十章



 九泉主は数日、宮に籠って斎戒さいかいののちに昇黎するという。その間、やることがないので来たるべき命を懸ける誓いとやらに備え、こちらも鍛錬に打ち込み余念を消す。巫師ではあれど兄弟と共に武芸の腕を磨いた身であり、嫁いでからも叛逆した八馗はっき他家との抗争で実際に剣や戈戟ほこを取り戦った。実力は剣豪とあがめられる麝君ジャクンを不本意ながらも唸らせるほどであるから、自分でもまあまあだとは思っている。


 あれから九泉主には、親切かわざとか男物の衣ばかりを貸し与えられる。おちょくられているのかとしゃくだが、動きやすくて助かることは間違いない。さらに、身の回りにあてがわれたのも常人の下官と異なる。


 孳孳ほど人離れした者がいるわけではない。奇異なのは彼女らの見目だった。

 茶や赤茶髪はおれどさすがに自分ほどの丹罽まっかはおらず、しかしながらシンシンのようなごく薄い金の髪を持つ者はいた。どちらにしても瞳、肌の色、顔貌もおおよそ泉人だとは思えない。


「私たちは泉主の賞翫物たからものです」


 薄い空の色をうつした両眼を持つ下官のひとりはふんわりと笑んで優雅な所作で手巾てぬぐいを差し出した。

「もとはほとんどが西から売られてきた泉賤どれいだったのです。九泉主は面白い御方。私どものような変な色の子がいれば老若男女、妖でもすぐに報告せよと全国に触れをお出しになっていて、それで献上した者にはご褒美がたんまり出るものですから、女衒ぜげんは私たちをそこいらの金持ちには売らず国府に売る。そうして後宮に集められました」

「そうか。軽々な慰めは言えないが、苦労したのだろう。ここでは不便なく?」

 そりゃあもう、と萌黄もえぎ色のひとりが横から口を出す。

「泉主はあたしたちの天帝かみさまです。ここでは誰も寒さで死んだりしないしお腹いっぱいごはんが食べられる。むちでひっぱたかれることもない。あたしたちはただこの色のおかげで命拾いしたんです」

「貴殿らのような者たちもこれほど多くいるのだな」

「集められているから多く見えるだけで、流れてくるのは多くて四、五年、少なくて十年に一度くらいですよ。泉主はあたしたちが死ぬまで追い出したりなさらないから余計にそう感じるのでしょう」

 そうか、と複雑な心境でもう一度呟いた。色彩豊かに藹々あいあいさえずる彼女たちから、俯瞰ふかんのために一歩距離を置く。ふと、特に容姿も目立たない男女を見つけた。


 泉国の民と同じく黒髪黒目の二人は並んで遠巻きにこちらを見ている。漆塗りの笠を被り衣も黒、影に紛れるように佇む。宮の護衛か、と得心したが、それでもどことなく異質な気配に目を逸らせずにいれば、男のほうが視線に気がつき、すぐ俯いて笠の向こうに顔を隠した。女は逆にこちらを直視し、隣に何事かを話しかけた。


