humoresque

朽無鶸

バースデーケーキと社長秘書

 起き抜けにサプライズがあった。

 四月二十七日。いつも通り朝五時半の目覚ましに叩き起こされ、パジャマ姿のまま半目で居間に入った瞬間のことだった。

 パンッという大きな破裂音と共に、何かが焦げたような臭いが広がった。

 睡眠時間四時間半の頭では状況を飲み込むことができず、つい

「ひっ」

と声を出してのけぞってしまったのだが、聞き慣れた声で

「ハッピバースデートゥーユー」

と合唱が始まったところで、橘千晶は今日が自分の誕生日であることを思い出した。そういえば今日行きつけのお店に食事に行く約束があったことも合わせて思い出し、その理由を理解した。

 一連の出来事の犯人は、主夫をしている夫の賢史と、普段ならこの時間はまだ寝ている六歳の息子恭弥と三歳の娘美沙だった。恭弥と美沙は合唱を終えると、千晶の方へ駆け寄ってきて、二人で大きな赤い袋に包まれたプレゼントを手渡した。

「ありがとう、みんな。開けてみてもいい?」

と千晶は問いかけて、二人の頷きを確認すると、丁寧にラッピングされたプレゼントを開封した。二人からのプレゼントは新しい油絵具セットだった。千晶は学生時代から油絵を趣味にしていて、たまの休日には自宅の一角に備えたアトリエに一日中篭ることも少なくなかった。

「さあ、朝ごはんだよ!ママは顔洗ってきて!」

と賢史は声をかけ、キッチンに用意してあった朝食をテーブルに並べ始めた。

 千晶が洗面所で顔を洗い、歯を磨き、居間に戻ると、食卓には、手作りのパンに野菜を沢山載せたピザトースト、アサリの入ったクラムチャウダー、そしてスクランブルエッグにグレープフルーツが添えられたプレートが並んでいた。

 千晶はピザトーストの野菜の並びがいつもより不揃いなところを見て、

「これは誰が作ってくれたの?」

と子どもたちに声をかけると、

「おれがチーズのせたの!」

「みさもたまねぎならべたよ」

と笑顔を弾けさせた。

「そうなんだ。ありがとね。ママの好物なの、ピザトースト」

と二人を抱き寄せた。

 恭弥は自慢げに

「僕、五時に起きたんだぜ!」

と言った後に、小声で

「お父さんに起こされたけど」

と付け足した。

 美沙は朝食を口に運びながら

「ママ。みさ、ねむい」

と呟いた。千晶は美沙の頭を撫でながら

「ママも眠たいわ。朝からありがとうね」

と笑った。

 今回のお祝いは賢史が二人の子どもたちと相談して計画したそうで、思えば眠気のせいで恭弥と美沙がベッドにいなかったことを気にしてもいなかった。美沙は今にも寝そうな状態だったが、恭弥は早朝にも関わらず元気に騒いでいた。

 その後はいつもと変わらない慌ただしい朝に戻った。賢史が子どもたちの相手をしている間に、寝室に戻ると、パジャマからグレーのシャツとネイビーのパンツスーツに着替え、ドレッサーで化粧とヘアセットをした。あまり中身を入れ替えることはない通勤用のビジネスバッグを軽く確認すると、それを持ってリビングへと戻った。

 美沙はソファで寝てしまっていたので、恭弥にだけ行ってきますと伝え、賢史と一緒に家を出た。

 千晶は会社まで賢史に車で送ってもらって通勤していた。その移動の合間に、タブレットでニュースを確認するのが日課になっていた。仕事柄海外の経済ニュースなどを確認する必要があり、英語の記事も目を通すようにしていた。

 道の状況にもよるが概ね七時頃会社に到着することが多く、ビルの最上階にあるオフィスに着くと、荷物をロッカーに置いて、タブレット片手にすぐ隣の社長室に向かうことにしていた。

 千晶が勤めている鷹宮商事通称鷹之宮財閥の社長である鷹之宮桜は千晶よりも出社が早く、先に仕事を始めていることがほとんどなので、千晶は朝の挨拶がてらその日の来客や外出のスケジュールを伝えることにしていた。

