第5話 嘘つき

 レフィは悪魔だ。

 わたしの質問に何一つ答えないまま姿を消した。もうそこにはいないのに、何かしようとすると――何かサボろうとしても――まぶたの裏のあの悪魔は冷たく微笑み、囁くのだ。


「私がいなければ何もできない子供なのですね」


 と。

 カッと胸の奥が熱くなり、彼の言葉ひとつに、彼の仕草ひとつに、自分が支配されていたことに気付く。ままならぬ感情に翻弄されたまま昼をやり過ごし、夜の静けさに身を浸せば、今度はひたひたとよせる寂しさに溺れそうになる。

 本当は知っている。この持て余すほどのうねりの名を。


 あの夜借りたレフィの上着は、返せないままわたしの部屋にかけられていた。目が覚めた時には、もう彼の気配はなかった。どこに行ったのか、皆、知らないと口をそろえる。エルチェは知っているようだが、その口が軽々しく開くことはない。父も知っているのだろう。けれど、いつ家に帰ってきているかもわからない父と、ゆっくり話せる時間も持てはしなかった。

 代わりに、思い出したようにクレマンが訪ねてくる。

 気遣うような優しい声も鳥のさえずりのようで、一緒にお茶を飲んでいても、その味さえ覚えていない。


 レフィは、いつまでも治らないひっかき傷を私の胸の中に残して、蜃気楼のように消えてしまった。


 *


 ふと気づくと、庭にスミレの花が咲いていた。

 そのうちにミモザが咲いて、サクラが咲いて……リラが咲くのもすぐだろう。

 わたしの産まれた季節が来るというのに、レフィは帰ってこない。手紙のひとつすらない。「すぐ」が丸二日なのだから、「しばらく」が何十年でも驚かないけれど。わたしの舞踏会デビューの日には「いってらっしゃいませ」と誇らしそうに笑ってくれると信じていたのに。

 ……いいえ。

 いいえ、本当は、デビューの時もレフィと踊りたかった。

 わたしの想像のダンスの相手は、いつだってレフィだった。


 ――私と踊っていただけますか?Voudriez-vous danser avec moi s'il vous plaît ?


 うそつき……

 新しいダンスの先生と他人行儀に踊る時、練習の場でいつもかけられた言葉が耳に甦る。そのたび、わたしは胸中で彼を罵る。

 悪魔レフィにとっては、型通りの言葉なのだと解ってはいても……


 そんな風に、いつまでもぼんやりとレフィを引きずっていたある夜。

 闇の中、気配を殺そうともせず部屋に押し入る人物に飛び起きた。誰何しようと開いた口に、ごつごつとした指が差し出される。


「静かに」


 暗がりで迷いなく距離を詰められるのは恐怖だ。けれど、それ以上の乱暴もなく、その人物はベッドサイドで屈みこんだようだった。


「お嬢さん、ピクニックだ」

「え?」


 何が何だかわからない中に強烈な印象を残した単語が挟まれて、私の頭も動き出す。


「エルチェ、なの?」

「時間がない。申し訳ないが、これに着替えてくれ」


 服を押し付けられ、立ち上がった彼は部屋を出ようとしてレフィの上着に目をとめた。


「あいつ……いや、さすがに考えすぎか」


 小さく呟いて、その上着を手に取る。


「あ、の」

「そこにいる。いそいで」


 閉められたドアの向こうで衣擦れの音がした。

 彼の言動にレフィを想起したからだろうか。わたしは戸惑いながらも、言われた通りに渡されたシンプルな黒いワンピースに着替え、ドアを開けた。

 エルチェは無言でわたしの腕を掴んで、足音を立てないように静かに勝手口へと向かった。外の薄明かりに、彼がレフィの上着を羽織っているのがわかる。少し小さいのか、前は開けたままだったけれど。


 家の敷地を出たところに、馬が一頭待機していた。エルチェは剣を背負い、軽やかに馬にまたがる。差し出された手をおずおずと掴めば、力強く引き上げられた。横座りのまま、エルチェに抱えられるようにされると、急かされたように馬は歩き出す。人目を避け、大回りするようにして町を出るまではゆっくりと進んだ。

 郊外まで来ると、きちんと座り直され、わたしを抱き込むようにして彼は手綱を握る。そこからは怖いくらいの速さで駆けた。


「我慢してくれ」


 よく知らない男性と密着していて不快感が少なかったのは、ずっとレフィの匂いがしていたからかもしれない。途中で馬を変え、明るくなってからは馬車にも乗り継いで移動した。

 明るくなってみれば、わたしはメイドのワンピースを着ていて、エルチェは執事の上着。すましていれば使いに出されたと見えるのかもしれなかった。

 馬車の中、向かいの席で「少し寝る」と、エルチェが目をつぶる。

 どこに行くのか、母様や父様が知っていることなのか、何一つ聞けていない。わたしは彼が寝ている間に馬車を飛び降りるべきなのではないか。そんな思いも過ぎる。

 そうしなかったのは、彼がレフィの上着を着たレフィの幼馴染で、レフィの置いていった人だからだ。


 暇に任せてその上着を眺めるうちに、ほころびを見つける。細身のレフィの上着は彼には窮屈そうだ。何気なく手を伸ばすと、上着に届く前に痛いくらいの力で掴まれた。閉じていた目が、鋭い光を放って開かれる。

 息を飲めば、ああ、と戸惑いに揺れ、そっと腕を開放された。


「悪ぃ。気が張ってるもんでな。着いたら、上着は返すから」

「わ、わたしの上着ではありませんわ。その、ほころびが……気になっただけで……まだ、遠いんですの?」


 エルチェは引かれていたカーテンの隙間から外を眺め、「もう少し」と気だるげに言った。

 結局、その晩は宿を取り、エルチェの目指す目的地に着いたのは、次の日の昼を過ぎてからだった。

 小さな庭のある丸太小屋を目にして、あの秋の日と同じ思いが湧く。

 嘘つき、と。

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