 色のさざなみたちが昼餉ひるげの用意の為に宮に入ったのを見計らい二人を呼ぶ。彼らは顔を見合わせ、近づいてきた。

 護衛なら帯剣しているはずが、丸腰だ。衣も身軽そうではあるが武官にしてはゆったりとしている。どうやら違うか、と窺う。


「失礼だが?」

「……主公だんなさまから、あなたさまに拝謁しておくよう言われて参じました。なにか宮外のものをご所望の折はなんなりとお申しつけください」

「主公?」

崔遷さいせんさまです」

 ああ、と頷く。「では後宮の下官ではなくあの御仁の付き人か。崔遷…どのは若いのに下僕しもべが沢山いる。よほどの金持ちか」

「家柄は申し分ないと聞き及びます。しかし私どもも、郎君わかぎみと同じくたまたまあの方に拾われた身ですゆえ、生粋の家僕ではございません」

 孳孳のことは郎君と呼ぶのか。彼らの中でも格上らしい。

「崔遷どのは各地を旅していたとか。由歩ゆうほではなかろうによくやる」

「はい。あの方は健脚でございます。あちらこちらと休みもせず各国を巡っておりました。ここに一年いるのが珍しいくらいです」

 女はきりりと答えたが、あの、と言い淀む。

不躾ぶしつけながら、ひとつ、お訊きしてもよろしゅうございますか」

「なんだ?」

「可敦さまは、泉地の外に暮らす御方とか」

「ああ。由霧の裂け目に棲んでいる」

「どのへんに?」

「東寄りの、ほぼ北だ。年中寒くて乾燥している」

 二人が少しばかり身を乗り出した。「東寄り、ですか。どんな暮らしを?」


 興味があるのだろうか。そこまで気になるものか、と語っているうちに、しかし今度は徐々に顔を曇らせてきた。感情の変化が何を意味しているのかこちらにはよく分からない。

「どうかしたのか」

 いえ、と男は睫毛を伏せ、女は眉間を揉んだ。さも期待外れだったという態度に首を傾げる。

「なにか……捜しているのか?」


 なんとなくそんな気がした。するとひどく狼狽して目を泳がせ、二人して窺い合い、女のほうが思い詰めた顔で言うべきことを決心したと口を開いた。


「私どもは、同胞を捜しております」

「同胞」

「私のムラは皆漁師で、『海』で魚をって暮らしておりました」

「うみ……?」

「ご存知ありませんか。水が地平線まで広がる大きな溜池です」

「うみ、とは由霧のことではないのか?厚い霧が漂って沈むさまをそう言うのだと思ってきたが」

 男が首を振る。「こちらでは八泉でしか見たことがないのですが、ともかく漁に出ていたおりに嵐に見舞われ難破し、気づいたら浜辺に打ち上げられていたのです。私たち、二人とも」

「八泉はそれほど大きな泉があるのか」

「はい。広大な塩泉えんせんで……八泉人や私どもはあれを海と呼びます」

「それで、なぜそこに打ち上げられたというのにこんなところまで来て仲間を捜している。八泉にはいなかったのか」

 それなら、残念だが他の人々は助からなかったのでは。そう思ったが、女は勢いよく首を振った。

「違います――――違うのです」

「可敦さま。変なことを言い張るとお思いになるかもしれませんが、少しでも手がかりが欲しいのであえて言います。――私たちが漁に出た港は、八泉ではないのです。そもそも、私たちは大泉地なぞ知らない。毒の霧も、黎泉という神も、何もかも知らないのです」

「私たちが奉じてきた神とは日輪の大御神おおみかみ。水の神ではありません。神孫たるみかどはおわすがおられないと水が涸れるというような土地には住んでおりませんでした」


 頭のなかで疑問が浮いたまま、はあ、と間の抜けた声を出す。この者たちは何を言っているのか。


「寝惚けているとおっしゃりたいでしょう。私どもとて、互いがおらねばもっと早くにそう信じたことと。ですが、確かにこの世は今まで私たちが暮らしてきたところとは、――――『うちつくに』とは違う世なのです。あの色の異なる下官たちもおそらく同じようにこの大泉地へ流されてきた者たち、しかし彼らは自分がどう生まれて育ってきたのかまるでおぼえていない。砂の中から見つけ出される以前の記憶がないのです。ここではあれらを砂人さじんと呼び習わします。そして、私どものように八泉の波間から揺蕩たゆとうて来た者を波人はじん、と、そう呼んで区別しているのです」

「ちょっと、待て?つまりは、全く関わりのない者どうしでその、別の国……別の世界で生きていた記憶があると、そう言っているのか?」

 男は頷いた。

「その通りです。私とこの者は八泉で出会いました。それ以前には全くの他人、しかし、どちらも『うちつくに』で生まれ、同じように荒波の大海を彷徨いここへ来た、という記憶を持っている」

「集団で……幻を見たとか。それか、なにかの夢占ゆめうら?」

「ありえません」

 声を揃えた二人は不安げにしている。「八泉には、他にも同じような者がいるのです。ですから奇怪な人々として波人という呼び名が定着するほどなのです。可敦さまは泉地の御方ではないという。なら、我々のことをなにかお知りでないかと、そう思い………」

 女は言葉を尻すぼみにして押し黙った。こちらは唸る。

「申し訳ないが、全く聞いたことがない……。私も泉地に降りたのは初めてで、物を知らない。力になれなくて申し訳ないが」

「いえ。良いのです。とんだご無礼をしてしまい、こちらこそ申し訳ありません」

 二人は額を地に擦りつける。悄然とした様子にちくりと心が痛んだ。

「九泉主には訊いてみたのか。あの男ならそういう奇聞伝聞にも詳しいのでは」

「私どもがなぜこんな憶えがあるのか、長年旅をしてきた崔遷さまでさえ分からないのです。きっと九泉主もお分かりにならないでしょう。波に飲まれたあと目覚めた時には、言葉が通じはすれど習慣も考え方も暮らし方もまるで分からないところへ来ていた。もしかすれば本当に、一度こちらで生まれた記憶を失くし、その間に見た夢なのではとも疑いましたが、時おり漁網に引っかかる人間がことごとく我々のような者ばかり。さすればこれはやはり、どこか別のうつつで暮らしていた時のものなのだろうと、…………十五年経った今ではそう思い直しております」

