十章
九泉主は数日、宮に籠って
あれから九泉主には、親切かわざとか男物の衣ばかりを貸し与えられる。おちょくられているのかと
孳孳ほど人離れした者がいるわけではない。奇異なのは彼女らの見目だった。
茶や赤茶髪はおれどさすがに自分ほどの
「私たちは泉主の
薄い空の色を
「もとはほとんどが西から売られてきた
「そうか。軽々な慰めは言えないが、苦労したのだろう。ここでは不便なく?」
そりゃあもう、と
「泉主はあたしたちの
「貴殿らのような者たちもこれほど多くいるのだな」
「集められているから多く見えるだけで、流れてくるのは多くて四、五年、少なくて十年に一度くらいですよ。泉主はあたしたちが死ぬまで追い出したりなさらないから余計にそう感じるのでしょう」
そうか、と複雑な心境でもう一度呟いた。色彩豊かに
泉国の民と同じく黒髪黒目の二人は並んで遠巻きにこちらを見ている。漆塗りの笠を被り衣も黒、影に紛れるように佇む。宮の護衛か、と得心したが、それでもどことなく異質な気配に目を逸らせずにいれば、男のほうが視線に気がつき、すぐ俯いて笠の向こうに顔を隠した。女は逆にこちらを直視し、隣に何事かを話しかけた。
色のさざなみたちが
護衛なら帯剣しているはずが、丸腰だ。衣も身軽そうではあるが武官にしてはゆったりとしている。どうやら違うか、と窺う。
「失礼だが?」
「……
「主公?」
「
ああ、と頷く。「では後宮の下官ではなくあの御仁の付き人か。崔遷…どのは若いのに
「家柄は申し分ないと聞き及びます。しかし私どもも、
孳孳のことは郎君と呼ぶのか。彼らの中でも格上らしい。
「崔遷どのは各地を旅していたとか。
「はい。あの方は健脚でございます。あちらこちらと休みもせず各国を巡っておりました。ここに一年いるのが珍しいくらいです」
女はきりりと答えたが、あの、と言い淀む。
「
「なんだ?」
「可敦さまは、泉地の外に暮らす御方とか」
「ああ。由霧の裂け目に棲んでいる」
「どのへんに?」
「東寄りの、ほぼ北だ。年中寒くて乾燥している」
二人が少しばかり身を乗り出した。「東寄り、ですか。どんな暮らしを?」
興味があるのだろうか。そこまで気になるものか、と語っているうちに、しかし今度は徐々に顔を曇らせてきた。感情の変化が何を意味しているのかこちらにはよく分からない。
「どうかしたのか」
いえ、と男は睫毛を伏せ、女は眉間を揉んだ。さも期待外れだったという態度に首を傾げる。
「なにか……捜しているのか?」
なんとなくそんな気がした。するとひどく狼狽して目を泳がせ、二人して窺い合い、女のほうが思い詰めた顔で言うべきことを決心したと口を開いた。
「私どもは、同胞を捜しております」
「同胞」
「私の
「うみ……?」
「ご存知ありませんか。水が地平線まで広がる大きな溜池です」
「うみ、とは由霧のことではないのか?厚い霧が漂って沈むさまをそう言うのだと思ってきたが」
男が首を振る。「こちらでは八泉でしか見たことがないのですが、ともかく漁に出ていたおりに嵐に見舞われ難破し、気づいたら浜辺に打ち上げられていたのです。私たち、二人とも」
「八泉はそれほど大きな泉があるのか」
「はい。広大な
「それで、なぜそこに打ち上げられたというのにこんなところまで来て仲間を捜している。八泉にはいなかったのか」
それなら、残念だが他の人々は助からなかったのでは。そう思ったが、女は勢いよく首を振った。
「違います――――違うのです」
「可敦さま。変なことを言い張るとお思いになるかもしれませんが、少しでも手がかりが欲しいのであえて言います。――私たちが漁に出た港は、八泉ではないのです。そもそも、私たちは大泉地なぞ知らない。毒の霧も、黎泉という神も、何もかも知らないのです」
「私たちが奉じてきた神とは日輪の
頭のなかで疑問が浮いたまま、はあ、と間の抜けた声を出す。この者たちは何を言っているのか。