 千晶が社長室の扉をノックすると歌うような声で

「どうぞ」

と返事があった。千晶は部屋に入ると執務机の前に立って恭しく礼をした。

「社長、おはようございます」

 桜はキーボードを叩いていた手を止め、顔を上げた。

「おはようございます、千晶」

 千晶はタブレットのカバーを開き、予定表アプリを表示させると、その内容を順番に読み上げた。

「さて、今日の予定ですが、午前九時から三十分のオンライン会議が三件続き、その後十一時に来客が一件予定されております。この来客は私も同席させていただきます。午後は取引先へのアポイントが三件入っております。十三時に車を待たせております。資料につきましては、それぞれの予定表に添付してありますのでそちらからご覧ください」

 桜は手元の手帳に手書きでメモを取りながら話を聞いた。

「了解しました」

「それ以外のお時間にもし出かける時はチャットでも構いませんので先に教えてください」

「ええ。分かっております」

 桜は会社を二十代で継いだ若い女社長だった。世の中には様々な社長の姿があるだろうが、桜は「一番偉い立場にいるのだから一番働かなければならない」という考えの持ち主で、その仕事ぶりはあまり寝ていないのではないかと時々心配になる程なのであるが、仕事をするのが好きで楽しくて仕方ないようでもあった。社長になった当初は周りを振り回すお転婆娘ではあったが、就任から五年が経ち、ようやく社長としての自覚が芽生えたようで、千晶は嬉しく思っていた。グループ全体の社員は三千人を超えており、そのトップに立つというのは誰でもできることではないし、その重圧もきっと計り知れない。千晶は秘書室長という肩書きだったが、その使命は、秘書というよりは、桜のビジネスパートナーとして桜を支えることなのだった。

「ところで、今日の夕方の約束は覚えておいでですか」

「ええ。那瑠さんのお店ですよね。社長の予定を管理している私が忘れるわけにはまいりません」

「よかったです。十七時四十五分に一緒に会社を出ましょう」

「かしこまりました」

 千晶はきっと誕生日会をしてくれるのだろうと気づいていたが、その場で口にすることはしなかった。

 その後、昨晩の海外情勢について意見を交わし、部屋を後にした。

 秘書室に戻ったところで、部下である女性が出社してきた。彼女は千晶に気づくと軽いトーンで挨拶をした。

「おはようございまーす」

「おはよう、玲奈さん」

 玲奈は千晶と同じように桜に挨拶するためすぐに部屋から出ていった。

 桜の意向もあり、秘書業務以外の多岐にわたる業務をこなす千晶の負担軽減を図るため、人員を一人増やすことになったので、昨年の新卒採用に定員一人という枠を設け募集をかけた。千晶は数年かけて育成していくつもりでいたため、現時点で高い能力がなくとも一緒に働いていて楽しいと思えるような人が数人応募してくれればよいと軽く考えていたのだが、この地域では知らぬ人がいないと言っても過言ではない、あの鷹之宮桜の秘書ができるということに余程の付加価値があったのか、書類選考の段階でかなりの人数が集まってしまい、人事部が手伝ってくれたからいいものの、返って採用の手間に時間が取られるという本末転倒な事態になってしまった。最終的に採用することになった彼女は桜と千晶の二人で臨んだ最終面接の場で

「早乙女玲奈と申します。与えられた仕事は確実にこなしますので、一年目は一千万ください」

と名前の次には希望の待遇を言い切ってきたくらい大それた態度の持ち主だったのだが、筆記試験の成績、保有資格、語学力、コミュニケーション能力などはどれを取っても申し分なかったし、何より桜が自分に変な気を遣わない自信の大きさを気に入って、玲奈の言い値で採用することになったという経緯があった。

 間もなくして玲奈が戻ってきたので、朝礼代わりに、事務連絡や今日のタスクについて共有した。

「今日は本当にいい天気ですね」

「そうね。週末も晴れるようだから、お花見大会が楽しみね」

 お花見大会とは、毎年恒例の役員全員が出席する桜の花見のことである。十人以上いる多忙な役員のスケジュールを調整することに加え、役員以外にも本社社員であれば誰でも参加が可能となっており、その出席確認から、開催場所の聖北公園の場所確保、飲食物の手配まで、とにかく面倒な手続きが多い。昨年までは千晶が担当していたが、本音ではやりたくなかったため、今年は玲奈の優秀さに賭けて入社早々ではあるが彼女にやらせることにした。今日は文字通りお花見日和なので、玲奈は