 二人は寂しげに目を細めた。

「私たちは、知らぬ間に故郷を失ったのです」





 ――――知らぬ間に、故郷を……。

 ここに来てからと言うもの、見たことも聞いたこともない話や人が多くありすぎて、正直混乱する。そしてますます、この世界とは一体何なのだという謎が大きくなる。


 早く九泉主に教えてほしい。彼はこの世の理全てを知っている。こうして時を無駄にしている間にも一族は苦しみ、なんとか逃れようと馬鹿の一つおぼえに掠奪を繰り返し、新たな苦しみと憎しみを生んでいる。非業と破壊は永遠に繰り返され、わずかばかりの恵みをよすがとしたとて仲間たちはこれからも減り続ける。


 もしかしたら、とふいに絶望に襲われて身震いした。自分が良いたよりを携えて帰還した時には、すでに皆死んでいるのでは。あの波人たちが言ったように、己が不在の合間に、皆干涸らびて朽ち果てているのでは。

 早く帰らなければ、と思う。しかしこのままむなし手では許されない。九泉主から何としても聞き出し、手に入れなければ。


 世界の『鍵』を。







 れながら待つこと十日。彼はようやく顔を見せた。といっても、面紗ふくめんで覆われている。かしましい砂人の女たちは一様に懐いた調子で甘えたが、潔斎を終えた主に触れてはならぬと距離をとる分別はあった。


「寡人の花魄ようせいたちは面白かったろう?」

「……にぎやかだった」

「辛い思いを隠して空惚そらとぼけに見えたかな」

「……いや。心から安らいでいるように見えた」

 だろう、と笑い含んで立ち止まる。

「汝は頑なに一族の命運を自身で掴まねばとするが、寡人の申し出とて汝のその天命に引き寄せられたうちのひとつと思えば、それは実力だ。別に断る理由はないのでは?」

「私にここであの女たちのようになれと?」

「わざわざ生きにくい地になぜ暮らす」

 泉主は涼しげなまなじりをさらに細める。「固執し粘着するほど良い場所のようには聞こえない」

「ではお前が一族すべてに水の地を与えてくれるのか」

「正直なところ、寡人自身はこだわらぬ。この九泉国は汝たち一族を養えるだけの土地と水は十分にある。だが、我が国民くにたみと、何より黎泉がどうご覧じになるかは分からない。九泉は血をぜれば子が出来にくく危ういからな。おそらく寡人が勅令を出したとてそれは通らない」

「己は出来もしないくせによく言う」

「だが汝と汝の家族くらいは内密に連れてきても全く構わない。寡人が囲えるくらいの数なら造作もない」

 奥歯を噛む。それは抜け駆けで、裏切りだ。

「……不可だ」

「一族と命運を共にするというその赤心まごころは素晴らしいものだ。しかし幼い子らはどうかな。何も分からぬうちに渇きで喉を掻きむしって死んでいくのを一族の為でしようがないと見つめていられるのか。救いの手立てが自分にあるのにそれを使わずに?」

 良いぞ、と俯く顔を覗き込んでくる。「これも取引に含めても問題はない。寡人はそれほど汝と離れがたいのだ。これほど譲歩しても決意は揺らがないのか?」

 ただ首を振ってみせるとさらにさみしげにした。「肉欲も不要。愛し返してもらいたいわけでもない。ただ、ここにいて、たまにこうして言葉を交え、傍にいて欲しいだけ」

「……私は」

「寡人は優しくはないか?」


 優しい。九泉主は今まで出会った男のなかで、最も。でもそれは出来ない。力なく再び首を振れば、一本足りない左手を握られた。


「使命を果たしたとて、本当にむくわれるか。一族へ忠義を示して、それに見合った幸福を得られるか。これほど裏切られ、痛めつけられてきて未だにおのが血の縛りを保とうと必死になるのは何故なのだ?」