「寝惚けているとおっしゃりたいでしょう。私どもとて、互いがおらねばもっと早くにそう信じたことと。ですが、確かにこの世は今まで私たちが暮らしてきたところとは、――――『うちつくに』とは違う世なのです。あの色の異なる下官たちもおそらく同じようにこの大泉地へ流されてきた者たち、しかし彼らは自分がどう生まれて育ってきたのかまるで
「ちょっと、待て?つまりは、全く関わりのない者どうしでその、別の国……別の世界で生きていた記憶があると、そう言っているのか?」
男は頷いた。
「その通りです。私とこの者は八泉で出会いました。それ以前には全くの他人、しかし、どちらも『うちつくに』で生まれ、同じように荒波の大海を彷徨いここへ来た、という記憶を持っている」
「集団で……幻を見たとか。それか、なにかの
「ありえません」
声を揃えた二人は不安げにしている。「八泉には、他にも同じような者がいるのです。ですから奇怪な人々として波人という呼び名が定着するほどなのです。可敦さまは泉地の御方ではないという。なら、我々のことをなにかお知りでないかと、そう思い………」
女は言葉を尻すぼみにして押し黙った。こちらは唸る。
「申し訳ないが、全く聞いたことがない……。私も泉地に降りたのは初めてで、物を知らない。力になれなくて申し訳ないが」
「いえ。良いのです。とんだご無礼をしてしまい、こちらこそ申し訳ありません」
二人は額を地に擦りつける。悄然とした様子にちくりと心が痛んだ。
「九泉主には訊いてみたのか。あの男ならそういう奇聞伝聞にも詳しいのでは」
「私どもがなぜこんな憶えがあるのか、長年旅をしてきた崔遷さまでさえ分からないのです。きっと九泉主もお分かりにならないでしょう。波に飲まれたあと目覚めた時には、言葉が通じはすれど習慣も考え方も暮らし方もまるで分からないところへ来ていた。もしかすれば本当に、一度こちらで生まれた記憶を失くし、その間に見た夢なのではとも疑いましたが、時おり漁網に引っかかる人間が
二人は寂しげに目を細めた。
「私たちは、知らぬ間に故郷を失ったのです」
――――知らぬ間に、故郷を……。
ここに来てからと言うもの、見たことも聞いたこともない話や人が多くありすぎて、正直混乱する。そしてますます、この世界とは一体何なのだという謎が大きくなる。
早く九泉主に教えてほしい。彼はこの世の理全てを知っている。こうして時を無駄にしている間にも一族は苦しみ、なんとか逃れようと馬鹿の一つおぼえに掠奪を繰り返し、新たな苦しみと憎しみを生んでいる。非業と破壊は永遠に繰り返され、わずかばかりの恵みをよすがとしたとて仲間たちはこれからも減り続ける。
もしかしたら、とふいに絶望に襲われて身震いした。自分が良いたよりを携えて帰還した時には、すでに皆死んでいるのでは。あの波人たちが言ったように、己が不在の合間に、皆干涸らびて朽ち果てているのでは。
早く帰らなければ、と思う。しかしこのまま
世界の『鍵』を。
「寡人の
「……にぎやかだった」
「辛い思いを隠して
「……いや。心から安らいでいるように見えた」
だろう、と笑い含んで立ち止まる。
「汝は頑なに一族の命運を自身で掴まねばとするが、寡人の申し出とて汝のその天命に引き寄せられたうちのひとつと思えば、それは実力だ。別に断る理由はないのでは?」
「私にここであの女たちのようになれと?」
「わざわざ生きにくい地になぜ暮らす」
泉主は涼しげな
「ではお前が一族すべてに水の地を与えてくれるのか」
「正直なところ、寡人自身は
「己は出来もしないくせによく言う」
「だが汝と汝の家族くらいは内密に連れてきても全く構わない。寡人が囲えるくらいの数なら造作もない」
奥歯を噛む。それは抜け駆けで、裏切りだ。
「……不可だ」
「一族と命運を共にするというその
良いぞ、と俯く顔を覗き込んでくる。「これも取引に含めても問題はない。寡人はそれほど汝と離れがたいのだ。これほど譲歩しても決意は揺らがないのか?」
ただ首を振ってみせるとさらに
「……私は」
「寡人は優しくはないか?」
優しい。九泉主は今まで出会った男のなかで、最も。でもそれは出来ない。力なく再び首を振れば、一本足りない左手を握られた。
「使命を果たしたとて、本当に
