第100話 仲間の空気
久しぶりのレッスン室を窓から覗くと生徒たちがまだ来て無かった「おはようございます」遠慮がちに言いながらその扉をそっと開けると、そこには音楽CDを確認している日野の姿があり、日野は流衣を見た瞬間に嬉しそうな笑顔で
「流衣ちゃん! お帰りなさい!」
「先生!」
流衣も先生に飛びつく勢いで走り寄って行ったが、流石に手前で止まった。
「大変だったわね、足は大丈夫なの?」
おおよその事情はメールで連絡済みだった。
「はい、今はもう……」
日野の顔を見て気が緩んだのか、本番でのピーク痛みを思い出して悔し涙が溢れそうになった。
今にもこぼれ落ちそうな涙を潤ませた流衣を見て、向こうでどれだけ辛い思いをしたのかを物語った。
「本当によく頑張ったわね! 良いのよ、もう愚痴っても」
日野がさあ来いっと目の前でパンっと手を叩いて再び広げた。鏡の横で取るその仕草は日野がふたりに見えて双子の様で流衣は笑った。
「よかった、落ち着いてるわね」
「はい、心配おかけしました」
「そうなのよ! 心配しかできないんだから、もうやあねぇ」
日野の冗談にまた笑い合った。
「心は決まった?」
「はい。もし行けたらイギリスに行こうと思います」
「イギリス良いわね。目処は付いてるの?」
心配顔で覗き込んだ。
「まだです……。でもあの、費用の事は両親に頼んでみようかと……」
遠慮がちにでも流衣がハッキリ言った。
「流衣ちゃん……そう、よく決心したわね! それが正解よ」
費用の面は一番の気がかりであり、流衣の家の事情を知ってる故に、流衣が留学を諦めるのではと思っていた日野にとって朗報だった。
「あたし一人じゃどう頑張っても無理なので……ダメで元々だと思って」
あの母親に費用面での頼み事をするのは、流衣にとっては『清水の舞台から飛び降りる』程の度胸が必要な筈だ、日野には流衣の本気が見えた。
「流衣ちゃん!」
「お帰りなさ〜い!」
扉が開いて光莉と陽菜が元気に飛び込んで来た。
「光莉ちゃん、陽菜ちゃん、ただいま!」
流衣がふたりに抱きつく前に抱きつかれた。
「あら陽菜ちゃん今日早いのね、まだ5時前よ」
今日は中級者のレッスンの日、しかし開始時間は7時30分。いつもギリギリにしか現れない陽菜に苦笑いした日野が言った。
「流衣ちゃん来るって、光莉ちゃんが言ってたから早く来ちゃった。正解だったね〜」
「だって流衣ちゃんなら絶対来るもん、ね?」
「えへへ」
光莉には全てお見通しだと、流衣はつい笑った。
「光莉ちゃんは流衣ちゃんに会いに?」
日野は光莉のレッスンの日では無いことから、わざわざ流衣に会いに来たと思った。
「うん。お付き合い!」
と言って笑い、光莉はいつものレッスンバックを目 線まで持ち上げた。
「あらそういう事? でも流衣ちゃんまだ足が治ってないのよ?」
先日のレッスンの日に流衣のローザンヌでの出来事を皆に話した筈だと、日野は目をパチクリさせた。
「バレてた? えへへっ」
流衣は光莉に応える様に自身のカバンを持ち上げた。
「もう3日も動いて無いから、身体がウズウズしちゃってー」
最終日から帰国まで動いてない流衣は、身体が疼いて仕方なかった。
「やれるの⁈」
「はい大丈夫です。バーレッスンだけでもやりたいです!」
日野は心配して止めようとしたが、確かにバーレッスンならばと言葉を飲み込んだ。
「やっぱりね」
入り口から美沙希の声が聞こえて皆振り返った。
「美沙希ちゃん! なんで? 今日はSスタのレッスンの日だよね⁈」
流衣が驚いて声を上げた。
「ボッチは寂しいと思って来たんだけど、皆んな同じか〜」
