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 滝多緒の宿泊所にその人物が現れたのは、十時をだいぶん回った頃だった。なおも真知と杏からもみくちゃにされ続けてすっかり観念しきっていた翔雄は、引き戸をがらっと開けて現れた相手の顔に、年に一度も出さないような素っ頓狂な声を上げた。

蛎崎かきさき先輩!?」

「んん? なんだ、トビ助。おっと、こんな場所で両手に花たぁ、やるな、おめー」

 そう言ってかかかと笑う。同行してきたガラの悪そうな面々も、ヒューヒューと冷やかしながら品のよろしくない言葉を次々に投げつけた。

 一応引退したことになっている、評議会の三年生たちだ。蛎崎迅悟じんごは先代議長である。春先に、高等部へ上がりたての翔雄へ議長職を押し付けて以後、悠々自適のモラトリアム生活を決め込んでいる超マイペース上級生だが、一ヶ月前の作戦ではゾクまがいの仲間を引き連れて千津川のオートバイ部隊と派手な大立ち回りを演じたり、それなりに評議会のサポートはしてくれている先輩ではある。

「えっ、ど、どうしたんですか、こんな時間に?」

「ああ、そういや今回のお前、仕切り役じゃねーんだってな。なに、仕込みの裏方よ。でかい荷物とか色々あるんで、免許取り立ての俺らまで駆り出されてるってわけ」

「仕込みって、一体――」

「そこは気にすんな。とにかく、休憩所確保してるって聞いたから、ひとっ風呂浴びていこうってことになってよ。ちょっと寄っただけだ。夜中には帰るから、部屋とかはいらねーんで。じゃっ、あとは若ぇもんだけで朝までごゆっくり――」

「いやっ、あのっ、先輩、助けてください! 一生の頼みです!」

「ああああん?」


 十分後、いったん食堂の隅に移った翔雄たちは、迅悟を囲む形で安物テーブルについていた。

 一時間に渡った謎の乳繰り合いは、迅悟のひと声で即終了した。一応は武闘派のヤンキー議長だった人物である。そんな強面の先輩から、「おう、ちぃと場所移れや」と顎で促されれば、真知も杏も行為を中断して黙って従うしかない。

「まーったく、トビ助が必死こいて『一生の頼み』なんて言うから、何事かと思えば」

 その本人は、しかし至って能天気で、股を大きく開き、気だるそうにテーブルに片肘をついて葉巻型の電子タバコなどくわえながら、翔雄の説明にもただ歯をむき出して笑うばかりだ。

「しっかし、この三人でサカリ合いってか。そりゃ確かにこいつの手にゃ余るわ。ま、トビ助がこんなだから、湯塩も衛倉も安心して抱きついてきたんだろーがよ。そだろ?」

 途端に、真知と杏がそれぞれの表情で気まずそうに顔を逸らす。ちょっと顔が赤らんでいるところまで完全にシンクロしている。

「で、この後はどうすりゃいーんだ? 見ようによっちゃ謀反だろ、こりゃ? とりあえずシメときゃいいか?」

 さりげなく出てきた提案で、三人ともビビったように腰を浮かせた。

「あ、いや、そういうことじゃなくてですね……できましたら、その、さっきのは何だったのか、ちゃんと話が聞きたいと言うか……先輩の判断も聞かせてほしいと言うか」

 すっかり理性派のリーダーの顔に戻って翔雄が自分の希望を口にした。迅悟が残りの二人に顔を向ける。

「だってよ。話せるか、お前ら?」

 なおも気まずそうに沈黙を続ける真知と杏。

「ふん、じゃあ、俺が全部喋っちまってもいいか?」

 真知はちょっと慌てたように、杏はすがるような表情で視線を上げた。迅悟一人、そうだよなあ、と何度も何度も頷いて、翔雄の方を向く。

「トビ助よ」

「はい?」

「この件は俺が始末しとく。おめーは席外しとけ」

「えええっ!?」

 まさか自分が退場させられるとは思ってなかったので、翔雄の声はいやでも抗議調になった。

「不満か?」

「あ、いや、でも、今後のこととかもありますし、僕が話を聞かないままってのは――」

「聞いてもわからんだろ、お前」

 遠慮のないツッコミに、口をぱくぱくさせる翔雄。迅悟の顔は存外マジメだ。なおも何も言えないでいる現議長に、小さく、しゃあねえな、と呟いて、

「だったら、いてもいいけど、口出しはするな。質問もなしだ。黙って俺のやること見てろ。いいな?」

「はい……」

 なんだか思い切りペーペー扱いされてる気分。実際、自分では全く事態に対処できなかったんだから仕方ないけれども、と、くすぶった気持ちのままで翔雄は背もたれに上体を預けた。