 ててしまえ、とほのめかす。隼蜂シュンポウ儞爾ニルがそうしたように。

「…………そうして、お前に飼われろと抜かすのか。私には不可能だ。私たちは、もともとが行き場のない、この世界には居場所などない民だ。ようやく定めた土地を放棄して泉国の慈悲に縋るのも、たしかに一理はあるのだろう。だが、それだって絶対に幸せになれるかというとそうではない。それに、我々にも矜恃はある。子々孫々にわたってひらいてきた里をいとも簡単に忘れ、故郷を持たぬ異邦の民としてこの地で『違う』者となり生きるのは、縛りが多すぎる。鳥籠に入れられた鳥になることは、できない」


 飼い鳥は餌を自分ではれないのだ。与えられることでしか生きながらえられない。野鳥がひもじい思いをしているのを後目にたらふく食べ、飲める。しかし崩壊は一瞬だ。飼い主が、やめだ、と唱えた途端にその生は絶たれる。


 自分の命綱を強者に預けて一時の安らぎを買うか、日々辛酸をめるとしても首輪のついていない自由を得るか。


 おそらく、同胞たちは飼われることを良しとはしない。むしろ自分たちが強者になりたがる。飼い主を殺して成り代わる。自分とて――目を閉じた。水の民が羨ましくて、憎い。吸う息と同じほど飽和した溢れる水を前にして、それを当たり前に無駄に零し遊ぶその豊かさに嫉妬して、憎くてやるせなくてたまらない。分け与えてもらっても素直に有り難がれない。彼らが主権者であるかぎり、こんな気持ちがあるかぎり、根付いた土地がひび割れ荒れすたれても棄てられはしない。


 九泉主は溜息を吐いた。

「寡人には命を預けられないと?言うなれば大泉地の民すべての生命を寡人は負っているというのに、それでも信じられないか………」

「どういうことだ」

九泉くせんは、この大地の泉が九つにかたれた時に最も遅く生まれた。大泉地完成の為の最後の総仕上げ、ゆえにこの地を封じるかなめとなった。だから寡人は中天。この世界の中心であり核。兄たちの狂悖暴戻きょうはいぼうれい殺伐激越さつばつげきえつを統御する唯一絶対の守護九子、椒図しょうず

「椒図……」

九天九土せかいおわりはじまりにおけるすべての摂理を秘める者だ。椒図はその特性においてそれをうしなわなかった。だから汝にも出来うるだけの救恤すくいを差し伸べてやれる。それには人が好きなのだ。愚かで下劣で醜く振る舞うのに、同じ舌で寿ことほぎと感謝と協和を歌う。その不均衡で不完全なさまが愛おしくてどうしようもないのだ。あまりにももろい――弱い人。それは理を隔てたほうのヒトにも変わりなく、むしろより哀れでいたたまれず力になってやりたいとしぜん思う。汝はそれを恵まれた者の偽善で傲慢だとののしるのであろうが、それでも」

「……まるで私たちが思い描く神そのものだな、お前は。どんな罪もゆるしてくれそうだ。なのに、こうまでして私を助けることで自ら罪を被ろうとする」


 男の手はひんやりと冷たく、温められはしない。正直、心地好かった。彼の優しさは水そのもの、受け入れれば満たしてくれる。受け入れなければそのまま流れてゆく。冷たい火だ、と思った。黒い爪の白い指が羽毛を撫ぜるように頬に触れてくる。愛でながら、壊したくない、と危ぶむのが伝わる。


 泉主はまなじりに皺を寄せた。

「中天は神ではない。人は禍罪まがつみを背負って生きるもの。この世でいちばん欲にまみれたけがれた魂。たとえ天から特別な役割を付与されているとしても、人として与えられたゆえにそれをどう解釈して行使するかは、人としての決定次第なのだ。寡人は汝を助けたい。だから許されうるかぎりを後押ししたい。しかしこれを過分にくほうはまず不足の分として埋め合わせる犠牲を差し出さねばならない」

「誓いを立てるというわけだ」

 そう、と歩きだす。「そして寡人の持つ力を信じて誓いをす前に、汝は奇跡の片鱗を見たいと望んだ。寡人はシンのようにそれを図々しいとは思っていない。なぜなら、人は目に見えるものしか信じようとはしないから、当たり前のことだ」

 ぺたぺたと足音が響く。「まことの奇跡を見てさえ信じない者もいる。汝もそうかもしれない。だがこの世は有り得ないような複雑な事象の重なりの連続により、たしかに形成されている。それは否定しようのない事実。寡人はそのただ一端を披露することしか出来ぬから、あとは汝が心から信ずるか、己を騙すしかないのだ」





