Chapter17

―怜二―

ホテルの部屋に入り、スリッパに履き替えてコートをハンガーに掛ける。

スーツのジャケットも脱いで掛けてから、ほとんど無意識のうちに内ポケットに手を突っ込んでいた。

確か喫煙の部屋を取ったはず、と思って鏡台を見ると、期待通り小さな黒い灰皿があったので引き寄せる。

箱から残り少なくなったタバコを一本取り出し、火をつけて吸い込む。何となく落ち着く心地がして、自分も立派なニコチン依存だということを自覚した。

タバコをくわえたまま、窓辺に近づいてカーテンを少しめくった。大阪の煌びやかな夜景が眼下に広がる。

鏡台に体重を預け、深く煙を吸い込んだ。ため息のように吐き出した紫煙が、部屋の中を白く曇らせる。


最初に”こんな物”の味を覚えさせられたのは、まだ大学生の頃だった。

所属していたテニスサークルの飲み会で、半ば強引に吸わされた。最初は嫌だったのに段々と癖になっていき、手持ち無沙汰になると吸う習慣がついてしまった。

初めて”恋人”が出来たのは、今の会社に入社する少し前のことだった。俺がタバコを吸うのを知ると露骨に嫌そうな顔をされたので、それから吸うのをしばらく辞めた。別にそれが原因ではないけれど、ネットで知り合ったその人とは長く続かなかった。

次に付き合った人とは、同棲までした。だけど、1年も経たないうちに浮気されたことに気づいた俺が部屋を出る形で別れた。

それからまたいくらも経たないうちに、仕事関係で知り合った御崎さんと付き合って―。


―ピンポン。

唐突に鳴ったインターホンの音で、物思いの海から引きずり戻される。

タバコの灰を落とし、指に挟んだままドアスコープを覗きに行く。

「三浦…?」

部屋の戸を開ける。

「どないしたん?」

「ごめんなさい、急に。」

「ええけど…何かあった?」

部屋着なのか、白いシャツの上にグレーのスウェットパーカーを羽織った三浦は、何故か手にバスタオルを抱えていた。

「何?タオルなんか持って。」

「実は部屋のシャワーが壊れてて。水しか出ないんです。」

「ええ?」

「シャワー貸してもらえませんか?」

「ええけど…部屋変えてもらったらどうなん?」

会社の経費だがせっかくホテル代も払っているのにもったいなく思ってそう言うと、満室らしいんです、と早口で言い返された。

「だめですか?」

「…どうぞ。」

「すみません、お邪魔します。」

三浦を中に入れ、部屋の戸を閉める。手にタバコを持ったままだった事を思い出したのと、三浦がそれに気づいて目を丸くするのがほぼ同時だった。

「佐伯さん、タバコ吸うんですね。」

「いや、たまにな…。臭いつくで、早よシャワーしてき。」

「あ、はい。お借りします…。」

バスルームへ三浦が消えた後、灰皿で火種をもみ消し、換気の為に少し窓を開けた。

しんと冷えた空気が入り込んでくる。雪でも降るんだろうか。東京よりも冷たい空気を吸い込みながら、出しっぱなしにしていたマルボロの箱をポケットに突っ込む。

カッターシャツ一枚だったせいで冷え過ぎたので、すぐに窓を閉めてスーツケースからカーディガンを出して羽織った。ベッドの端に腰かけると、バスルームから水の出る音が聞こえてくる。

…何や、この状況。

突然、思い出したように鼓動が早くなる。窓を開けたせいで冷えた手で頬を挟むと、思った以上に熱を持っていてますます動揺した。

落ち着け。あいつはただシャワー借りに来ただけで、それ以上の意味なんか何も。

―いや、それ以上の意味って、何考えて…。

考え始めたらどんどん有り得ない方向へ想像が向かってしまう。さっきまで少し残っていたはずの酔いもすっかり醒めてしまい、冷静になろうとすればするほど落ち着かなくて、またタバコの箱に手が伸び掛けた。

