第84話 day3 ゼンツァーノ

「〈ルイはどうしてローザンヌに参加しようと思ったの?〉」

リーサが流衣と並んでストレッチをしながら問いかけた。聞かれた流衣は返事に戸惑った、震災のために他のコンクールに出遅れてしまった事を言うべきかどうか、隠すほどの事ではないが、説明しきれない気がした。

「〈毎年放送されるローザンヌのコンクールを見て、小さい頃から憧れてたの、私の先生も順位よりダンサーの将来性を考えてくれるところだからって……〉」

震災はスルーして伝え、流衣は陸上のスターターの様なポーズで、ゆっくり足の甲にストレッチを促した。

「〈そうよね、ローザンヌってなんか他のコンクールと違うもの〉」

「〈リーサはどうして?〉」

ストレッチバンドを使って開脚し内転筋をに負荷をかけているリーサに流衣が質問した。

「〈私は、ローザンヌはクラス分けが細かくて、時間をかけて見てくれるところかな、他のコンクールだと予選と決勝と、全部本番だから……〉」

リーサが口篭り、何か言いたい事を我慢してる様な素振りを見せた。

「〈昔……テレビで観たの。ローザンヌに出てた東洋人がね、とても足が短いって批評されてたの、私が生まれる前の事だと思うけど……〉」

それが再放送なのか特集だったのか、リーサは思い出せないが、映像だけはハッキリと焼き付いていた。

「〈東洋人? って熊川哲也さん?〉」

1989年第17回大会ローザンヌ国際バレエコンクールで熊川哲也はゴールドメダルを受賞している。その時の解説で『膝下が短く細いが、そんなことは気にならない』と解説者に言われたのである。流衣もまた産まれる前のことだが、日野が日本のテレビで放送された物をコレクションしていたのでそれを見て記憶にあった。ちなみにローザンヌ名物、辛口批評家は元パリ・オペラ座クロード・ベッキー氏だが、熊川哲也がゴールドメダルを取った大会は、東京で開かれたローザンヌ国際バレエコンクールで、その時の批評家はヴィオレット・ヴェルディ氏である。

「〈ううん、テディなら分かるよ! 彼じゃなくて確か中国人だった。でもそれ見た時にね、ローザンヌはスタイル関係なく出場出来るんだなって思ったの〉」

熊川哲也はメインのイギリスでは「テディ・クマカワ」のニックネームで呼ばれている。

「〈スタイル? リーサはスタイルを気にしてたの?〉」

流衣は驚いた、あれだけクラシックを踊れるリーサがスタイルにコンプレックスがあるなんて思わなかった。言われてみれば他の白人の子と比べると、手足が短めではあるが、あくまでもほんの少しの差で、そんなに気に病むほどとは思ってなかった、ただ自分と同じ身長でそこが悩みなのだとしたら、流衣にはすごく共感が持てた。

「〈私、小さいから、ヨーロッパのコンクールで、書類審査だけで落ちたことがあるのよ〉」

「〈書類だけで? 本当に⁈〉」

流衣は他人事とは思えずショックだった。

 ヨーロッパでは子供の頃に骨格でプロが趣味にするか振り分けられるので、その悩みはあまり持たない、またヨーロッパ内でもスペインなど、あまり厳しく振り分けし無い国も中にはある。

「〈14歳過ぎたら身長が伸びなくなっちゃって、バレエを続けるかどうか悩んでたの、それでローザンヌでスカラシップが取れなければ、プロになるのを諦めようと思ってたの〉」