「じゃあまず湯塩」

「はい」

「お前がいきなりトビ助を押し倒したところまでは、まあいいとして、だ」

 いいのか!? と翔雄は愕然とした。

「その後の衛倉相手に見せたっつーリアクション、そりゃないだろう。違うか?」

「…………」

「そこはちゃんと謝っとけ。今この場で」

(あれぇぇぇ?)

 もうこのへんで、翔雄はさっぱり話がわからない。どうやら杏が詰め寄ってきた時の真知のフテた態度を問題にしているみたいだけれども――

 一応、翔雄だって頭の中では事態を論理的に把握してるつもりだった。あくまで大雑把な仮説ではあるにしろ、部下の心理ぐらいしっかりつかめてるとの自負はある。具体的に言うと、


a.なぜだか今夜、真知は翔雄に急に恋心を抱くようになった。

b.同じく杏も、先輩たる翔雄への憧れの気持ちが、唐突に恋心へと発展した。

c.ゆえに、二人は翔雄を争う形で争い、しかしガチでタイマン張るのははばかれたので、長イスの上で猫のドつきあいみたいなことになってしまった。


というものである。

 完璧な分析だと思う。

 少なくとも、翔雄が目の前で見た事実と、何ら矛盾している点はない。なのに、この展開はなんだろう? 蛎崎先輩は、何か重大な勘違いをしているのでは?

 などと、眉をひそめた翔雄だったが。

「うん、そやね。……ちょっと調子に乗って悪フザケし過ぎたと思う。ごめん、杏ちゃん」

「はい、承りました」

 神妙な顔で頭を下げ合い、笑顔まで浮かべている真知と杏を見て、翔雄は頭が真っ白になった。迅悟はうっそりと頷いて、

「じゃ次。先に衛倉に訊く。お前、覚悟はあるのか?」

 また謎の質問だ。混乱気味に杏の方を見ると、こちらはその問いかけですべて理解できているようで、唇を引き締めて、恐ろしく真剣な目を安テーブルの表面に投げかけている。

「こういうのは普通、行動は一回きりだろう。結果はともかく、悔いのないようにしねーとな。どうなんだ。お前、今がその時だって確信はあるか? 何より、自分のこれは本物だって言い切れるか?」

