第五話 日本での恋愛事情

 俺は精神が入れ替わってから久しく見ていなかった夢の世界にいるようだ。


 手や足の感覚がなく、まるで無重力の中にいるように心が揺蕩っていた。


 たが、そんな中でも見たり聞いたりすることはハッキリとできる。これは単なる夢ではないかもしれない。


 そう思った俺はテレビの中の映像を見ているような不思議な感覚で、自分の前方を注視していた。


「レジ打ちご苦労様、綾香ちゃん。今日はお客さんがたくさんいて大変だったね」


 俺は気さくな感じで、少し小柄ではあるが、それでも十分可愛らしい十代の女の子に声をかける。


 自分の記憶を引っ張り出すに、目の前の彼女は芹澤綾香ちゃんというらしい。

 現役の女子高校生で将来は美術の専門学校に通うために、今いる大きなスーパーでアルバイトをしている。

 性格はかなりのしっかり者で、誰に対しても明るく振る舞える何ともできた女の子だ。


 そんな彼女は俺に名前で呼んでくれとフレンドリーに申し出てきたのだ。


 これには俺もむず痒くなる。


 でも、可愛い女の子と距離を縮められるのは悪い気分ではなかった。


 ちなみに、今の俺は元の世界の自分の体とシンクロしているようだし、それがリアルな一体感を生み出している。


 それだけに、小指一つ動かせないこの状況が歯痒かった。


「長谷川さんこそ、商品の補充が忙しかったんじゃないんですか?」


 俺の仕事は商品の品出しだ。

 レジ打ちよりは精神的に楽だが、肉体労働もあるのでバックヤードから重い荷物を運んだりもする。


「あれくらい大したことはないよ。慣れさえすれば、あれくらいの仕事は誰にだって簡単にできるさ」


 その言葉は綾香ちゃんに良いところを見せようとする強がりだった。


「そうですか。やっぱり長谷川さんは凄いですね。私の方が先輩なのにあっという間に追い抜かれちゃいました」


 綾香ちゃんは俺よりも前にこのスーパーで働いていた。だから、後から働き始めた俺には仕事のノウハウを教えてくれたのだ。


「みんな綾香ちゃんの丁寧な指導の賜物だよ。まだ高校生なのに綾香ちゃんは本当に良くやってるし、俺も頑張らなきゃって気持ちにさせられたな」


「だと良いんですけど……。長谷川さん、タイムカードを押したら一緒にファミレスにでも行きませんか?」


「それって、デートのお誘い?」


 その問いかけに綾香ちゃんの表情が固まってしまった。やはり不躾すぎたか。


「そう受け取ってもらって構いません……。わ、私、どうも長谷川さんのことが好きみたいですから」


 綾香ちゃんは恥ずかしそうに自らの本心を吐露した。これには俺も心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じる。


「でも、俺は三十過ぎの男だよ。綾香ちゃんのような高校生の美少女とは釣り合わないよ」


「そ、そんなことはありません! 長谷川さんのような良い人はどこにもいません!」


「綾香ちゃん……」


 綾香ちゃんの切実な思いは俺の心に染み渡った。


「長谷川さんさえ良ければ、その……エッチなことをしても構いませんよ」


 ち、ちょっと待て! 


 この子は冴えない三十過ぎの男に何を言ってるんだ!


「未成年を相手にそれはできないよ」


 もっともな言葉だが、こんな美味しい展開を棒に振ろうとするなんて……。


 だから、俺はダメなんだ!


 でも、今のこの体を動かしているのは俺じゃないからなぁ……。


「合意の上だから、大丈夫です……」


 綾香ちゃんは羞恥心に耐えられなくなったように俯いてしまった。


 男として女の子にこんな顔はさせるもんじゃないし、この体を動かす俺ももっと勇気を出しやがれ!


「ええっと……」


「もしかして長谷川さんには他に好きな人がいるんですか?」


「そんなのいないよ。いるわけがないよ」


 初恋はあったがそれが実ることはなかった。それからはずっと女っ気のない人生を送ってきた。


 まさかこの年齢で女子高生から好意を持たれるとは。はっきり言って、異世界に行ったこと以上の驚天動地だ。


「じゃあ、私と付き合ってください!」


 綾香ちゃんは精一杯の勇気を出したように言った。


「少し、考えさせてくれないかな。できるだけ良い返事ができるように頑張るから」


 なぜこの場で即答しないのかと俺は自分を責めたくなった。こんな風に優柔不断だから、この歳になるまで女の子と付き合えないんだ。


「なら、期待して待っています……」


 綾香ちゃんは寂しい顔をしたが、一転して明るい笑みを浮かべると俺の肘に手を絡めてファミレスに行きましょうと積極的に言う。


 綾香ちゃんは結構、大胆な女の子だ。


 俺の方としても、その勢いに逆らうことはできず、俺たち二人は夜のファミレスへと向かった。


 ここまでが夢のような現象で体験できた内容だった。


 だが、これは永遠の魔女が巧みに俺の体を操って見せた現実かもしれない。


 永遠の魔女は初めて声を聴いた時に言っていたように本気で俺の人生を立て直しているのかもしれないな。


 新しく始めたスーパーでのアルバイトもその一環かも。


 例え、それが魔女としての道楽だったとしても、今の俺では止めることは叶わないし、ここは委ねるしかないな……。


 そんな達観したような思考に埋没していると次第に意識が遠くなっていく。直感的にアーリアのいる世界に意識が戻ると分かった。


 その証拠に俺が目を開けるとやっぱりそこはアーリアの事務所だった。


 綾香ちゃんとどんな関係になるのかは気になるところだが、深い関係になる瞬間くらいは見届けたいところだな。


 やっぱり自分の世界の人生を見限るのは早すぎたか……。

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