ、衛倉って案外甘えんぼだったんだな」なんて笑いかけたりとか――
「はうううぅぅぅっ!」
こぶしで敷布団をどんどん打って身もだえしてしまう。大部屋中のメンバーが一斉にこちらを注視しているのが感じられた。杏が三十秒石になっていたら、とりあえずみんな元には戻ったけれども。
(と、とにかく、その妄想だけで、気力を持たせられたのは確かなのよっ)
帰り道はひたすらシナリオを頭で練って、でも先輩と顔を合わせる時は思い切り不機嫌な姿を演出する方がいいと思ったから、けんか腰で宿の扉開けて、文句の嵐ぶつけながら、まっすぐ議長にアプローチしようとした、のに。
まさかあんなことになってたなんて。
……私の初めての「背中、貸してください」だったのに。
まあ、湯塩先輩は先輩で結構いっぱいいっばいだったみたいだし、間が悪かったと言えばそうなんだろうけど――。
ゆっくり静かにため息をついて、杏はしばらく間、天井の板の模様をじーっと見つめていた。ようやく落ち着きを取り戻してから、改めて冷静な分析にかかる。
(いいや、もう。今日は今日で終わったんだし)
――そんなことより気になるのは、第三極の動きがいつになく前に出てきているような気がすること。
滝多緒の中もなんだか訳のわからないことになっているし、或摩も確かに強敵だとは言え、どうも動いているのはそれだけじゃない。今のところ、はっきりしたアプローチはないものの、疑いだしたら気になる相手はいくらでもある。あの甲山など、実に怪しい。何者?
そのあたり、学園長は絶対何かを知っている。私を極秘指名して峰間先輩の内諜を命じてきた時は驚いたけど……これは私にとってもチャンス。この機会に滝多緒の深部に肉薄できれば……。
とにかく、明日。
ちょっと色々イラついてバカもやっちゃったけど、明日、ちゃんと仕切り直して。
学園長には正攻法であたってみよう。時間があったら或摩側にも探りを入れて。
滝多緒・或摩が全面的にぶつかってくれたら、色々面白いことにもなるでしょうし。
それで、奪う情報が奪えたら……その時は……ちょっとぐらい…………恋も、いいかな……。
――午前零時。衛倉杏は幸せな予感の中で、静かに寝息を立てていた。
日が明けてついに或摩オータム、その初日。
いくつもの思惑が錯綜する裏六甲で、事態はいよいよ風雲急を告げようとしていた。
滝多緒、或摩、及びその狭間で暗躍するいくつもの影の勢力。
華やかな宴の果てに笑うものは誰か? この時点で、数日後の未来を予測し得た者は、一人として存在しなかった。おそらくは、神すらも。
……そして、そんな混迷の裏六甲に、遅れじと足を踏み入れる命知らずのエージェントが、ここにもう一人。
「おー、悪いな、りんたろー。いつもやったらとっくに寝てる時間やろ?」
「大丈夫や。俺かて、もう十三歳やで」
深夜のJR滝多緒駅で、幼い声が半トンネル式のプラットホームに反射した。まばらな乗客の何人かが微笑ましそうに、何人かは少し心配そうに通り過ぎていく。
傍目には姉弟にも見えるその二人は、意に介せずてくてくとホームを降りると、そのまま暗い夜道を歩き出した。「大阪梅田から三十分の秘境」として知られる滝多緒は、駅周辺でもコンビニ一軒すらない、山の中の無人駅的な雰囲気まで呈しているド田舎だ。
「いやー、すまんな。尼崎で乗り換えるの、電車間違えて」
「それ、みんなやるねん。俺も最初間違えた」
「ほんで、夜やから本数も少ないし」
「気にせんでええって。これでも諜報留学してるんやし。歩くぐらい平気や」
「そ、そう?」
「うん。終バス終わっても、タクシーみんな帰っても、自分のボスほったらかしになんかできへんやん。ほっといて帰ったら後々面倒やし。ええねん。夜道を二、三キロ歩くぐらい、修行や思うて」
「ちょっと、恨みごとやったらはっきり言いや。って、二、三キロも歩くん? 滝多緒の観光エリアって、そんなに遠いん?」
「そやで」
「ほんで、そんな遠くから来てるのに、誰もついてきてくれんかったんかいな?」
「うん」
「そんなはずないやろ。学園に顔出したら、声かけてくれる奴の一人二人」
「あのなあ、この際巻いて話進めるけど、今、評議会の人らって、みんな出ていっておらんねん」
「はあっ!? おらんって、どこに!?」
「或摩やて。或摩オータムっていうのにちょっかいかけに行ってるから、何日間か戻らへんって」
「そんなっ! 聞いてへんで!」
「そら、誰も部長にいちいち断わっとこうとは思わへんやろ」
「なんでっ! あたしやで? あたしみたいなキャラが、わざわざ滝多緒に来てやったんやで? やのに」
「あんな、これもこの際やから話飛ばすけど、二十話やで? 俺ら、もう二十話も登場してへんねんで? 一時期、再登場はないなんて言われた身の上なんやで? みんな忘れてるで? 最近読みに来た人とか、『誰だお前』って、今この瞬間もツッコミ入れてるで?」
「ゆ、許っさん!!」
それはちょうど二人が観光地区への最後の角を曲がった時だった。深夜なのでいくらか明度は落ちているものの、いくつものネオンの明かりは、まるで千津川観光学園からの二人のエージェントを歓迎しているかのように、きらびやかに明滅していた。
勝手にヒロイン気分を満タンにすると、近所迷惑も顧みず、昆野セシルは雄叫びを撒き散らした。
「おお、行ったろやないか! 或摩やて? 押しかけたる! ほんで、あたしをガン無視した件、徹底的に問いただしたる! 待ってろや、峰間翔雄ーっ!」
――かくて、或摩オータムの恐るべきカオスは、
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