「…………そうして、お前に飼われろと抜かすのか。私には不可能だ。私たちは、もともとが行き場のない、この世界には居場所などない民だ。ようやく定めた土地を放棄して泉国の慈悲に縋るのも、たしかに一理はあるのだろう。だが、それだって絶対に幸せになれるかというとそうではない。それに、我々にも矜恃はある。子々孫々にわたって
飼い鳥は餌を自分では
自分の命綱を強者に預けて一時の安らぎを買うか、日々辛酸を
おそらく、同胞たちは飼われることを良しとはしない。むしろ自分たちが強者になりたがる。飼い主を殺して成り代わる。自分とて――目を閉じた。水の民が羨ましくて、憎い。吸う息と同じほど飽和した溢れる水を前にして、それを当たり前に無駄に零し遊ぶその豊かさに嫉妬して、憎くてやるせなくてたまらない。分け与えてもらっても素直に有り難がれない。彼らが主権者であるかぎり、こんな気持ちがあるかぎり、根付いた土地がひび割れ荒れ
九泉主は溜息を吐いた。
「寡人には命を預けられないと?言うなれば大泉地の民すべての生命を寡人は負っているというのに、それでも信じられないか………」
「どういうことだ」
「
「椒図……」
「
「……まるで私たちが思い描く神そのものだな、お前は。どんな罪も
男の手はひんやりと冷たく、温められはしない。正直、心地好かった。彼の優しさは水そのもの、受け入れれば満たしてくれる。受け入れなければそのまま流れてゆく。冷たい火だ、と思った。黒い爪の白い指が羽毛を撫ぜるように頬に触れてくる。愛でながら、壊したくない、と危ぶむのが伝わる。
泉主は
「中天は神ではない。人は
「誓いを立てるというわけだ」
そう、と歩きだす。「そして寡人の持つ力を信じて誓いを
ぺたぺたと足音が響く。「
従い遠大な階を登ってやって来たのは当初に辿り着いたあの白銀の大方壇だった。地上からかなり高い場所であろうに、どこからか、白く
錐台に巻きついているのは彫り出した蛇――――いや、所々には
頂上へとゆっくり歩を進める。登りきったところで「汝はここで見ておきなさい」と留め置き、泉主は面紗を落とした。
少女に微笑む。相手は少しいじけたような表情を見せたが自らの手の甲を差し出し、口付けさせてやっと和らいだ。泉主は肩越しに振り向く。
「昇黎とは、黎泉へ赴くこと。しかしそれは物質量においてではない。赴くとはつまりは受け容れられること。許される者は行って戻って来られるし、そうでない者は
少女が長い爪で主の手首をゆっくりとなぞる。溢れ出てきたのは彼自身の内を
とめどなく滴り降り落ち、そうして腕は傷口ごと静かに水盤の中へ沈められた。
刹那、燐光を放って泉主は消えた。泉主だけではなく、絡みついていた少女さえも、砂金の山が崩れるようにして跡形もなく溶けてしまった。
「………これが、奇跡か………」
茫然として、中身のなくなって落ちた軽い衣擦れの音を聞き、静まり返った空間にひとり取り残された。もう何者の影もなく、まるでたった今起きたことが夢であるかのごとく、水盤は初めから何事もなかったように水を溢れさせている。
たしかに目の前で溶け消えた残像を反芻しながら腕を組む。白玉の階に座り込んだ。つまりは、自身の血を媒介として泉の源である黎泉へ昇ったということか。血は器である肉体と魂を繋ぐ役割、何らかの方法で黎泉に
じゃあ、と
(私に、
出来るのか、と寝転がった。水天井には青い空が切り取られて白い雲が流れている。故郷の
――――当主には従わねばならない。一族の中で最も力ある戦士、神力を天から与えられた特別な者。大地の守護者であり加護者。
――――あの日、腕に触れられた。
欲しいと、捧げろと目で訴えられた。体の隅々までしゃぶり尽くされ、心を踏みつけにされ、
(当主だったから)
(一族を導く者だったから)
(尽くすべき伴侶だったから)
だから従ってきた。彼がいなければ、生きていけなかったから。
でも。
――――もしも私が『選定』に成功したら………。
麝君は、もういらない。
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