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 同時刻。或摩聖泉学院内特別活動棟執行委員会執務室。

 先刻よりも明らかに重たい空気の中、情報参謀の呉後璃亜がここ二時間ほどの状況変化について、ブリーティングを行っている。

「――というのが、こちらの調べで判明した部分です。警備室からの映像記録から明らかなように、この女生徒は当学院の学生ではない。どうやら柳堂先輩もその点にはお気づきだったようですが……」

 ちらりと璃亜が大歩を見た。先ほどと違って、大歩は妙におとなしく書記席に座っている。一方、総務席の脇の作業台では優理枝がせっせと書類の決裁に励んでいた。

 共にフェスティバル前日の事務処理を滞らせた張本人だが、大歩がまだどこかぼんやりしているのに対して、優理枝は調子っ外れの鼻歌まで口ずさんで、人生絶好調という感じ。実際、あのまま事務仕事をしていた場合よりも効率よく決裁待ち書類が減っているのではないかと見えるほどだ。

 一度複雑な顔で主人を見やってから、さくらは気持ちを切り替えた。今は敢えて問い質すまい。うまくいっている箇所を乱す必要はない。

 問題なのはこっちだ。長年の報いと言えばそれまでだけれども、ただのプライベートな痴話喧嘩で済まないことが判明した以上、徹底的に糾弾してやる。

「ええと、柳堂先輩? よろしければ、相手の特徴などをもう少し――」

「この痴れ者が! 貴様、保安上の一大事と分かっていて、己の快楽を優先したであろう! わざわざ連絡を絶って、捕縛すべき侵入者と乳繰り合うとは、何事か!」

 璃亜の遠慮がちな呼びかけを遮って、さくらが吠えた。が、当の本人はと言えば、未だ夢覚めやらず、と言う顔でしばらくさくらを見つめてから、

「……おお……splen・did……magni・fi……cient! まさかあんな女が……世界は広い、な……」

 淡い笑みを浮かべつつ、再び、霧の中を彷徨っているかのような、焦点の合わない目で回想モードに戻る。

「き、き、貴様! 優理枝様の目の前で、よくもぬけぬけと……」

「え? さくら、何かあったの?」

 書類から顔を上げて、きょとんとした目で優理枝。ばつが悪そうに、さくらが手を振る。

「あいえ、どうぞ決裁を続けてください。すみません」

 にこっと軽く返してから、また正体不明のハミングが執務室に漂う。恐ろしいほどに音律の狂ったメロディーだが、スタッフ一同は礼儀正しくスルーし続けている。数秒の沈黙の後で、ローズ&マリーが同時に咳払いをして、話を戻した。

