男女十指恋物語

団 田 図

男女十指恋物語

 キーンコーンカーンコーン――。


 無機質で、しかしどこか哀愁を帯びたチャイムの音が、校舎の廊下を渡り、3年A組の教室に吸い込まれていった。

 その音は、僕たちの中学校生活最後となる期末テストの開始を告げる合図であり、同時に、僕の人生における最も奇妙で、誰にも言えない「恋」の始まりを告げるゴングでもあった。まさか、それがわずか五十分という短い時間で儚く散ることになるとは、この時の僕は知る由もない。


 窓の外は二月の寒空。鉛色の雲が垂れ込めているが、教室の中は三十人の生徒が発する熱気と、暖房の生暖かさが混じり合い、独特の重苦しさを醸し出していた。

 前日、僕は深夜のコンビニで大量のチョコレートとカフェイン飲料を買い込み、決死の一夜漬けを敢行した。勉強部屋は国道沿いにあり、深夜になってもトラックの走行音や、時折通り過ぎるパトカーのサイレンが静寂を切り裂く。だが、その騒音さえも孤独な夜には心地よいBGMとなり、眠気覚ましにはちょうどよかった。


 目の下にどす黒いクマを作り、カフェインの過剰摂取で少し指先が震えていたが、その甲斐はあった。

 テスト開始から四十分。僕はシャーペンを置き、大きく息を吐いた。解答欄はすべて埋まっている。見直しも二回済ませた。自信はある。

 正面の黒板の上に掛かった丸時計を見上げる。秒針がカチ、カチと時を刻んでいる。残り時間は五分強。

 永遠のように長い五分間だ。突っ伏して寝るには短すぎるし、かといって虚空を見つめて過ごすには長すぎる。


 ふあ、とあくびを噛み殺し、重たい瞼をこすろうと左手を顔に近づけた時だった。

「ん?」

 視界の端に、違和感を覚えた。

 左手の人差し指の爪の横、皮膚と爪の境界線あたりに、小さな白い突起が逆立っていた。ササクレだ。乾燥した冬の空気と、昨夜の勉強による栄養不足が祟ったのか、それは鋭利な刃物のようにピンと立ち上がり、僕の神経を逆撫でするように主張していた。


 気になり始めると、もう止まらない。

 僕は右手でそのササクレを摘まんだ。慎重に、かつ大胆に引き抜こうとする。しかし、根元が思いのほか深く、皮膚の繊維は強固だった。

 プチッといけば快感だが、失敗すれば流血沙汰だ。

 慎重に剥がそうとすればするほど、ササクレは長く伸び、まるで生き物のように抵抗する。痛みへの恐怖と、完璧に除去したいという強迫観念。

 僕の意識は、テストからも、教室の喧騒からも離れ、わずか数ミリの皮膚のトラブルへと凝縮していった。

 そして、極度の集中状態が生み出したのか、あるいは睡魔が見せた幻覚か。僕の視界にある「十本の指」たちは、いつしか別人格を宿し、小さなドラマを演じ始めていた。


「おい、どうだ? まだ痛いか?」


 僕の脳内に、野太い男の声が響いた。声の主は、ササクレを摘まんでいる「右手の人差し指」だ。

 いや、正確には僕が脳内でアテレコしているだけなのだが、その感覚はあまりにもリアルで、まるで右人差し指そのものが意思を持って喋っているような錯覚に陥る。


「ちょ、ちょっと待ってよ! ゆっくりやるんじゃなくて、一気にやってくれよ!」


 悲痛な叫び声を上げたのは、ササクレを剥がされそうになっている「左手の人差し指」だ。

 なるほど、今の僕の指先の状況――つまり、ササクレがなかなか切れずにジリジリと皮膚が引っ張られている痛み――は、彼らの世界ではこういう設定に変換されているらしい。


「健太(左人)はホント、見かけによらず痛がりだなー」

「亜美(右人)、やめろって! イタイ、イタイ!」


 いつの間にか、彼らには名前がついていた。

 左手人差し指は「健太」。僕と同じ名前だ。彼は今、自分のスネ(指の第二関節あたりに生えた数本の産毛)が濃いことを気にして、ガムテープで一気に脱毛しようと試みていた。