 従い遠大な階を登ってやって来たのは当初に辿り着いたあの白銀の大方壇だった。地上からかなり高い場所であろうに、どこからか、白くけぶる水煙を湧き立たせながら青紫の大瀑布が遥か真下で広い泉に落ちる。見上げればぐるりと扇形の屋根のような多彩にきらめく覆いが折り重なり、水の流れを時おり受けとめ銀飛沫をあげている。壇の天辺は吹き抜けに開けた空、床の四方には意匠を凝らした大鼎おおかなえと、もうひとまわり小さく錐台すいだいを構えた中央上、巨大な水盤からも水が流れ落ちていた。


 錐台に巻きついているのは彫り出した蛇――――いや、所々には肢趾あしゆびが見える。錐台の背後に紫石をめた鋭い双眸の頭が覗く。優美なたつの彫り物だった。抱え込むようにした大水盤、その縁に腰掛けているのはあの金の少女。水の中に脚を浸したまま、じっとこちらを見据えて動かない。


 頂上へとゆっくり歩を進める。登りきったところで「汝はここで見ておきなさい」と留め置き、泉主は面紗を落とした。


 少女に微笑む。相手は少しいじけたような表情を見せたが自らの手の甲を差し出し、口付けさせてやっと和らいだ。泉主は肩越しに振り向く。

「昇黎とは、黎泉へ赴くこと。しかしそれは物質量においてではない。赴くとはつまりは受け容れられること。許される者は行って戻って来られるし、そうでない者は神罰いかずちに死す。寡人は紛れなく九泉の王、九子の半双かたわれ。それは魂を育む水によって示される」


 少女が長い爪で主の手首をゆっくりとなぞる。溢れ出てきたのは彼自身の内をほとばしる赤い水。命の権化。

 とめどなく滴り降り落ち、そうして腕は傷口ごと静かに水盤の中へ沈められた。


 刹那、燐光を放って泉主は消えた。泉主だけではなく、絡みついていた少女さえも、砂金の山が崩れるようにして跡形もなく溶けてしまった。



「………これが、奇跡か………」



 茫然として、中身のなくなって落ちた軽い衣擦れの音を聞き、静まり返った空間にひとり取り残された。もう何者の影もなく、まるでたった今起きたことが夢であるかのごとく、水盤は初めから何事もなかったように水を溢れさせている。

 たしかに目の前で溶け消えた残像を反芻しながら腕を組む。白玉の階に座り込んだ。つまりは、自身の血を媒介として泉の源である黎泉へ昇ったということか。血は器である肉体と魂を繋ぐ役割、何らかの方法で黎泉に允許ゆるしを取らねばならず、資格を持たねばはじかれる。その允許が天啓てんけいということなのか。


 じゃあ、とてのひらを額に当てた。泉主が自分にさせようとしている誓いとは、そういうことなのでは。これまでの話では天啓とはつまりは『選定』のことだと言っていた。ああ――――なるほど、と息を吐いた。九泉主は、『選定』に挑めと言っているのだ。本当なら、それは当主候補にしか許されない儀軌ぎき、妖獣を従えて強大な力を得るための一連の闘い。


(私に、麝君ジャクンを差し置いてけろと?)


 出来るのか、と寝転がった。水天井には青い空が切り取られて白い雲が流れている。故郷の穹廬いえと同じだ、と突然思い出した。急激に過去の記憶に引き戻され頭を抱える。呼吸の仕方が分からなくなってそのまま体を丸め、喉を押さえ込んだ。



 ――――当主には従わねばならない。一族の中で最も力ある戦士、神力を天から与えられた特別な者。大地の守護者であり加護者。いただくことはほまれであり誇り、我々は当主を崇めたてまつりその祝福を分け与えられる。



 ――――あの日、腕に触れられた。



 欲しいと、捧げろと目で訴えられた。体の隅々までしゃぶり尽くされ、心を踏みつけにされ、り潰された。差し出すことは恭順を示すこと。自らが求められることは幸福なのだと思い込もうとした。


(当主だったから)

(一族を導く者だったから)

(尽くすべき伴侶だったから)


 だから従ってきた。彼がいなければ、生きていけなかったから。


 でも。


 ――――もしも私が『選定』に成功したら………。



 麝君は、もういらない。




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