「楽しみは楽しみですけど……もう今日開催しちゃいたいです」

と唇を尖らせていた。

「人から聞いたんだけど、花見大会で余興やるんでしょ?」

「はい。やることが無くなってしまったので、何かないかなって考えていたんですが、この前の昼休みに同期と相談して本社配属の新入社員でやろうって話になったんですよ」

 玲奈の手際の良さを見て、千晶の中には、もう実務は全部押しつけて、決裁をするだけの管理職になって楽をしてしまおうかなんていう悪い考えが浮かんできた。そんなことをしたら玲奈は「給料二倍、いや三倍にしてください」と言うだろうなと想像して、ついくすりと笑ってしまった。

「何かおかしいですか?」

「いやいや、やることが無くなるなんて流石と思っただけよ」

 千晶が初めて花見の幹事をしたのは、桜が社長に就任し、千晶が社長秘書になった五年前のことだったが、ぎりぎりまで準備が整わず、先代の秘書、つまり今の会長の秘書をしていた千晶の父から叱られたことがあった。二回目からそういうことは無くなったが、役員たちの予定を押さえるのにいっぱいいっぱいで、余興なんてことを考える余裕は正直無かった。

「楽しみにしているわよ。では仕事に取り掛かりましょう」

 千晶は今日来月海外に出張することになっている桜のための資料作成を進めることに決めていた。現在秘書室の仕事の分担について、玲奈は社内外からの電話対応や郵便物の処理、社内関係各所への事務連絡、交通手段の確保などの基本的な秘書業務を担当し、千晶は玲奈のOJTをしつつ、メインとして桜の予定管理や面談時の資料作成などを担当する、ということになっていた。

 一時間ほど経ったところで、玲奈が質問をしてきた。

「千晶さん、広報部から問い合わせがありまして、新聞社から社長へインタビューしたいというリクエストが来ているようですが、いかがいたしましょうか。広報部としてはできれば受けてほしいようです」

 グループアドレスにメールをしてもらっているため、千晶にもそのメールは入っているはずだったが、別の作業をしていたためそのまま玲奈に

「ちなみにどんな内容なのかしら」

と聞いた。取材依頼のメールには依頼者・期限・想定所要時間・取材目的などを書いてもらうようにしていた。

「メールには『若手経営者特集で経営に対する考え方、社長になるまでの経緯、部下との接し方などについて伺いたい』とありますね」

「少し曖昧だけど、社長が好きそうな内容だし受けてもいいかな。空いているスケジュール伝えて調整してもらって。場所は社長室でいいとは思うんだけど、予定が固まったら一応十五階のスタジオも一緒に抑えておいて」

「かしこまりました」

 当然のことではあるが、予定が空いているからといって何でも受けるわけにはいかないので、そういった判断は基本的に千晶に任されていた。千晶は顧客との関係性や内容の重要度などを総合的に判断し、桜の予定を決めていくのだった。会社として不手際があって、顧客影響があるようなときは、必要に応じて桜に謝罪しにいくような予定を緊急で入れることもあったし、桜としてもそういったものを最優先とするよう千晶には指示していた。


 千晶は数時間かけて午前中に予定したタスクを全て終えると、席から立ち上がって大きく伸びをした。仰ぐように左手の腕時計を見やると、来客の約束まで間もなくと思いつつ、ただ瞑想するには少し時間が長すぎて、もう一仕事片付けるには短すぎるような間の悪い頃合いだったので、深い考えもなく窓の外に目を移すと、快晴の空の下遠くの山が僅かに冠雪しているのが見えた。鷹之宮財閥の本社ビルは三十階建てで、聖北駅正面にあるビジネス街のまさに玄関に位置していた。社長秘書室は社長室と同じ最上階のフロアなので、聖北地域一面を見渡すことができ、夜には素晴らしい夜景を見ることもできた。