「ま、先輩のやられようから判断しても――」

「――敵は強敵やっちゅうこっちゃ」

「……やはりと滝多緒と考えるべきなのか……璃亜、あなたの意見は? ……璃亜?」

 指名された情報担当は、妙に何度もためらいを見せてから、大歩に尋ねた。

「柳堂先輩、相手の身長と体重とスリーサイズはどうでした?」

「一五五センチ、四十九キロ、78-61-84」

 スイッチを切り替えたような復帰ぶりで、大歩が即答した。おお、と賞賛とも冷やかしともつかないどよめきが湧き起こる。

「推定体脂肪率はどうです?」

「十九。華奢な印象だった割にはよく締まった体だったから、ちょっと驚いた」

「失礼ですが、柳堂先輩の日頃の愛人方に比べればバストが物足りないように思われますが、その点については?」

「ああ。確かにブラはアンダー75のAAカップだったねえ。でも、そこはまあ、ええと、いいんじゃない? 俺は寛大に――」

 クールな顔でなおも甘い思いを語ろうとした大歩へ、冷めた声で璃亜が畳みかけた。

「お考えにならなかったんですか?」

「何が?」

「胸だけが物足りなくて、意外と筋肉質。そこから真っ先に導き出せるはずの、相手の性別を」

 怪訝な顔を見せた大歩が、ふと視線を落とし、みるみる青ざめていく。頬にチックまで走らせて、周りを見回し、璃亜を見、言い訳するように、切れ切れにつぶやく。

「ま、まさか……いやしかし、声だって女で……だいいち、あんな香り立つ魅力が……」

「――滝多緒に間違いないようです。過去にうちの工作員がしてやられた相手でしょう」

 璃亜が頷いて断定した。いっせいに十数人分のため息で満たされる執務室。ローズとマリーが、同情と納得の声で、独り言のようにコメントした。

「男のツボを知り尽くしてるのは、男やもんなあ」

「男の敵は男なんやなあ」

「お……おお……うおおおおおおぉぉぉぉーっ」

 頭を抱えて呻吟する大歩の背中に、ふん、と鼻で笑いかけてから、さくらは改めて厳しい顔つきに戻った。腕を組み、不意に首を傾げて、誰にともなく問いかける。

「……それにしても、奴らは結局何をするつもりで……?」

 誰も答える者はいない。しばらく、優理枝のヤブ蚊がのたうち回るようなメロディーだけがその場に漂っていた。さくらが時計を見る。午後九時。ここも他の部署も結局徹夜になるだろう。今のうちに一息入れてから――。

 と、休憩を宣言しようとしたその時、ドアを誰かがノックした。扉の横にいた璃亜が細く開けて、「あ! これは!」などと素っ頓狂な声を上げる。手をベルトの位置で組んでうつむいた彼女の陰から現れたのは、応対者の三分の一もないだろうと思われる、小柄な体格の老女だった。足腰を悪くしているのか、電動車椅子に乗った姿だ。慌ててさくらも立ち上がった。

「学院長……し、失礼、名誉理事長! こんなところに――」

「みんな、遅うまで大儀やね。ええ、楽にしなさい」

 香好かずき美涼みすず。今年七十になる優理枝の祖母。頭は総白髪で、肉の落ちた体格ではあるものの、血色はよく、威厳と温かみの感じられる佇まいである。柔らかな声で許しを与えたにもかかわらず、室内の全員が一斉に起立し、璃亜と同様に頭を垂れて恭順のポーズを取る。遅れて一人だけ、優理枝が間の抜けた挨拶をした。

「あら、おばあさま。ご用でしたらこちらから伺いましたのに」

「ええの。ただでさえこういう体やから、少しは学院の中、見て回るようにしとかんと。ついでにあんたの申請書の中身、確認しとこ思うて」

「申請書と言うと、科学部の? ああ、さっき私が出した件ですね? 何か問題が?」

 優理枝の入り浸っている科学部は、実のところは部活動ではない。あまりに活動内容が高度すぎるというのと、優理枝本人への警備体制の問題もあり、事実上休部扱いになっている科学部の部室を借り上げて、学院の中に優理枝のフリースペースを作っているのを〝科学部〟と称しているだけだったりする。当然、その必要経費は香好家が学院に全額補塡する形になっており、学院側の会計処理も、融通を利かせるため、学院長が直接裁可する特別枠の形を取っている。

 優理枝の祖母は昨年まで学院長を務めていた成り行きで、今年度も予算面だけは科学部の運営に関わっているのだった。ゆえに、美涼がこういう形で執行委員会に顔を見せることは、これまでもままあった――のだが。