柚茉がケラケラ笑いながら入って来た。
「これじゃ多すぎるんちゃう?」
まるで申し合わせたようだと呆れた顔で理子が後に続いて入ってくる。
バレエ仲間達は、流衣が帰ってきたら速攻でレッスンするだろうと踏んで、個々の想いで集まって来たのだ。
「皆んな……」
流衣は皆んなが自分を労う為に、元気付ける為に来てくれたのだと肌で感じた。
「先生。臨時バーお願いします」
「中級のレッスン前に終わらせまあす!」
美沙希が申告し柚茉が条件を言う連携スタイル。
「いいわ。じゃあ速攻で着替えて」
「はーい」
「負けへんで!」
「え? 競争⁈」
「陽菜が一番だもーん」
「あ〜陽菜、変身したな!」
「反則や! 勝ちに入らんで!」
「だからなんで勝負なの?」
「ちょっとあなた達……はしたないわよ」
陽菜が制服を脱ぎ捨てるとダイレクトにレオタード姿だった。ゴソゴソ着替えてた美沙希と光莉がスピードアップ。柚茉と理子は人目を気にせずパパッと脱ぎ捨てだし、見ていた日野は女子しか居ないとはいえ節操がないと顔を
「プーっ、やーん皆んなおもしろーい!」
流衣は久々に屈託なく笑った。
「へへ〜。皆んな遅いよー」
「ほんなら陽菜〜、いっちゃん前行かんとダメやん?」
陽菜がいつものど真ん中に陣取りしようとすると理子の冷たい指摘が飛んだ。
「ええなんで⁈ 陽菜いつも真ん中だし」
「今日一番なんでしょ? だったら前だよね〜」
柚茉も乗った。
「ええだって! いつも前と後ろは流衣ちゃんと美沙希ちゃんだし……」
バーの位置のまま足を変えてターンすると、後ろが前に変わる、陽菜は定位置でやりたがった。
「バーなんだから場所なんかどこでも良いんじゃない?」
レッスン始まりに必ずするバーレッスンは、中級だろうがプロだろうが変わりなく、体に染み付いてるものだから、位置関係を気にする陽菜の感覚がわからない美沙希。
「流衣ちん真ん中いかな。見せてもらうで、ローザンヌ帰りの成果とやらを」
「みっちゃん、それ言うなら赤いレオタード着て
ヨロ」
「真ん中でも、成果は……変わってないよきっと」
流衣はバーの真ん中に進んで行きながら照れ笑いした。
「陽菜ちゃん右の前に行ってちょうだい。はい、始めるわよ」
日野の容赦ないスタート合図。
「陽菜、中学生なのに……」
年下と言いたいのか陽菜がブツブツと呟くが音楽にかき消されスタートした。
——足、一番、アンデオールでプリエ深く、そしてルルベアップ!
伸びる〜ふふっ、気持ち良い〜
306番さんのアロンジェ綺麗だったな……321さんのパンシェも
わわっ、色々思い出しちゃう!
黒豹さんのジャンプ中のしなやかな上半身
平さんの華麗な動き
菅野さんのクラシックの優雅さとコンテの力強さのメリハリの付け方にリスペクト
決勝で初めてチャーノの踊り見て、凛々しくてチャーミングなバジルに感動したっけ
たった3日前のことなのに、なんだかスッゴイ前の出来事みたい……不思議。
——やるやん。
——流衣ちゃん動きキレイ!
理子も光莉も、皆んな流衣の動きを見惚れて眺めた。そんな中、美沙希だけは違った。
——……どうして?
私ボストンのサマースクール2週間参加したけど全然こんなじゃなかった……どうしてこんなに違うの?
ヨーロッパだから?
ローザンヌだから⁈
羨ましい……私も行きたい、ヨーロッパに……!
美沙希が心で歯軋りをしていると、日野もまた、流衣が出発前にレベルを上げていた踊りをさらに磨きをかけていることを確認し、複雑な面持ちで流衣を見つめていた。
——……今なのに。
誰にでも“旬” というものがあるわ
流衣ちゃんはまさに今……!