 右手人差し指は「亜美」。クラスメイトで、ちょっと意地悪な女子だ。彼女は健太に頼まれてガムテープを剥がす役を買って出たものの、面白がってゆっくりと剥がしているのだ。その横で、右手親指の「麻里子」も一緒になってクスクスと笑っている。


「タンマ! タンマ! ストップ!」

 健太(左人)がたまらず声を上げた。ササクレ――いや、ガムテープが皮膚を引っ張る痛みに耐えかねたのだ。

「お前たちに頼んだ俺がバカだったよ……」

「なによー。せっかく手伝ってあげてるってのにさ」

 亜美(右人)が唇を尖らせる。


 僕はテスト中であることを忘れ、机の下で指先を小刻みに動かした。健太が悶絶すれば左人差し指を震わせ、亜美が文句を言えば右人差し指を反らせる。

 傍から見れば、貧乏ゆすりか、あるいは禁断症状が出ている危ない生徒に見えるかもしれない。だから僕は、動きを最小限に留めた。あくまで指の筋肉の収縮だけで、彼らの感情を表現する。このマイクロ・シアターの観客は僕一人だ。


 ここは日本のどこかにある離島の中学校。3年A組。

 クラスメイトは、男子五人(左手の指たち)と、女子五人(右手の指たち)。

 彼らは幼馴染であり、腐れ縁であり、そしてもうすぐ卒業を迎える仲間たちだ。

 給食の時間を知らせるチャイムの幻聴が聞こえると、健太(左人)は諦めたように剥がれかけのガムテープをスネへと貼り戻し、痛みへの恐怖を先送りにして席に着いた。


 机の上に配られた給食。今日のメニューはカレーライスと、デザートのプリン(消しゴムのカス)だ。


「私、ダイエット中だからプリンいらないや。誰か食べる?」

 右手の小指、「瑠璃」が高い声で言った。彼女はクラスのマスコット的存在だ。

 その言葉が終わるや否や、健太(左人)が身を乗り出した。

「もらった! ありがとよ!」

 健太はすかさず腕を伸ばし、そのプリン(消しゴムのカス)を掴み取った。

 しかし、それを黙って見ていない男がいた。左手の中指、「武夫」だ。彼はクラス一番のガキ大将で、健太とは幼稚園からのライバル関係にある。


「待てよ健太。こーゆー時は公平にジャンケンだろ?」

 武夫(左中)が長い体を割り込ませてくる。

「いやいや、早い者勝ちでしょ」

 健太は譲らない。普段は仲が良い二人だが、食べ物のこととなると話は別だ。

「てめぇ、欲張ってんじゃねーぞ!」

「お前こそ、横取りすんなよ!」


 ついに二人はつかみ合いのケンカを始めた。

 健太(左人)と武夫(左中)は絡みあい、ギリギリとお互い力を込める。その拍子に、さっきの足に付いたままのガムテープ(ササクレ)が引っかかり、ズキリとした痛みが走った。

