君に咲いた名前

香依

紫苑の追憶

― これは、僕の叶わなかった春の初恋の話 ―




三月の、少し肌寒い放課後。

図書当番だった僕は、返却本の整理をしていた。

人影のない図書室。残っている生徒は僕と、卒業を明日に控えた図書委員長の先輩だけだった。


「ね、この間の作文、なんて書いた?」


静かな空間を破るように、先輩の声がした。


「え、急にどうしたんですか。」


「ほら、全クラス対象の作文コンクール。将来の夢ってテーマだったやつ。」


「……ああ、あれか。適当に書いたんで、あんまり覚えてないです。」


将来の夢。

あまりにも漠然としていて、進学とか、就職とか、そんな中身のないことを書いた気がする。


「ふーん、つまんないのー。」


先輩は返却本をぱらぱらとめくりながら、どこか楽しそうに言った。


「じゃあ、先輩は?将来の夢ってありますか?」


そう聞くと、先輩は指を折りながら語り出した。


「あるよ。編集の仕事したいし、結婚もしたいし、やりたいこと、いっぱい。」


「欲張りですね。」


「でしょー?」と笑う先輩は、本当に楽しそうだった。


けれど、話が一段落したところで、ふと表情が曇った。


「でもね、本当に一番なりたいものは、ちょっと違うんだ。」


「へぇ、それは何ですか?」


「……内緒。」


「え、なんで教えてくれないんですか。」


先輩はいたずらっぽく笑いながら、人差し指を唇にあてた。


「もし、卒業しても私のことを忘れなかったら、いつか教えてあげる。」


「随分と先の話ですね。」


そう返すと、先輩はあのとびきりの笑顔を見せて言った。


「女の子はね、ちょっとくらい秘密があったほうがいいの。」


――それが、先輩と交わした最後の会話になった。


僕は先輩が好きだった。

でも、あまりにも眩しすぎて、僕の隣にいてくれるような人じゃないと思ったから、告白はしなかった。

そんな勇気、僕にはなかった。




数ヶ月後のある日。

学校に、先輩のご両親だという夫婦が訪ねてきた。


「娘が……亡くなりました」


聞いた瞬間、意味がわからなかった。

彼女は重い心臓の病気を抱えていて、それをずっと隠していたという。

卒業直後に容態が急変し、入院先で静かに息を引き取ったのだと。


彼らは一通の手紙を差し出した。


「娘が、『自分が死んだら、貴方に渡してほしい』と、私達に託していたものです」


淡い紫の封筒。見覚えのある、彼女の色。

手が震えながらも封を切ると、丸い文字が柔らかく並んでいた。


『はろー。元気にしてるかな?

君がこれを読んでるってことは、私はもうこの世にいないんだよね。


ずっと内緒にしてたんだけど、実はね、私、心臓に爆弾を抱えてたの。破裂したら一発アウトのやつ。

隠しててごめんね。


あのさ、卒業前に話した「将来の夢」、覚えてる?

あのとき、本当に一番なりたいものは……って言いかけて、誤魔化したじゃん?


本当はね、私、“海の一部になりたかった”の。

ちょっと変でしょ?でも、海を見れば、君が私を思い出してくれる気がしたんだ。

君が悲しいとき、苦しいとき、私を思い出してもらえる場所になりたかった。


でも本音を言えば、本当はもっと一緒に生きていたかった。

君と図書室で過ごした放課後がね、すごく心地よくて。

その時間があったから、“生きたい”って、思ってしまったんだ。


……好きだったよ。とても。

今でも、君が好き。


一緒の時間をありがとう。

私の最後の思い出になってくれてありがとう。


もしも生まれ変わることができたら、今度は君の隣で生きていたいな。』


涙で文字が滲んでいた。

どこか不器用で、でも優しいあの人の筆跡だった。


気づけば、静かに泣いていた。


顔を上げて、僕はご両親に言った。


「……先輩のお墓に、お線香をあげに行ってもいいですか?」





休日、小高い丘の上にあるその墓地を訪れた。

そこからは、海と地平線がきれいに見渡せた。

春風が吹いていて、心地よい匂いがした。


墓前に、彼女の名前がついた花をそっと手向ける。


「先輩、ずるいですよ。あんな手紙……。」


しゃがんで、墓石と同じ目線で語りかける。


「……でも、ちゃんと伝わりました。僕も、好きですよ。紫苑先輩。」



頬をなでた風が、まるで答えるように、やさしかった。

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