「〈そうなんだ〉」

リーサがローザンヌに強い意志を持って、掛けていることを知って、チャーノ達に強い態度に出る理由に納得した流衣は、その気持ちは痛いほど分かると深く頷いた。

「〈それなのにルイは、身長の事を気にする素振りもなかったから、気になったの、ルイはどうして克服したの?〉」

リーサが自分に声を掛けてきた動悸は、自分と同じ境遇の流衣に同病愛憐れんだ為だったのだ。

流衣はそれを感じて、何故かクスリと笑った。

「〈『その考えは5年早い』って言われたの〉」

「〈5年? 何それ、誰が言ったの⁈〉」

「〈鬼コーチ〉」

流衣は更にププっと笑った。

「〈“ONI” コーチ?〉」

流衣が日本語で言った “鬼” の意味が分からず聞き返した。

「〈うん、こわ〜いコーチ。そのコーチがね、自分ではどうしようも無い身長の事を考えるより、今できる事をやった方が良いって言ったの〉」


『問題は身長だけと言えるほど、他は完璧なわけ?』


 そう言われて、ムッとしてムキになってた自分を思い出して笑いが出てしまう流衣に、リーサは訝しげに覗き込んだ。

「〈確かに身長って頑張って伸びる物じゃ無いけど……でもルイ、何がそんなに可笑しいの?〉」

リーサは楽しげに笑う流衣が自分のことを笑ってるのかと思ったのだ。

「〈ごめんね違うの、自分がおかしくて。リーサは凄く上手だから大丈夫、コジュカルみたいだもん〉」

流衣は背の低いロイヤルのプリンシパル、アリーナ・コジュカルの名前を出すと、リーサは顔を赤らめた。憧れの人なのだ。

「〈その時ね、フォローもしてくれないコーチに凄く腹が立って「負けるもんかっ」て、ヤル気が出て沢山練習したらスッキリして、身長の事忘れちゃってたの〉」

我ながら単純だなあと思ったことが、昨日のことのように思い出して、どうしても笑いを止められ無い。

「〈……そのコーチって、例の彼氏でしょ? 全然優しくないのね〉」

その男子がバレエ教師のような厳しさを感じた

リーサは、流衣の笑いの意味が分からず、そこを

指摘した。

「〈うーん……無口だし、厳しくて、お説教マンだし、笑わないし……〉」

普段の一臣の態度を考えながら言ったら、ほぼダメ出しに該当する流衣、

「〈その彼のどこが好きなの?〉」

「〈本当は優しいのに、それを表に出さない所〉」

「〈それのどこが良いの? 意味わからないわ〉」

優しさは表に出すのが当たり前で、愛情表現をしない人を好きになるなんて正気じゃないと思うリーサ。

そんなリーサに、一臣の隠れた優しさの中に、頼り甲斐があって信頼できる人と言いたかったが、ここぞと言う時に〈頼り甲斐〉の単語が出て来なかった。

「……えーとね〈真面目だから、笑わせたくなるの〉」

つい照れ隠しに冗談混じりに説明してしまった。

「〈ルイって、常にチャレンジャーなのね〉」

リーサは肩をすくめ、流衣は困った様にえへへっと声を出した。


 ローザンヌ3日目の午後の女子Aクラスは、舞台でのクラシックの課題曲のコーチングが行われる。

ペザント4名、ゼンツァーノ2名、スワニルダ8名、バヤデール三種12名とそれぞれの組に分かれ、まず人数の少ないゼンツァーノ組が呼ばれた。

ゼンツァーノにリーサ、パヴリィナはペザント、そして流衣が知ってる日本人の平水姫はバヤデール、田中さおり、渡辺は流衣と同じスワニルダだった。


——リーサがゼンツァーノは意外だった!

イメージ的にはキトリだけど、ジュニアの課題曲に入ってないから、てっきりバヤデールを選んだのかと思ったのに……あたしの想像力貧困だな……。

踊るところ見たかったけど、次の踊りの人じゃないと傍でのスタンバイ出来ないんだよね。観るとしたら客席しかない、客席で観たいけどこの広さ……迷いそうで怖い。

発表会の会場とは広さが桁違いだし、人の流れに乗ってここまでは来れるけど、ひとりだと迷う気がする……。


「どうする? まだ時間あるよね」

流衣が見たいけど迷うの怖いジレンマで悩んでいると、日本語が密やかに聞こえて来た。

田中さおりの声だった。

「ゼンツァーノ見てみたいよね、どうする水姫ちゃん?」

「私は最後だから余裕あるけど、ふたりともスワニルダでしょ? 慌ただしく無い?」

「一人ずつ踊るなら、時間は全然大丈夫だと思う」

3人は目配せを合図に、客席に向かうためそおっと移動した。それを流衣は一部始終を聞き耳立てて聞いてしまった。


——田中さん達、もしかしてリーサの事気にしてるのかな。

だから見に行くの?

確かにジュニアのクラスで目立ってるの、リーサだもんね。

ええ、どうしようついて行っちゃダメかな?

ええ〜い、行っちゃお!


流衣は急いで3人の後をついていった。

階段を降りて行って扉を開け、通路を通ってまた扉を開けると、そこは客席で前方の審査員達が座っている席から三列後ろの通路に出た。おそらくS席と思われる区切りの場所である。


——えっと、階段、扉、通路からの扉、そして客席だから、戻りは扉、通路から扉、階段を上がる。

うん、良し覚えた!


複雑な道事なくてホッとする流衣。

田中達とは2列ほど離れ、真ん中の列の端の席についた。舞台を見るとリーサが中央で踊り、先生から正面から見ているところであった。

ゼンツァーノの振付けの難易度は高く無い、プリゼやクッペ などの基本的な足技を繰り返し、アラベスクをポアントのまま向きを変え、アラベスクに戻るを4回くり返す場面が中堅の見せ場とし、ジャンプと回転を繰り返してラストのポーズを決める。しかし一見して簡単で地味に見える振付けは、軽快な曲でテンポよく動き回る基礎的なステップだからこそ、技術の拙さが全面に出てしまう、自身の踊りに自信がないと選べない演目なのである。


——ちょうどリーサが踊ってる!