 一瞬、泣きそうな顔になった杏は、ゆっくり肩で息をついて、絞り出すような声で言った。

「すみません……まだ……そこまでは……」

「だよなあ」

 これまた何の会話なのか全くわからない。なのに、先代のヤンキー議長は打って変わって優しげな声を杏にかけてやってから、翔雄にはちょっと残念そうな視線で、

「ま、そもそもそれ以前に、トビ助がこれじゃ会話にならんと思うが」

「な、何の話で――」

「いやすまん、気にするな。衛倉の話は、いったんそれでいいとして――」

 改めて真知へと視線を向ける。

「で、湯塩の方はどうよ? だいたいお前、自覚あんの?」

「えっ、や……そ、その……」

 なぜだかやたらと慌てながら、真知が赤らめた顔を伏せた。

「えと……わから、へん……自分でも……ほんまに……」 

「だろな。……ところで、どんな男だった?」

 いきなり話が飛んだような気がして、真知も翔雄も面食らったように迅悟を見た。

「おめーが聖泉で一対一で組み合ってきたっつー男よ。落としてきたんだよな? どんな男だった?」

「ど、どんなって……えっと、すごくキザで……女の扱いに慣れてるっていうか……」

手練てだれのジゴロ野郎ってわけか。そりゃ、うっかりすると、逆に落とされそうなほどってぐらいのか」

「え………………う、うん」

「湯塩よ、お前さ」

 そこで急に迅悟はまっすぐ座り直して、真知の顔を正面から見た。

「さっきのトビ助の話じゃ、敵をオトして危なげなく脱出してきたってことだったが……実際は結構際どい勝負だったんじゃないのか?」

 うっと息を詰めて、真知が固まった。片手で乱れてもいないブラウスの胸元をかき寄せ、戸惑ったような視線を宙に漂わせる。

「まあ、ちゃんと勝負はつけてきたのは間違いねえんだろーがよ。おめーからすると、初めて強敵らしい強敵とぶつかって……ショックだったんじゃねーか? で、色々考えたりとかしたんじゃね? 今日は勝ったからよかったものの、もし負けてたら、とか」

「か、蛎崎先輩!? あのっ」

 何か急に悟るものでもあったのだろうか、真知が取り乱し気味に立ち上がりかけた。が、迅悟はかまわずに、

「んで、もし負けた時に、自分はどんな気持ちになるだろう、とか。そもそも後悔しないで済むものを、今の自分は持ってるのか、とか?」

 真知は答えなかった。ゆがんだ顔で迅悟を見、それから一瞬だけ恥ずかしそうに翔雄を見てから、両手を膝の上に重ねて、唇をかんだままうつむいてしまう。

 電子タバコをくわえなおすと、迅悟は他人事のように締めくくった。

「よくある話だぁ。だからって、お前のさっきまでのアレ、あの行動が、百パー自棄やけになって行きずりの相手にあげちまった、くるわ入り間際まぎわの転落令嬢みてーな振る舞いとは言わねーがね。……案外、ちょっとパニックになったもんだから、自分も知らねーうちに本音が出たのかも――」

「あああああっ! あーっ、あああーっ! も、もう……言わんといて……」

 とうとうテーブルに突っ伏して身悶えまでし始めた真知。その背中へ、杏が無言で痛ましいものでも見るような視線を向けている。

(百パー焼いて揚げた……クルマエビマリネの田楽定食を振る舞う? どこの旅館の実験メニューだろう?)

 一人、翔雄だけは別の言語宇宙を彷徨する羽目になっていた。翔雄とて、世間並みにスラングの語彙ぐらいはあるのだが、疑問符が渦巻く中であれこれ聞いてるうちに、入ってくる日本語のことごとくがバグったらしい。眉間にシワを寄せて悩んでいる翔雄の肩を、ぽんと迅悟が叩いた。手まねで杏にも合図して、黙って退出するよう促している。真知はこのまま一人にしていてやれ、と言うことらしい。

 先輩の予言どおり、聞いていても何一つわからないまま、事態は一応始末がついたようだった。


 その後、迅悟達と風呂に入った翔雄は、一つだけ質問を許してもらった。

「衛倉が、その、ムキになってやたら背中をすり合わせてきたのって、あれ、何だったんですか?」

「ああ、そりゃあな……時々あんだよ。あの年頃の女が男に向かって甘えたい時に、『背中貸してくれ』っつーてな。しなだれかかってきたり、アタマ載せたり、ただ背中くっつけあってじっとしてたり……まあ、ガキが親なんかにベタベタくっついてくるのと似たようなもんかな」

「そうなんですか? 何の意味があるんです?」

「意味ってお前。だから、おんぶとかだっこと同じだって。正面から抱き合うほどの関係じゃねーけど、手をつなぐ程度じゃ物足りないって思った女が、広い人肌感じて安心したいんだろ」

「はあ……。それって、顔も見たくないっていう意思表示じゃないんですよね?」

「なんだ、ンなこと心配してたのか」

 三年生達が力の抜けた声で笑った。気を遣ってやって損した、みたいな空気があった。

「背中を預けますって向こうから言ってくれてんだ。基本的には、嫌っちゃいねーよ。もっとも、今日のアレは、色々と応用問題っぽくなってたみてーだが」

「だから、それはどういう」

「それはおめー、人から教えてもらうものじゃねえ」

 ぶわっと浴場に笑い声が広がった。先輩達のそれからの会話は、より具体的な女性との交友(主に肉体的な)の話ばっかりになって、もう翔雄にはまるでついていけない。結局何も教えてもらえないのと同じじゃないか、と翔雄はむくれた顔でぼんやり天井の湯気を眺めるばかりなのだった。



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