第27話 明日香先生
カッ、カッ、カッと、黒板とチョークがぶつかる音が静かな教室に響き渡る。この静寂はけっして生徒たちがまじめに授業を受けていることを表してはいない。ある生徒は内職を、またある生徒は惰眠をむさぼっているにすぎず、まじめに板書をノートにとっているのは小次郎くらいのものであり、単に私語をしている生徒がいないだけのことであった。無論、健人は惰眠をむさぼる生徒のひとりである。
生徒たちに背を向け、黒板にチョークを走らせる女性教師が、板書をひと通り終え、生徒の方に向き直った。まだ経験が浅いからか、ビジネスカジュアルで構わない職場にあっても、彼女はきっちりしたブラックスーツ姿で、ジャケットのボタンもきっちり留めていた。
「明日香先生」
小次郎が手を上げて、先生の名を呼んだ。明日香先生は弱々しい視線を小次郎によこした。
「……くん、何?」
明日香先生の声はか細く、聞き取りにくかった。
「見たところ、ノートをとっているのは私くらいのようだが、この授業に何の意味があるのだね。私とて、このくらいの内容ならば授業を聞かずとも自分で理解できる。とすれば、この授業はいよいよ意味がないことになるが……」
「わかってるわよ、そんなこと……」
明日香先生は弱々しい声で返した。目も、こころなしか潤んでいる。
「でも、仕方ないじゃない……、仕事なんだから」
小次郎は表情を変えずに答えた。
「うむ。先生らしい返答である……が、先生の言うことももっともであろう。たとえ意味のない授業であっても、この学校に雇われ、この時限にこのクラスでこの授業を行うことが決められているのだ。そうすることで、先生は学校から報酬を受け取っている。やむを得ないことだ。クラスの全員がよそを向いていようと、私は聞こう。続けてくれたまえ」
「なんて…⋯なんて、優しいの」
小次郎はよく分からないという顔をする。
「状況を分析したまでだ」
明日香先生は再び黒板に向き直った。
「いいの、それでも。今の私には、あなただけが救いよ」
先生の鼻水をすする音が聞こえる。
「うむ。よくわからんが、先生の心の支えになれているのならなによりだ」
二人の会話に参加してくる生徒はひとりもいなかった。興味がないのだ。
そこで、時限終了のチャイムが鳴った。
惰眠を貪っていた生徒たちは思い思いのタイミングで起き出した。
健人も大きなあくびをして身体を起こす。
「お、明日香先生、授業終わったか?」
明日香先生は赤く腫らした目で健人を睨みつける。
「なんだ、泣いてんのか? よくそんな豆腐メンタルで教師やってんな」
「おい、健人くん。その発言は少々デリカシーに欠けるようだが」
小次郎が言った。
健人が小次郎の方に首を曲げる。
「デリバリーだかカトラリーだか知らねえけど、俺はただはやく昼メシが食いてぇんだ」
「わざとだね、健人くん。まぁいい。明日香先生。健人くんも悪気はないようだから、このままお昼休みとするのがいいと考えるが、どうだろう?」
明日香先生は視線を落として悲しげにしたあと、小さく「そうね」と言い、教室をあとにした。
※
生徒たちの談笑で騒がしい昼休みの教室に、とりわけあるひとりの生徒の声が繰り返し聞こえた。その生徒は男子の中では声が高く、特によく響く声質をしているのだ。
「それいいね!」
「へぇ〜、それはすごいや!」
「それわかる!」
「僕もそう思うよ!」
その発言はすべて、他者への同調だった。声の主は智也という少年だ。談笑に興じる生徒たちのいくつかのかたまりのうちのひとつで、智也は人好きのする笑顔でひたすら賛同の意を表明し続けていた。
その様子を少し離れた自席で頰杖をついて眺める健人は、眉間にしわを寄せ、何かを訝しむような表情をしている。
「なんか、おかしい……」
健人はそうひとりごちた。
すると、健人の横から死んだ目をした真奈美がヌッと現れた。
「おかしいって、何が〜?」
健人は肩をビクッとさせる。
「あのなぁ、いつも言ってっけど、その幽霊みたいな登場のしかた、どぉにかなんねぇのか?」
「ごめんごめ〜ん」
真奈美は感情のこもらない返答で、全く気にしていない様子である。
「それで、何がおかしいの?」
「あ、ああ。それはだな……」
健人は真奈美のマイペースに調子を崩されてか、口をもごもごさせつつ、話を続けた。
「あの、智也のしつこい同調に誰も反発しねぇんだ」
「ふぅん……」真奈美が真顔で首を傾げ、思案する様子を見せた後、続けた。「自分の話を肯定されることはみんな好きだから、別におかしいことだとは思わないけど」
「いや」しかし健人は断固として自らの主張を押した。「あんだけしつこくて媚びの意図が見え見えの同調に対して、仮に反発の言葉はねぇにしても、絶対嫌な顔するやつはいるもんだ。けど、そんな空気が全くしねぇ。おかしい……」
「そんなもん? よくわからないな〜」
真奈美は感情のこもらない目で智也のいる人だかりを眺めた。しばらくそのようにしていたが、何も有効な手がかりは掴めなかったのか、すっと視線を健人の方へ戻した。
「ねぇ」と真奈美は身体を健人に寄せた。真奈美のサラサラとした髪が健人の頬に触れる。胸の膨らみが肘に押し付けられる。
「んだよ」
身をよじらせる健人。頬が軽く上気している。
「今日の帰り、カラオケ行かない?」
「ん? カラオケ? いいけど。そういや、お前とカラオケ行ったことなかったな」
「そだね。付き合い長いのにね〜。なんかね、今日歌いたい気分なんだ〜」
真奈美は流し目で健人を見る。
「あ、今変なこと想像したでしょ。個室で私と二人きり〜とか」
「してねえよ」
「ほんと? 顔、ちょっと赤いよ?」
「してねえって。お前と二人きりになったって、なんもねえよ」
真奈美は健人から身を離して立った。
「ま、いっか。とにかく、今日は付き合って〜」
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