今この伸び代を止めて欲しくはないのに……。
このチャンスを逃すことが、流衣にとってどれほどのビハインドになるか計り知れないと、日野の経験値が警鐘を鳴らしていた。
「ごめんね、待った?」
流衣が自転車の傍に待つ一臣に拝む様に両手を合わせて声をかけた。
「別に」
と言いつつ時間を確認すると約束の時間より30分オーバーしていた。
「30分動くつもりが1時間もレッスンしちゃって……」
バツが悪そうに目を伏せた。
時間を忘れるくらい動けたのなら、良い兆候なのだろうと一臣は思い、特に何も語らず自転車に跨ると、流衣に後ろに乗る様に視線を促した。
流衣はそれに追随し後ろに乗り一臣に捕まると自転車は走り出す。風を切ると澄んだ空気が身に染みる。ふと気がついたように一臣の背中に猫が擦り寄るように顔を埋めて深く抱きついた。
「雪降りそうだね」
「そうだね」
メイン通りから少し外れた市道で信号で止まった。流衣は顔を上げて一臣の背中から話しかけた。車で移動する人が多いとはいえ、寒さのせいか人通りは殆どない。
「臣くん、寒くない?」
雪が降る前の切れるような寒さが増している。自転車だと手袋がないと指が千切れそうになるし、ネックウォーマーがないと身体の芯が凍る、それがどれだけ辛いかは流衣もよく知ってる。しかも一臣はノーガード。
「別に」
流衣の心配を一臣はいつもの一言で訂正した。
「あ、そうだストール! ごめん借りっぱなしにしてて、これあれば違うよね」
流衣が自分の胸元からストールを外そうとすると、一臣は振り返らずに右腕でその動きを制御した。
「大丈夫。背中暖かいから」
「え……」
「だからそれは流衣が持ってて」
「うん」
信号が変わって一臣が走り出そうとしたので、流衣は急いで背中にへばりついた。
——へへっ、背中独占お墨付き貰っちゃった〜!
それはともかく、こんなに寒いのに本当に大丈夫なのかな?
日本人って寒さに強いのかな、スイスでは男の人もマフラーしてたけど……。
あ、そうだ、スイスで思い出した。
「ねえ臣くん、スペイン語の “チキータ” ってどういう意味?」
『時玄』に到着すると流衣はローザンヌで聞いた謎の言葉を一臣に聞いた。
「……チキータ?」
一臣は一瞬動きが止まって聞き返した。
「うん。クリスチアーノ・ロナウドってスペイン人男の子が “ルイ・チキ” とか “チキータ” とかあたしの事呼ぶ時言ってたの、なんか変な意味だったりする?」
「クリロナ」
「あえ? 臣くん知ってるの⁈」
「いや、ポルトガルのサッカー選手で、多分同姓同名な別人」
外国では良くある話しだと一臣は思った。
「……もしかして凄く有名な人?」
一臣は頷いた。
「そっか、それ知らなかったからあたしがサッカー無知だってバレたんだ……」
思い起こすとあの時のチャーノ達の笑いを理解できた。
「そのチャーノたちが言ってたんだけど、バル……」
言いかけて流衣は思い直した。
「なに?」
一臣は聞き返した。
「うんっとね、じゃあ “チキータ” って “おバカさん” 的な言い回しなのかな?」
——うひゃー!
危ないあぶない!
バルサのカンテラに特待生で居たの臣くんだって噂してたなんて、余計な事言うとこだったよ〜
臣くんが昔の事気にして無いか分かるまでこの話題封印しよう。
流衣はすんでのところで話題を元に戻した。
「いやチキータは……“小さい女の子” 」
「小さい子⁈ それ、見たまんま……微妙に悪口かも」
貶されても褒められても無いと、流衣は意気消沈する。
しかしさり気なく嘘をついた一臣は、流衣以上に複雑な顔をしていた。
“チキータ” の本来の意味とは “かわい子ちゃん” であり恋人に使う言葉である。口説きに声をかける時に使うものでもある、“小さい女の子” との意味合いはあるものの使い道が全く違うものだった。
「さっき何言いかけたの?」
「え?」
一臣が聞くと流衣はドキっとした。
「“チャーノ達が言ってた” って」
「そっ、れは、気のせい、ていうかあたしの勘違い、なの、気にしないで」
流衣はドキドキが増し、落ち着きなく虚な目で説明した。
「そういえば臣くん、今朝何か言いかけなかった?」
「それは……」
朝言いかけたのは……。
流衣が一生懸命言い訳をしてるが、自分を弁明するためで無く、一臣を守ろうと頑張ってる姿で、その健気さに心打たれた一臣は
——俺さ、お前のそういうところ好きだな……。
そう言おうとしたところ気勢を削がれた。
タイミングを逃して言うに言えない状態から、一臣は自分の内から湧いて出てくる嫉妬心を持て余し、余計な質問返しをして誤魔化した事で、やましさが後ろめたさ重なって流衣の顔をまともに直視できなかった。
「気のせいだよ」
「そうなのかな」
そっぽを向いたまま言った一臣が本音を言ったようには流衣は思えない。
——臣くん……絶対何か言おうとしたよね
言いたくないならそう言えば良いのに
変なの
全然こっち見ないし……
「やーん! いおみ君めっけ〜!」
「うわっ」
無防備な状態で後ろからタックルされた一臣は
当人もろ共に押し倒れた。
——え⁈
一臣が倒された事もさることながら、一緒に倒れた原色女子が一臣に纏わりついてる事の方が驚いて流衣は固まって呆然と見つめた。
「まみさん?」
力強さでハクの友人だと分かった。
「まみの事覚えててくれた⁈ 流石ぁ! いおみ君ってばいつ見ても現物見てもいい男〜〜!」
「どうしてここに?」
「マスターが用事あるから手伝えって、ハクに呼ばれたの! せっかく来たのに裏口から入れって怒るから、帰っちゃおうかと思って、でもいおみ君に会えて良かった〜ん」
まみは転がったままの一臣に抱きついて抱擁の嵐を起こした。
——これは浮気なの?