 玲奈も丁度手が空いたのを良いことに、千晶の机の前までやってきて、

「今まで聞く機会がなかったんですが、千晶さんはどうして社長の秘書をやっているんですか?」

と話しかけてきた。

 千晶はこの問いに対し、ただの興味本位なのかどうか訝しんでしまって、正直に話すのも少し恥ずかしくなり

「成り行きよ」

と間違いではない返事をすると、玲奈は子どものように頬を膨らませ

「また意地悪な答えですね!」

と叫んだ。千晶は余裕のある笑みを浮かべて

「誤解よ」

と諭すように言った。千晶の中には、仲の良い人に対してちょっとした意地悪をしたくなる子供じみた側面があって、一緒に仕事をするからには、例え上司と部下の関係であっても、対等な関係性で仕事をやっていきたいと考えているところもあるのだった。玲奈が自身のことをどのように見ているかははっきり聞けていなかったが、自分の前では特にその態度が大きいことを踏まえると、玲奈も自分に対しては自分を偽らずに接してくれているのではないかと思っていた。

 回答に満足いかなかったせいなのか玲奈の質問は続いた。

「社長とは幼馴染なんですよね?もしかして小さい頃は呼び捨てにしてました?」

 千晶は、「はい、してました」とは答えずに

「ずっとお嬢様と呼ぶよう教育されていたわよ」

と嘯いた。ちなみに、実際は桜のことをお嬢様と意識して呼ぶようになったのは高校に入学してからで、それまでは親友のように名前を呼び合っていたのだが、中学校を卒業したタイミングで先代の社長の秘書をしていた父から話があってそのようにすることにしたのだった。

 玲奈はお嬢様という単語に何故だか感動したようで、

「私も聖北地区出身なので鷹之宮家のことはそれなりに知っていましたけど、お嬢様というのは小説か漫画の世界のものだと思ってましたよ」

としみじみとした口調で言った。鷹之宮家には常駐する執事もメイドもいるし、家系図も残っているし、家は凡そ家と呼ぶよりも屋敷と呼ぶ方が相応しいし、と普通の資産家とは言い切れない非現実さを感じるのがむしろ普通の感覚だった。

「分かるわよ。初めて本物の鷹之宮桜に会った時の印象は特別なものだった?」

と問いかけると、玲奈は少しだけ真面目な面持ちになって、そうですね、と一呼吸置くと

「それこそ会う前は名家のご令嬢なんて大した能力もないくせに偉ぶっているんじゃないかと邪推しておりましたけど、今は社長のことを心より尊敬しております。もう少しお身体を労っていただきたいですね」

と答えた。すごい言い様であるが、誰よりも働く桜の姿を見れば、皆同じような考えになる。

 玲奈とすれば桜と千晶の関係についてさらに根掘り葉掘り聞きたいところだっただろうが、パソコンの予定管理ソフトがアラームを鳴らしたので、千晶は気持ちを仕事モードに戻して、玲奈の話を遮った。

「もうすぐ社長同席で大事なお客様なの。そろそろ準備をお願いできるかしら?」

「そうでしたね。そうそう、どの豆を使えばいいか聞こうと思って話しかけたんでぃした」

 本当なら最初からそう聞いてほしいところであると内心思ったが、声には出さず少し考えて

「ブルーマウンテンにしようかしら」

と答えると、玲奈は

「ブルーマウンテンですね。いつも思いますが、豆の違いってそんなに大事なんですかね」

とその賢い頭で考えれば簡単に分かりそうなことを言ってきた。千晶は

「そんなこと社長に言ったら怒られるわよ。私も正直よく分からないんだけどブルーマウンテンはコーヒーの王様と呼ばれているらしいわ」

とさも詳しいような素振りで語ったが、完全に人から聞いた受け売りだった。玲奈は

「はぁ」

と肯定も否定もない相槌を零したが、部屋に備えられた給湯室へと移動すると、上の戸棚から豆を取り出してミルを始めた。機械の刃が豆を挽く甲高く鈍い音が部屋に響きわたった。

 昨年度末、秘書室では予算を使って本格的なコーヒーメーカーを買った。

「コーヒーのことなら那瑠に聞きなさい」

と桜から言いつけられて、わざわざ彼女のところに出向いて勧められたコーヒーメーカーを買うことにしたのだが、まさか百万円以上するとは思わず、最初は那瑠が冗談で言ってるのかとも思ったほどで

