相江進之介、走る

乃々沢亮

相江進之介、走る

 江戸に幕府が開かれてから百余年。天下は泰平の世になった。

 戦さに明け暮れていた時代などは遥か遠い昔。武士と言えども戦さを経験した者などほとんどいなくなった。

 世は武断から文治の時代へと変わっていったのである。


 世に連れて武士の在り方も変わった。

 従前よりの『殿の御馬前で死ぬるなら武士の本望』という心得はベースとして残っているものの、天下泰平の世ではあまり現実味がない。武士により求められるようになったのは規範や品格であった。


 各藩家には(あるいは個々の武家にも)家訓というものがあるが、東国のとあるこの藩にも家訓があった。武士たるもの、というやつである。


 一、嘘や悪口を言わない。(下品だ)

 一、己の利益を追求しない。(ひたすらに藩家、領民のために尽くせ)

 一、礼儀作法を正す。(敬意は態度で示せ)

 一、発言、約束を違えない。(信用を失うぞ)

 一、人の窮地を見過ごさない。(見て見ぬ振りはカッコ悪いぞ)

 一、義理を重んじる。(人と人との結びつきは大切だ)

 一、品格を保つ。(むやみに騒ぐんじゃない、泰然としていろ)


 相江あいえ進之介は幼いころよりこの家訓を父親から厳しくしつけられてきた。反発を覚えるような条項はないものの、わんぱく小僧に生まれついた進之介には品格を保つという条項だけが苦手であった。


「武士はいかなるときも泰然自若としておらねばならん。武士が騒ぎ慌てふためくさまを見せれば、民が何ごとが起こったのかと不安に感じて動揺してしまうだろう。武士はむやみに大声をあげたり、走ってはならん」


 幼少期には大目に見られていたものの元服直前の十三歳になったおりに、進之介は父親から改めて品格について厳しく説諭されたのであった。


 ――むやみに大声をあげるな、走るなって言われても咄嗟のことだからなぁ。頭ではわかってるけど。


 進之介には自信がない。自信が無いから必要以上に泰然を意識して動くようになった。

 結果として進之介は動作がのろくなった。残念ながら進之介のなかの泰然とはゆっくり動くことであったのだ。まぁまったくの間違いではないが。

 こうして進之介は之介と揶揄されるようになる。


 進之介を最初に之介と呼んだのは佐代さよであった。高木佐代は進之介の幼なじみだ。歳は進之介が二つ上になる。進之介の父親である相江進右衛門と佐代の父親である高木作左衛門が同じ道場(演武所)の門下生として交友を結び、やがてそれが家同士の付き合いとなった。

 幼い頃の佐代は年上の進之介にもまったく物怖じせず格別の娘であったが、進之介が元服したあたりから急に大人になった。大人になったというより大人とおてんばの切り替えが巧みになったと言った方がいいかもしれない。

 武家の娘として振舞うべきときは恐ろしく取り澄ました顔をしてたおやかに話す。礼儀作法も付け焼刃ではない身に付いた所作であった。が、そうでないときは進之介を之介とあだ名したり、親の目を盗んでは柿の木に登り柿の実をいだりしていた。

 進之介はそんな佐代を好ましく思っていた。おてんばなときの佐代も取り澄ました

ときの佐代も、進之介にだけは素の表情を見せてくれるのだった。進之介のなかで佐代は特別な存在になった。幼なじみで妹のように好ましく思っていたのが、それ以上のものへとどんどん感情が育っていくのを進之介ははっきりと感じていた。


 ――佐代が十八になったら父上から高木殿へ縁談を申し込んでいただこう。


 進之介はそう思っていた。そして佐代にもはっきりとその思いを伝えた。


「まぁ」


 佐代の顔が喜色に輝いたように見えた。


「お待ちしておりますわ、之介様」


 それまでにもっと成長しなければならない。いつまでも之介ではいられないのだ。進之介はそう決心した。



 月日が流れ進之介は十九、佐代は十七になった。進之介は武士らしい風格と知識を身に着けつつあったものの、時折、地金の騒々しさが顔を覗かせあたふたとする姿も見せていた。が、それも周囲には愛嬌と認められ、彼が好青年であることは衆目の一致するところであった。