「問題も何も、アリマイトの鉱石標本1キロ分って、なんでこんなもん急に買おうって思ったん? てか、あんた、これいくらするんか分かってんの?」

「ええと、いくらなんですか?」

「あんたの科学部の年予算まるまる飛ぶぐらい」

「あ、じゃあ500グラムで結構ですから」

「気楽に言うてくれるな。希少鉱物やで。今日明日中に買い付けられるようなもんとちゃうで。買えて100グラムや。それで満足し」

「ダメです。400グラム。とても重要な実験にまとまった量が必要なんです」

「150。何に使うんか知らんけど、使い捨てにするわけやないんやろ? 少しは実験手順、工夫しいや」

「300。学院の名声にも関わる実験です。目先の資材をけちっては、おばあさまの大好きなお金にも逃げられてしまいますわよ」

「200。あんた、日頃は温泉ラッコのくせに、なんで実験ごっこの話になったら急にタフネゴシエーターになんの」

「おばあさま、ラッコは温泉になど入りません!」

 世知辛くもエキサイティングな数字の折衝をいきなり中断して、優理枝が声を張り上げた。目つきが大マジだった。美涼が、しまった、というように、わずかに視線をそらして顔をしかめる。

「ラッコって、基本的に中緯度から高緯度の、寒流の沿岸に生息しているんです! 十度以下の海水に一日中浸かってるんですよ! そりゃ訓練したらお風呂に入る個体だって出てくるかも知れませんけれど、もとより体温維持のために最適化した体になってる動物なんですから! 日頃から筋肉細胞のミトコンドリアで尋常じゃない量の脱水素放熱反応プロトン・リークやって熱を取り出してるって論文まで出てるんです! 好んで温泉に入るなんて話、もはや事実誤認と言っても――」

「優理枝様、優理枝様」

 さくらが主人の肩をちょんちょんとつついた。溢れそうな徒労感をなんとか抑えて、無理に平静さを取り繕ったような声だ。

「何っ!?」

「あの、その話、続きがあるのでしたら、夜も長くなりそうですし、このへんで軽いお食事などなさっては、と」

 もちろんそれは半分以上方便だった。執務室の中でエラい身分の二人が言い合いを続けてくれると、起立したまま頭を垂れてじっと不動の姿勢を取っている委員会メンバーが、いつまでも解放されない。上に立つ者として、そういう下々の状態にも目配りなされよ、とさくらは暗に訴えているのだった。

 そして、優理枝本人は、少なくともその種の諫言に対し、決して鈍感な主君ではなかった。

「あ、そ、そうね。じゃあ、えーと、書類はこれで全部なんだっけ?」

「はい。当面は上がってこないと思いますので」

「では、少し時間をもらいます。まいりましょうか、おばあさま」

「そうやね。――苦労をかけるな、さくら」

 何もかも見抜いているであろう名誉理事長のお声がかりに、いえ、と短く返してから、こちらも委員達に一時休憩を命じた。優理枝が老女の電動車椅子の背後にある取っ手をつかみ、ゆっくり廊下へと歩み出ていく。

「で、アリマイト250グラムなら予算枠で購入できるんですね?」

「いつの間にか数字が上がっとらんか? なんや、ずいぶんと機嫌がええな。何か嬉しいことでもあったん?」

 孫のいつになく浮き立っている様子に、老女が目を細めて尋ねた。

「うん。あのね、とっても楽しいお客様が部室に来たの。ええと……あ、名前聞いてないんだった。でも、また来るって言ってたから――」

 聞くともなしに主君の声を追っていたさくらだったが、不意にはっと顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。

「マリー!!」

 総務と名誉理事長がようやく視界から離れていって、大きく伸びをしていた双子の片割れが、びっくりして跳ね上がった。

「ど、どうしたの、さくら……」

「警備室に監視映像の閲覧要請、追加で! 大至急! 十八時台からのエントランスをもう一度! すぐに私が行くからと伝えて! 璃亜、あなたも来て!」

 目を丸くしている委員達をかき分けるようにして、さくらは走った。何でそこに気が回らなかったのか。いや、確かに辻褄の合わない点も多い。けれども、間違いなくあの女装者は陽動で、メインは別だったはずだ。あの時間に普通ではないことがあったのは――。

 おのれ滝多緒め、わが執行委員の中軸を二人もたぶらかすつもりか!



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