「あ痛っ!」

 健太(左人)の足から、血が流れた。

 クラスメイトたちが慌てて止めに入る。博司(左親)が武夫(左中)を押さえ、夏也(左薬)と幸樹(左小)が健太(左人)をなだめる。


 騒ぎが収まった教室の隅で、健太(左人)は足を押さえてうずくまっていた。

 そこへ、一人の女子が近づいてきた。

 小百合(右薬)だ。彼女はクラス委員長で、成績優秀、容姿端麗。みんなの憧れの的である。

 小百合(右薬)はポーチの中から絆創膏を取り出すと、そっと健太(左人)の足に貼ってくれた。


「もー。二人ともヤンチャなんだから。少しは大人になりなさいよね」

 小百合の声は、呆れているようでいて、どこか温かかった。

「私たち、もうすぐ卒業だよ? 最後くらい、みんなで仲良く卒業したいじゃん」


 至近距離で見る小百合の顔。触れた指先の柔らかさ。絆創膏を貼ってくれる優しさ。

 健太の心臓が、ドクンと跳ねた。

 いつもは「委員長」としか見ていなかった彼女が、急に「異性」として目の前に現れた瞬間だった。

 健太は、せっかく手に入れたプリンの味も分からないまま、席に戻って給食を食べる小百合の後ろ姿を、ただ黙って目で追い続けた。


 恋だ。これは間違いなく、恋だ。


 卒業まであとわずか。この離島の中学校を出れば、みんな進路はバラバラになる。本土の高校へ行く者、島に残って家業を手伝う者。

 健太は悩んでいた。この想いを彼女へ伝えるべきか、秘めたまま美しい思い出にするべきか。

 僕は天井を仰いだ。「言え! 言ってしまえ健太! 絶対後悔するぞ!」と叫んでやりたかったが、試験監督の先生の鋭い視線を感じ、ぐっと言葉を飲み込む。

 代わりに、僕は精一杯の咳払いを一つ、教室に響かせた。

「ん、んんっ!」

 それが、神(僕)からの啓示となった。


 昼休み。健太は意を決して小百合に話しかけた。

「小百合、ちょっといいかな」

「ん? どうしたの、健太君」

「もうすぐ卒業だね。……何か、思い残したことはない?」

 小百合は少し考えてから、ふわりと笑った。

「そうね。実はあるの。去年の夏休み、みんなで花火したとき、私だけ風邪ひいて行けなかったでしょ? だから、もう一度みんなで花火したかったな」

 チャンスだ。健太の脳内コンピューターが弾き出した正解率は100%。

「やろうよ、花火。まだあの時の余りがあるからさ」

「えっ? でも無理よ。だって今2月よ? 寒いじゃない」

「季節なんて関係ないさ! 今日の放課後、一度家に帰ったら学校集合な!」


 健太の勢いに小百合が目を丸くしていると、二人の会話に聞き耳を立てていた亜美が割り込んできた。

「季節外れの花火! いいじゃんいいじゃん! やろうよ、みんなも来るよね?」

 健太としては小百合と二人きりになりたかったのだが、亜美の大声によってクラス全員の十人が参加することになってしまった。まあいい、まずは小百合を喜ばせることが先決だ。


 放課後。

 冬の早い夕暮れが迫る中、夏の残りの花火を持ち寄った十人の生徒たちは、学校から少し離れた海岸を目指して歩き出した。

 僕の机の上、広大な机上の大地を彼らは進む。

 途中にある吊り橋(放置されたHBの鉛筆)を渡ったところで、自然と男子グループ(左手)と女子グループ(右手)が前後に分かれた。


 男子グループの最後尾で、健太が武夫に声をかけた。

「さっきは悪かったな」

「……ケッ。俺の方こそ悪かったよ。しっかしお前、いつまで足にガムテープ貼ってんだよ」

 武夫の指摘に、横を歩いていた博司が豪快に笑う。

「喧嘩の原因も、仲直りの速さも、幼稚園からずっと同じだなお前ら」

 夏也と幸樹も、呆れながらうなずいている。男たちの友情は、言葉少なに通じ合っていた。


 一方、数メートル後ろを歩く女子グループでは、恋の話に花が咲いていた。

「ねえ、小百合ちゃんはさ」

 亜美が、まるで何でもないことのように切り出した。

「誰か好きな人はいるの?」


 前を歩く健太の背中がピクリと反応した。僕も息を呑む。聞き耳を立てろ、健太。これが運命の分かれ道だ。


 波の音(遠くの車の走行音)に混じって、小百合の澄んだ声が健太には聞こえず、僕にだけ聞こえた。

「いないわ」

 即答だった。

「だって私、前から言ってるようにアイドルになることが夢なの。東京に行って、オーディションを受けて……。だから、夢が叶ってアイドルを卒業するまでは、恋はしないことに決めているの」