あたしは一体何を見せられてるの⁈
朝に彼女になったのに1日持たずに崩壊って事?
なんか短い夢だったなぁ
「龍希さん、そろそろ中に入ったほうが良くない?」
「え、やだちょっとあたしの本名呼ばないでよ!」
——ん?
龍希って男子の名前じゃ……。
一臣がまみの本名を呼んだ事で流衣はピクリと反応した。
「もう開店してるし、お客も入ってるから手伝ったほうが良いい、それで龍希さん呼ばれたんですよね?」
「も〜何度も名前呼ばないでってば! ハクに言いつけちゃうから!」
「どうぞ、別にハク怖くないし」
「……本っ当に、いおみ君てイケズねぇ、そこがゾクゾクしたゃう所何だけどぉ」
まみは頬を高揚させてウットリと悦に浸った。
「というわけで、龍希こと源氏名まみさんはハクの男友達」
一臣は流衣に向かって、自分はただの顔見知りだと説明した。
「え、あらやだ、あなた女子だったの? 気付かなかった!」
まみは横に人がいる事に気がついてなかったのでは無く、女子だと分からなかったと稀有な感覚を見せた。
「あ、うん」
分かったような分からないような、そんな曖昧さで返事をした。
「ん? あら? この子もしかして……」
まみは女心がピンと来た。
「彼女です」
一臣がはっきりと言うと、まみは慌てて押し倒していた一臣から離れて身なりを整えた。
「もうやだ! そう言う事は早く言ってよ、もうほんとに意地悪なんだから!」
「いや、言う暇1ミリもなかったし」
一臣は立ち上がって埃を叩いた。
「もう! 彼女さんもちゃんと言ってよ! 私がおかしな人になっちゃうでしょ!」
「はい、ごめんなさい」
ここは謝るのかセオリーだろうと思う流衣。
「何で流衣のせいにするの? 悪いのは特攻してきた龍希さんでしょ⁈」
それに一臣が物申した。
「やだ、いおみ君怒っちゃった。そんなつもりじゃ……ごめんね、彼女さん」
一臣に怒られて急にしおらしく謝罪するまみが素直すぎた。
「いいえ」
流衣はまみの態度が素直な良い人に見えて、疑惑も拒絶もなくなり笑った。
「そっかあ、これが噂の流衣ちゃんなのね、かわゆいじゃな〜い!」
“もちろん私には劣るけど” な表情をするまみ。
「うわさ……」
誰がどんな噂をしてるのか流衣は気になったが、そこから突っ込んでまでは聞けなかった。
「え〜と、では改めまして!」
まみは急に左手を腰、右手を上に上げてポーズを取ったかと思うと、問答無用で自己紹介を始める。
「私はスポ少のドッヂボールで全国制覇したチームのキャプテン、チームメイトハクとゴールデンコンビだった戦友マブこと歴代猛者の伊藤龍希! そんな歴戦の雄の名声を後世に残して、まみの源氏名でニューハーフとなった経歴こそ私の誇り! 残念ながら魔法は使えないけれど、男のハートをキャッチするのは大得意なクリーミーなまみとは私のことよ!」
軽くひと踊り舞った後、振り上げた右手でVサインを顔に当てビシッと決めた。
「“歴戦の雄” のくだりは要るかな」
「初対面の自己紹介の域超えてるのむしろ清々しい」
「魔法使えなくて魔法少女の位置にいる歴戦のバーサーカーゆえかな」
「ある意味トリセツかも」
流衣と一臣は、目の前で高テンションで展開するメタモルフォーゼをモノともせず冷静に分析した。
「やんっ、2人ともわかりみ早い〜、まみ感激〜!」
そしてそれをまみは喜んだ。
「楽しそうな人だね」
「ハクの戦友だからね」
「そかも」
ハクの友達という免罪符で納得する二人も、だいぶ異質な雄である。
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