 もう進之介を之介と揶揄して呼ぶ者はいなくなっていた。彼の両親を除いては。


 そして事件は唐突に起こる。



「進之介、進之介はおらんか」


 進之介の父、進右衛門は役所から下がって屋敷の玄関に入ると、式台にも上がらずに進之介の名を呼んだ。


「はい、おります。お帰りなさいませ、父上」


 進之介が庭から竹刀を片手に玄関へ表れた。奥からは母親の千代乃が出てきて式台に座った。


「おお、進之介、おったか」


「はい、ここに。何事でございましょうか、父上が玄関でお声をあげるなど。ご用向きは?」


「いや、御用向きなぞと大層なことでもないが、世間話でもしようかと」


「世間話?」


 進之介と千代乃が同時に聞き返した。


「世間話なぞお召し替えになってからでよろしゅうございましょう? あなた、まずはお上がりください」


「いや、そうのんびりともしておられないのではと」


「はい? 世間話にお急ぎなんてことがございますか?」


「まぁ聞く人によっては、そうだな。…我らには関係のない噂話ではあろうが」


 進之介と千代乃は顔を見合わせた。様子がどうもおかしい。


「ええと、ではお聞かせいただけますか」


「うむ。実はな、おれも少々驚いておるのだが、縁談の噂を耳にしてな」


「縁談? どなたのです?」


大楠おおぐす兵衛ひょうえ殿のご子息」


「幸之進ですか」


「そう、幸之進」


「へぇー、あの放蕩息子の不埒者に縁談ですか。お相手は? ずいぶんとご奇特な方がいらしたものですね。よりによって幸之進って」


「悪口を申すなと言っておろう。品格を疑われるぞ」


「あ、つい。申し訳ございません。で、お相手は?」


 進右衛門はそこで式台に腰を掛けると、上目遣いに進之介を見ながら言った。


「高木殿の佐代さんだ」


「へ?」


「大楠家は高木家の本家に当たる。高木の家は代々大楠家の家臣であったところを、四代前に格別に分家された家柄だ。大楠から縁談を持ち込まれれば断れまい」


「ええっ、でも、あなた。あなたが大楠兵衛殿にお話しをすれば…」


 千代乃が口を挟んだ。


「おれに縁談を止める理由はなかろうよ。お役目を笠に着たくはない」


「それはそうですけど」


 進右衛門はまたちらりと上目遣いに進之介を見た。


「理由がのぉ、理由があればのぉ」


 進右衛門がしみじみとした調子でつぶやく。千代乃はふっと顔を上げ進右衛門を見ると、堅くなった表情を緩めて同様につぶやいた。


「そうですわねぇ、理由がねぇ」


 しかし進之介の方はと言えば、顔が見る間に青くなり、そして見る間に赤くなった。


「い、いつですか?」


 進之介の目が血走る。


「いつって? なに、あぁ、今日にも大楠殿が高木殿をおとなうという話らしいが、あっ、ちょっ、ちょっと待てっ! 待てっ、進之介!」


 進之介は進右衛門が話し終わる前にぐるっと反転し、玄関を走り出た。


「お、おいっ、走るなっ、武士たるもの走っては…、おいっ、せめて竹刀を放せっ、竹刀は置いていかんかっ!」


 進之介は竹刀を放り投げて全速力で走っていってしまった。竹刀をほうったのは父の指示に従ったためではないだろう。走るのに邪魔だったのだ。

 進之介の消えた道を眺めながら千代乃がつぶやいた。


「薬が効き過ぎたようですね」


「まったく、慌て者が。まだまだ肝が据わっておらん証拠だ。おまえだって途中で気がついたであろう?」


「ええ、まぁ」


「佐代どのは私が娶りたいと、おれにそうはっきりと言ってくれればそれでよかった。理由があれば兵衛とは話ができると言ったではないか」


「ふふっ」


 千代乃が口元を袖で隠し、笑い声を漏らした。


「なんだ?」


「血は争えませんわね」


「……」


「あなたも私の他家との縁談直前に、私の実家に走り込んできましたものね」


「…そんな古い話は忘れた」


「はぁはぁと肩で息を切らして。よっぽど全速で走ってらしたんだなって可笑しくなっちゃって」


「可笑しいとはなんだ、可笑しいとは」


「覚えてらっしゃるじゃありませんか」


「大事の時には、たとえ武士であろうとも走らねばならんのだ」


「そうですね、大事の時には」


「千代乃」


「はい?」


「獅子屋の煉羊羹ねりようかんを買っておいてくれないか」


「煉羊羹を?」


「近々、大楠兵衛へ頭を下げに行かねばなるまいよ。その手土産さ」


「そうですわね。私も参りますわ。喜んで」

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