 アイドル。そうだ、彼女はずっとそう言っていた。高嶺の花は、最初から摘まれることを拒んでいたのだ。


「そうなんだ……」

 亜美の声のトーンが少し変わった。

「じゃあ私、頑張ってみようかな」


 その言葉の意味に、麻里子、キャサリン、瑠璃、そして当の小百合までもが首をかしげた。

 だが、僕だけは気づいてしまった。

 亜美の視線が、前を歩く、足にガムテープを貼った不器用な男に向けられていることに。

 ずっと意地悪をしていたのは、気を引きたかったから。ガムテープをゆっくり剥がしていたのは、少しでも長く触れていたかったから。

 健太は小百合が好き。でも小百合は夢のために恋を封印している。そして亜美は健太が好き。

 なんという残酷な三角関係。なんという青春の徒労。


 僕は絶望した。

 おそらくこの後、浜辺に着いたら健太は小百合に告白するつもりなのだろう。だが、結果はもう見えている。玉砕だ。

 無念だ、健太! そして、背中を押してしまった僕を許してくれ。

 この救われない物語の結末を、僕はどうやって見守ればいいのか。いや、むしろ亜美の恋を応援するルートに切り替えるべきか?


 僕が物語の修正案を練ろうと呼吸を整えた、その時だった。


 キーンコーンカーンコーン――。


 終了のチャイムが、無慈悲に鳴り響いた。

「はい、やめ。筆記用具を置いて」

 先生の乾いた声が、僕の脳内劇場を一瞬で崩壊させた。

 離島の風景は消え失せ、目の前には再び無機質な解答用紙と、現実の教室が戻ってきた。

 机上のアイドルも、恋する不器用な男も、みんな僕の指先からどこかへと還っていった。


 残ったのは、時間つぶしで始めた妄想が、思いもよらない失恋というバッドエンドで終わったことによる、奇妙な喪失感だけだった。

 なんだこれ。すげぇ疲れた。

 こんな物語を誰かに話したら、間違いなく危ない奴だと思われる。彼らの淡い恋は、僕の胸の中だけにしまっておこう。墓場まで持っていく秘密だ。


 僕は、現実に戻るための儀式として、左人差し指に残っていたササクレを、エイッとばかりに強く引き千切った。

 ズキッとした鋭い痛みが走り、じんわりと血が滲む。

 それはまるで、健太の失恋の痛みが具現化したかのようだった。

 さらば、僕の男女十指恋物語。


「後ろから順に回収してー」

 先生の指示に従い、生徒たちが動き出す。

 僕は体を後ろに捻り、背後の席の女子から解答用紙を受け取ろうと手を差し出した。

 その時だった。


 僕の左手の人差し指と、彼女の薬指が、不意に触れ合った。

 指先同士が触れた瞬間、微弱な静電気が走ったような感覚があった。

 僕はハッとして、彼女の手元を見た。


 ――え?

 時が止まった。

 無意識に震える僕の左人差し指。それにつられるように、ドクンドクンと高鳴り始める僕の心臓。

 これは、ただの偶然だ。現実と妄想を混同するな。

 僕は必死に自分に言い聞かせる。だが、体を九十度捻ったまま、僕は彼女の顔を直視してしまっていた。

 大きな瞳。少し驚いたような表情。窓から差し込む冬の光が、彼女の髪を透かしている。


 彼女の視線が、僕の指先に落ちた。

「あ、血が出てる」

 彼女は小さく呟くと、ポケットから何かを取り出した。

 可愛らしいキャラクターが描かれた絆創膏だ。

「これ、使いなよ」

 彼女は微笑みながら、それを僕の手に乗せた。


 その瞬間、僕の脳裏で、どこからか咳払いが聞こえた気がした。

 「ん、んんっ!」という、あの神の啓示が。


 僕は真っ赤になりながら「あ、ありがとう」と蚊の鳴くような声で礼を言い、前を向いた。

 心臓の音がうるさい。指先の熱が冷めない。

 僕は、手の中にある温かい絆創膏を握りしめながら、切実に願った。


 どうか、彼女の夢がアイドルではありませんように、と。


おわり

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