REQUIEM 2

第26話 日常

「健人ぉ〜、朝ごはんできたわよ〜」


 遠くから聞こえてくる声に反応して健人はベッドから身を起こした。眠りからまだ十分に覚めず、なかなか開いてくれない目をしょぼつかせながら、気だるそうに伸びをする。首をこきこきとニ、三度鳴らし、深いため息を吐き出した後、健人はようやく口を開いた。


「わあったぁ〜、今行く〜!」


 階下の母親まで聞こえるように声を張る。しかし、寝起きの声帯は思うように動いてくれないらしく、声はところどころ嗄れ、裏返った。

 カーテンのすき間から射し込む細い陽光が、床に乱雑に置かれた成人誌を飾るグラビア女優たちを、無感動に区切る。穏やかな風がカーテンを揺らすたび、雑誌の所有者の欲求不満を嘲笑うように、陰と陽の境界がゆらぐ。

 ようやく平常通り目を開けることができるまで覚醒した健人は、気だるそうな様子を1ミリも変えることなく、パジャマ姿のまま階下へと向かった。



   ※



「あんた、落ち着いて食べなさいよ。そんな急がなくても、学校の時間までまだ余裕あるでしょ?」


 食卓に用意されていたベーコンハムエッグトーストを、口周りを汚しながらほおばる健人。それをいさめる母親は鬼のように目をつり上げているが、健人は我関せず、食べる手を止めない。父親は既に出勤したあとで、家にはいなかった。


「真奈美を待たせるわけにはいかねぇからな。あいつ、待ち合わせ場所に着くのいっつも早ぇんだ」


 食べかすを飛ばしながら話す健人。


「だったらもっと早く起きなさいよ! そんなきったない食べ方してたら、真奈美ちゃんに嫌われるよ」

「嫌われてもかまわねぇよ! 別に付き合ってるわけじゃねぇし」

「え? そうなのかい? てっきり行くとこまで行ってんのかと思ってたよ」


 本気で驚く母親の反応に調子を崩された健人は、食べているものを喉につまらせ、盛大にむせこんだ。


「ほら、急いで食べるからよ」

「ちげぇよ! 母さんが変な反応すっから驚いて、パンが気管にいっちまったんだ」

「……ちがったかい?」

「断じてな! あんな変態女と誰が付き合うかよ」

「変態女!? あんな気立てのいいお嬢ちゃんのどこが変態なのさ。まさかあんた、他の男に真奈美ちゃんとられて気が立ってんじゃないでしょうね?」


 健人の顔にあからさまな不快感が宿った。深々とため息を吐き出し、顔を伏せ、首を左右に二、三度振ったのち、ひとつ大きな深呼吸をした。そして再び顔を上げたとき、そこに不快感はもうなく、あるのは満面の呆れ顔だった。


「ぜぇんぶハズレ。母さんは妄想しすぎなんだよ」

「そうかい?」

「そう! まぁ、俺のこと待ってる間に変な男につかまってねぇか心配ってのはあるけどな。色んな意味でリスク高けぇから、あいつ」

「りすく? まぁいいけど、あんたもう高校生なんだから、浮いた話のひとつやふたつ作ってきなさいよ。そんなんじゃ、将来が心配だよ」

「余計なお世話だ」


 健人はトーストの最後のひと欠片を口に放り込んだ。


「じゃ、さっさと支度して、行ってくるわ」

「女の子待たせんじゃないよ!」

「まあ、いつもみたいにしゃがんで待ってるだろうよ」


 そして健人は最後にひと言付け加えた。


「ミニスカでな」



   ※



「よっす、いつもすまねぇな」


 健人が声をかけると、真奈美は死んだような目を健人に向けた。挨拶は視線だけで十分とでも言うように、何も言葉を発しない。健人が言った通り、真奈美は丈がかなり短いスカートを穿いて、しゃがんで待っていた。制服のプリーツスカートを過剰に裾上げしているのだ。