……うん、やっぱり上手だなリーサ。

すごい完成されたキレイな動き。

プリゼ、クッペ 、アンレール……ちょっとクールで全てが落ち着いててるけど、ちゃんとお祭りの楽しい雰囲気を踊りで表現してる。


 余裕のある動きが出来るのは曲間の間合い、カウント間の滞空時間の長さを保つ、鉄の気合いと体幹の強さである。

そして見せ場のアラベスク、ドヴァン、次のアラベスクへの移行でポアントが崩れない、リーサを見て、流衣は感動しながら客観的に観察する事で、動くタイミングが元より、手の動かし方が自分と同じだと気がついた。


——動きが……身体を固定してる時の手の動きとか、動き出す時のアクセントが似てる、双子みたいだねって言われたのこれなんだ!

うん、やっと納得できた。

リーサのが断然上手いのに、コントラで動いてるってだけで似てるって、双子って言われるの心苦しかったけど、仕草が似てるならアリだよね。

隣で踊ってると分からないもんだな。


 流衣は客席から客観的にみて頷いている間、一通り踊り終わり、リュリ講師のコーチが始まった。講師のアドバイスを聞きなぞらえながら動くと、完成されていたはずのリーサの踊りが、みるみる変化し更に美しく仕上がっていく。


——リーサさん天才かっ!

先生の言って事を直ぐに覚えて軒並み直してる、まじで尊敬するっ。


 流衣はいつも自分が言われてる事をそうとは気付かずに、ローザンヌという特異な場所で出来た友達に対して思ってしまった。

そんな自己肯定キャンセルポンコツ女子が舞台を食い入る様に見ていると、ゼンツァーノを選んだもう1人の子に代わった。

白人の女の子が踊るゼンツァーノはリーサのそれとは別物に近い、印象が残らないものだった。


——こんなに違うんだ……。

彼女上手だ、五番しっかり入ってるし、アラベスクもきっちりキープしてる……なのになんでこんなに違うんだろう……。

なんていうか、なんか変な例えだけど、スーパーのお野菜みたい。

形も整ってて色もキレイなのに、食べると味気ない。

お父さんが作るお野菜は形は不揃いだけど、食べると甘くて美味しいの。

でも形が整ってるのは出荷しちゃうから、家で食べるのが不揃いなだけで、本当は全部美味しいんだよね。震災の後どうしてもお父さんの作ったインゲンが食べたくて、アパートのベランダでプランターで作れないか聞いたら、「土が違うからうまぐねえ」って言われてそれはそうかもと納得したんだ……。


流衣の思考が脱線してる間に、気がつくと舞台はペザント組へと代わりパヴリィナが踊り出した。マッサージが効いたのか、故障があったとは思えない脚捌きを披露していた。


——パヴリィナ、脚大丈夫そうで良かった。

踊りに支障が出るほどじゃないけど、あたしも去年に足を挫いたからマッサージした方が良いんだろうけど、夜はストレッチしながら寝落ちしちゃてるから出来てないんだよね。昨夜なんか開脚したまま寝ちゃって、朝にはY字になってたし……あたし夜中にどんだけ動いてるんだろ?

寝相悪過ぎ……。


パヴリィナの足から自分の寝相に思考が変換してる間に、ペザントはふたり目のダンサーに代わり、ふと横を見ると田中達はいなくなっていた。自分もそろそろ戻って準備しなくてはと思った流衣は、静かに立ち上がり、舞台裏に出るように扉に向かって歩いた。


——えーと戻るのは、扉から通路を通ってまた扉

その後階段を上がって、扉を出ると元の舞台の

ソデ……と。


ぶつぶつと独り言を言いながら扉を開けた、するとそこには通路があるのだが、何やら様子が違っていた。


——あれ?

こんなに長い通路だっけ?

気のせいかな……扉の次は階段で……。


記憶違いかと思いそのまま進み扉を開けると、またしても通路が有り、その先は二手に分かれており扉がふたつ見えた。


——え?

階段どこ?

それに何で扉がふたつ⁈

ええ?

えええー!

間違えた? 

一本道まちがえた?

何で⁈

どうしてぇ〜!

待って、落ち着いて!

あたし舞台を見ながら左に移動して扉をけて、右に来たよね?

舞台の方向は右だよね⁈


流衣は舞台のある方向だと辺りを付け、右の扉を開けた。すると正面突き当たりで左右に広がる見たことの無い通路に出た。


——ここ……どこ?


流衣は完全に場所を見失った。

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