ふと、鏡台の下の冷蔵庫が目に入る。開けてみると、ミネラルウォーターに混じっていくつかビールの缶が入っていた。

一本取り出し、プルタブを起こす。いつの間にやらカラカラに乾いていた喉を潤し、鏡台に手をつくとため息が漏れた。

…何を動揺しているんだか。

シャワーが終わったら三浦はすぐに部屋に戻るだろう。おやすみ、と今度こそ見送って、あとは寝るだけだ。

そう思ってから、自分がまだシャワーをしていなかったことを思い出す。まあいいか、明日の朝早く起きて―。

ガタン、とバスルームの戸が開く音がして振り向く。危うく、手に持った缶を落としそうになった。

「シャワー、ありがとうございました。」

「ちょっ…服着ろやっ。」

かろうじて下着はつけていたものの、上半身裸に髪は濡れたまま、肩からタオルを引っ掛けて出て来た三浦に向かって上ずった声で怒鳴る。

「え?だって暑いじゃないですか。」

「…風邪引くで、外めっちゃ寒いのに。」

動揺してしまった事が恥ずかしく、目を逸らしてビールを口に含む。

あほらし。三浦からしたら、同性相手に恥じらう気持なんか起きないのも当然なのに。何を俺は…。

「…すみません、着ました。」

しばらくしてそう言われたけど、気まずくて顔を見れないまま、そう、と素っ気ない返事をしてしまう。

「ビール飲んでたんですか?」

「ん?…ああ、三浦も飲むか?」

「高くないすか、ホテルのって。経費で落ちます?」

「落ちひんやろなあ。」

もう色々どうでも良くなっていたので、冷蔵庫からもう一本取り出して三浦に渡す。

「ま、気にしんと飲み。おごるわ。」

「いいんすか。」

遠慮気味な声を発する三浦の目の前で、プルタブを起こしてやる。

「初めての出張で疲れたやろ。」

「ありがとうございます。」

ふと思い出して、付けくわえる。

「それに、…さっきは、助かったから。」

ああ…と曖昧な表情で頷き、三浦はようやく缶を受け取った。

「それは気にしないでください。…いただきます。」

立ったまま、気持ちよく喉を鳴らしてビールを飲む。

「あー、美味しい。」

ご飯を食べさせた時と同じ顔で嬉しそうにそう言う三浦を見ていたら、自然と口元が綻んでしまう。

「あ。」

「ん?」

「やっと笑った。」

「…え?」

「ずっと顔こわばってたから。あの人に会ってから。」

「…ああ…。」

ほとんど飲んで中身の少なくなった缶を意味も無く揺らす。酔いは醒めていたつもりだったが、思いのほかビールの度数がきつかったらしい。頭の中がふわふわとしている。

「あの人…御崎さんはな、昔のオトコや。」

「へ…?」

ベッドの端に腰を下ろす。三浦もつられたのか、少し間を開けて隣に座った。

「大阪におった頃に、取引先の担当で知り合った人でな。何か妙に気に入られて、たまに仕事と関係ないとこで、飲みに行くこととかもあって。」

自分が何を話しているのかよくわかっていないまま、まだ冷たさの残る缶のふちを指でなぞる。

「何回目にか、一緒に飲んどった時に口説かれてな。適当に躱したんやけど、店の外でふらついた拍子に、急にキスされて。だいぶ酔っとったんやろなあ…目が覚めたら、ハダカで隣に寝とってびっくりしたわ。」