 若く健康的な足が風にさらされている。本人に隠す気が全くないため、角度によってはしっかりスカートの中が見える。

 健人は慣れているのか、視線の動きが自然だ。健人はそこに見えるもの全てを、その他の景色と同等に捉えているようだった。


「いいよ〜。ちょっと待つくらい、平気」


 真奈美は感情のこもらない声で答え、けだるそうに立ち上がった。スカートとは対照的に、ブレザーは袖の裾が長く、手の甲が隠れている。その非対称性がどこか危なげな雰囲気を醸していた。

 そのまま、ふたりは肩を並べて歩き出す。


「今日はメガネじゃねぇの?」

「うん、コンタクトデビューってやつ? このままじゃケンちんが私に振り向いてくれないと思って、強硬手段に出ました〜」


 真奈美はどこか翳りのある笑いを浮かべた。

 遠回しの告白とも取れるその発言を、健人は軽く流す。


「ただコンタクト入れるだけだろ?」

「違うよ〜。目がいいケンちんには分かんないかもだけど、眼科で検査したりめんどくさいんだよ〜。目に直接異物入れるのも抵抗あるしさ。私、頑張ったんだから」

「そういうもんか? まあ、頑張りは認めるよ」

「ん〜なんか違う。私が言ってほしいのはそうじゃない」


 真奈美は並んで歩く健人の前に出て、振り返って立ち止まった。健人も立ち止まる。


「どした?」

「ねぇ、メガネ取った私、可愛いでしょ」


 いたずらっぽい笑みを浮かべる真奈美は、たしかに可愛らしい。表情に宿る翳りは、可愛らしさの中に微かに色気を足していた。

 そこで健人の頬に差した赤みは、健人も健全な男子であることの証だった。


「ま、まあ、よく見たら、たしかにちょっと可愛いかもな」

「やった〜」


 真奈美が子どものようにはしゃぐ。

 健人は緩んだ表情をもとに戻して言った。


「モテるぜきっと。俺が保証する」


 真奈美が動きを止める。


「え〜。そ〜ゆうこと言う?」


 不服そうに頬を膨らまして、足もとの石ころを蹴る。

 健人はそんな真奈美を尻目に小さく笑い、スタスタ先へ進んでいってしまう。


「あ〜、待ってよぉ」


 真奈美も短いスカートの裾を揺らしながら走って追いかける。


「そういえば、英語のワークやった?」


 真奈美が聞いた。


「あ、いけね! やってねぇわ」

「だと思った〜。いいよ、私の見せてあげる。ついでに、スカートの中も」


 真奈美は上目遣いに健人を見、スカートの裾をちょいとつまむ。死んだような目は変わらないが、口もとは微かに緩み、頬は赤らんでいる。


「そのジョーク、つまんねぇからやめろ」

「はぁ~い」


 真奈美はまた足もとの小石を蹴り、「ちぇっ」と漏らした。


「相変わらず、きみたちはさながらバカップルだね。もっとも、羨望の念などはまったく湧きあがってはこんが」


 健人は背後から聞こえてくる男の声に反応して振り返る。


「は? 俺たちのどこにさながらバカップルを感じたのか教えてほしいぜ」


 健人の細めた視線の先には、黒縁のメガネをかけ、髪を七三にまとめた、インテリ風の男が立っていた。健人と同じ学ランを着ているが、健人がホックを外してラフに着ているのに対し、男はホックまできっちりと締め優等生然としていた。

 健人はしばし不快の目でその男を睨めつけたのち、ひとつ問いを投げた。


「で、今日は名前、何て呼びゃいい?」


 男は少し間をおいてから言った。


「小次郎——とでも呼んでくれたまえ」

「小次郎ね。はぁ……しっかし、毎日名前変えるのどうにかなんねぇのか? めんどくせぇったらねぇぜ」

「まあ、そういうな。友ではないか」


 小次郎は健人の肩に手を置いて言った。健人は眉をぴくぴくとさせながら小次郎を睨みつけるが、対する小次郎は冷静そのものの表情で健人を見据えた。


「そうだよ~。飽きなくていいじゃん」


 明らかに腹を立てている様子の健人の横で、真奈美が抑揚を欠いた声で言った。

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