玖「ウチのヒヰロー」
一体全体どんな攻撃を受ければそうなるのか、病院は壁の一面を剥ぎ取られていた。
恐る恐る、入る。
果たしてそこも、死の世界であった。
蛆が這い回る病室では、体の様々な部位を失った死体たちが並べられていた。
そうしてようやく歌子は、自分が擦過銃創を負っていることを思い出した。
「あッ、あかんあかんあかん!! 急いで消毒せなッ!!」
肩から出血した状態で、死体塗れの水に全身浸かったのである。
病院の中を探し回ったが、あるのは死体と蛆だけで、消毒液も包帯も見つからなかった。
「本当に、ここにいるんだろうな?」
二階の一室で医療用品を探していると、割れた窓の外から
「はっ。大天使様の進行方向から算出すると、ここになるとのことです」
「……~♪」
歌子は自身の周囲を空気で囲む。フレドリクに教えてもらった、敵の索敵から逃れるための方法である。
懐から手鏡を取り出し、鏡越しに外の様子を伺う。
男性
「大天使サマが追っかけになるなんて……中には神サマでもお隠れになっておいでなのかな?」
男性が口を開いた。
歌子は猛烈な違和感を感じる。
男性は、明らかに男性であるように見える。体はがっしりとしていて、顔つきも見るからに男だ。
なのに、声はゾッとするほど美しいソプラノなのだ。
その男が大きく息を吸い込んで、
「ライラライラァーーーー~~ッ!!」
何処までも高く伸びる、女性の肺活量では到達し得ないほどの大音声。
歌子は思わず、聞き惚れた。
が、
「……見つけた」
――次の瞬間、ソプラノの男と鏡越しに目が合った。
(な、何でッ!?)
こちらの、認識阻害歌唱を突破してきたのか。そんなことが出来るのか?
いずれにせよ今は、
(逃げなッ!!)
右手側、壁が剥ぎ取られている方から飛翔で逃げようと考えるも、
「ライラライラライラァーーーー~~ッ!!」
外から、男の歌唱。聴く者を虜にしてしまう、極上のソプラノ。
途端、病院の廊下が、いや、病院そのものが猛烈な熱に覆われ、
「ララルラァッ!!」
歌子は自身を風の防壁に包み込む。
次の瞬間、視界が『赤』で染まった。
炎だ。病院の廊下が、ありとあらゆる病室が一斉に発火する。
たまらず病院から飛び出すと、果たして目の前にソプラノの男が待ち構えていた。
「はンッ! こんなチビの東洋人が、神サマぁ?」
「あ、嗚呼ぁ……」
声が震える。
何と云うことだろう、何と云うことだろう!
こいつは
「どぅれ、試してやろう」
ソプラノ男が息を吸い込む。
歌子はありったけの風の歌唱で防壁を作る。
「ララルラルララ、ライラライラライラァーーーー~~ッ!!」
ソプラノ男の歌唱。
途端、猛烈な爆炎が歌子を襲う。
炎は数秒で止み、気がつけば歌子は、ソプラノ男が発した熱風によって構造物を消し飛ばされ、更地と化した病院跡で転がっていた。
「嗚呼、嗚呼ぁ……」
バケモノだ。
己ではもちろん、フレデリカですら敵わないようなバケモノ!
『
「どうした、反撃してこないのか?」
ソプラノ男はニヤニヤと笑っていたが、恐怖の余り腹式呼吸もままならない歌子を見て、詰まらなそうな顔をした。
「まァ、持ち帰れば学者どもが喜ぶだろう。おい、お前ら。こいつの手足を切り落として、止血しろ」
「「ははッ!」」
二人の
「い、厭……」
知っている。
「厭ッ、厭ぁッ!」
尻餅をつき、何とか逃げようとする歌子の手は、焼け焦げた地面に触れているが、熱さと痛みよりも恐怖が勝っている。
「ララルラァーーーー~~ッ!!」
第三者の歌唱が聴こえた。
途端、三人の敵兵の頭部がすっぽりと水に覆われる。
三人は歌唱も呼吸も出来ずにのたうち回り、やがて動かなくなった。
また、人が死んだ。
だが今の歌子には、目の前に広がる死の光景に感慨を覚える余裕などなかった。
(今の歌声ッ!!)
聞き覚えのある、声。
懐かしい、本当に懐かしい――――……
「遅くなって御免、歌子」
振り返ると、そこには。
「僕が来たからには、もう大丈夫さ」
嗚呼、嗚呼、何と云うことだろう!
蒼い髪。
中性的な美貌。
人を喰ったような、自信満々な笑顔。
「……――――フレディッ!!」
フレデリカが、立っていた。
第弐楽章「君や何処か屍山血河」――――Fin.
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