話しながら、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いがこみあげてくる。

だけど三浦は、笑わない。

「好きだったんですか。あの、御崎さんて人の事。」

「んー、どうなんやろ…。」

「この間言ったじゃないですか。付き合った人は皆、ちゃんと好きだから付き合ったって。」

「そうやね、そんな話もしたなあ。」

一緒にキッチンに立って片付けをした時に、そういえばそんな話もしたかもしれない、と思い出す。

「好きやったね。けど俺の方だけやったわ。向こうは遊びで、気持ちなんかこれっぽっちも…」

「なら、この間の男は?」

苛立った様子で問われ、驚いて三浦を見た。

「この間?」

「ごめんなさい、実は見てたんです。マンションの部屋の前で、男とキスしてましたよね。」

一瞬、思考が止まった。ついこの間振ったばかりの、薄情者の既婚者の顔が脳裏に浮かぶ。

「…見とったん?全然気づかんかったわ…。」

「すみません。さすがにびっくりしてすぐ帰りましたけど。部屋に上げたんですよね。」

そんなところまで見られていたのか。弁解する気力も起きず、もう笑うしかない。

「お前はほんまに、何でも正直に言いよって…少しは誤魔化すこと覚えや。」

「今付き合ってるのは、あの人ですか?」

付き合ってへん、と、ため息混じりに力無く返す。

「あいつなあ、結婚しとったんよ。たまに急に連絡来なくなるとは思っとったけど、まさか子どもまでおったとはなぁ…。」

「まじすか。…ひどくないすか。」

「ひどいよなあ。まあ、俺が男見る目無いんやろ。」

自嘲気味に言って、残ったビールを呷る。

「…ごめんな。俺、さっきから何喋ってんねやろな。」

「…。」

三浦は何度もビール缶を持ち上げたり下げたりして、何か言いたそうに視線を彷徨わせた後、一気にビールを飲み干した。

「…部屋、戻りますね。」

「ああ…そうやね、明日もあるしな。」

ごちそうさまです、と缶を差し出してくるので受け取って鏡台のふちに置く。立ちあがろうとして、急に目が回った。

「佐伯さんっ…」

体の軸を見失って、踏ん張りが利かない。慌てて手を差し出してきた三浦の胸に向かって、勢いよく倒れ込んでしまった。

―鼻腔に飛び込んできたボディーソープの清潔な匂いと、まだ少し火照りの残った肌の温度に、目眩がする。

「…大丈夫ですか。」

頭上から降ってきた硬い声に、ハっとなって体を離した。

「あ、ごめ…」

不意に、手首を掴まれた。

「佐伯さん、また痩せたんじゃないですか。」

「…そんな事ないわ、気のせいやろ。」

「ちゃんと食べてるんですか。」

手首を握る力が強くなる。本気で心配そうな三浦に、苦笑してみせる。

「俺、三浦が思っとる程か弱くないで。」

「…佐伯さんが思ってるほど、強くもないと思います。」

「何…え、三浦…っ?」

ぐい、と掴まれた手首を強く引かれた。引いた手と反対の腕で、背中から全部包むように抱きすくめられる。

息が止まりそうだった。行き場を無くしたもう片方の手も、気づけば捕まって三浦の背中に回させられる。

知らぬ間に詰めていた息を吐き出す。呼吸の仕方も分からなくなるくらい混乱していた。

三浦の手が、腰に触れてくる。どうしたら良いか分からず、思い切り自分から三浦を抱きしめてしまった。

途端に、我に返ったのか三浦の体が離れる。

「…。」

「…。」

沈黙が落ちた。突然、部屋の空調音が大きく響いて聞こえてくる。

「…俺、部屋戻ります。」

「そ、そおやね。」

赤くなった顔を隠すように、意味もなく鼻先を擦る。

手が、震えていた。

「ごめんな、遅なって…体冷えてへん?」

一応気遣うと、三浦は事もなげに答えた。

「大丈夫です、部屋戻ったらシャワー浴び直します。」

「え?シャワー壊れてんやろ?」

「…あ。」

「?」

「あれ嘘なんで。」

「は…?」

三浦は部屋から持ってきたバスタオルを雑に畳んで持つと、バツが悪そうに頭をかいた。

「どんな理由つけたら佐伯さんの部屋に入る口実になるか、一生懸命考えたんです。ちなみに他の部屋が満室っていうのも、咄嗟に言っただけで。」

「何でそんな…。」

三浦は困った様に、バスタオルを抱え直した。

「ごめんなさい、やっぱりさっきの事が気になって。どうしてるか様子が見たかったから。…それだけです。」

「…。」

「じゃあ、おやすみなさい。ビール、ご馳走様でした。」

「ああ、うん…おやすみ。」

三浦は少しだけ微笑んで頭を下げ、ゆっくり俺の部屋の戸を閉めて帰って行った。

「…何やねん、あいつ…。」

力が抜け、その場にへたり込む。暴れ回る心臓のせいで、呼吸がいつまでも整わない。

…分からない。

どうしてあんなに強く抱きしめられたのか。そして、そんな三浦を抱き返した俺は…あのまま、どうする気だった?

「…っ。」

きっと酒のせいだ。飲み過ぎたから。急に御崎さんにも会ったし、色々混乱して、余計なことまで打ち明けたせいで、理性が切れて…。

訳もなく溢れ出した涙が頬を伝う。

胸が苦しい。

理由は、出来る事なら目を逸らしたまま気づかないでいたかった。

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