「私はそんな冗談言わないよ」

と大笑いされてしまった。当初想定していた予算は大幅にオーバーしていたが、桜が

「お客様にお出しするものに妥協は許しません」

と言うに違いないと思って、即決した。

 那瑠は現地まで出向いて選定した豆を鷹之宮を通して仕入れており、その情報を活かしてまったく同じ豆を使うようにしているのだが、残念ながらユーモレスクで飲むほうが格段に美味しいのだった。そうだ、玲奈さんを那瑠さんのところへ派遣して、美味しいコーヒーの淹れ方を学んできてもらおうかしら。

「嫌ですよ」

 心の声が漏れていたようで、ドリップの準備を終えた彼女がしかめ面をしながらこちらに戻ってきた。

「那瑠さんに教えてもらえれば一生ものになるわよ」

と反論してみるが、

「私、千晶さんが以前ユーモレスクに修行に行ったことがある話を聞いたことあるんですけど、その時学んだことはどうなったんですか?」

と皮肉を返されてしまい、ついには言葉に詰まってしまった千晶を見て

「その人と同じレベルのコーヒーを淹れるにはちょっとやそっとの努力では足りないような気がします」

と至極真っ当なことを言ってきた。その修行に行ったのも料理の類があまり得意ではない千晶からすれば不本意で、半分は桜のわがままだった。那瑠は手取り足取り丁寧に教えてくれたが、言う通りにしても同じクオリティを出すことはかなわなかった。

 そんな話をしているうちに、予定していたお客様が来たのか、玲奈の席の内線電話が鳴ったので、彼女は立ったまま屈むようにして受話器を取った。

「社長秘書室、早乙女でございます。はい……はい、かしこまりました」

 案の定受付からの電話だったようで、玲奈は電話を一度保留にして、こちらに振り返ると

「千晶さん。お約束の鷹之宮証券の方がお見えになったそうです」

と声をかけた。千晶は商談に持っていく愛用のアタッシュケースを机の上に出しながら返事をした。

「ありがとう。予定通り社長室に通すよう伝えて」

「承知しました。……お待たせしております。社長室までご案内をお願いいたします」

 今日の商談は千晶の仕事の中でも特に気を遣う内容だった。千晶は改めて資料に目を通し、面談の流れを頭の中でイメージした。

 玲奈は電話を置くと、マグカップを準備しながら

「そういえば、鷹之宮証券ってうちの子会社ですか?」

と話しかけてきた。千晶は視線を手元の資料に向けたまま

「と思いきや違うのよね。資本関係は何もないのよ」

と答えた。玲奈は

「えっ、そうなんですか」

と大袈裟に驚いた。

「そう。創業者が社長の遠い親戚に当たる人らしくて、鷹之宮って名前がついているみたい」

「へぇー。でも勘違いする人も多そうですね」

 この聖北地区は歴史的にも鷹之宮のお膝元とも言える地域であり、地名自体に鷹之宮という名前が付いているところもある。鷹之宮証券をはじめ資本関係が全くない会社もたくさん存在するのだが、本流たる鷹之宮財閥だけでも鷹之宮の名を冠した子会社が百社以上あるので、どうにも間違われやすいようだ。

 千晶は目を通した資料を元の位置に戻してアタッシュケースの蓋を閉めた。

「それじゃ行ってくるわ。コーヒーよろしくね」

「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」

 千晶はアタッシュケースを左手に携え、社長室の扉を軽くノックして入ると、一心不乱にパソコンの画面と睨めっこしながらキーボードをタイピングしている桜がいた。その右には、仕事の過程で積もったと思われる書類の山ができていた。

 千晶は桜の執務机の前に立つと

「社長、鷹之宮証券の方がいらっしゃいますよ」

と声をかけた。声に気づいた桜は視線を千晶に向けると、すぐに手を止めて立ち上がった。

 千晶が来客用の机に資料を出していると、受付の女性が来客者を連れてきた。来客者に気づいた桜が嬉しそうに駆け寄った。

「逹、ご無沙汰ですね」

「桜さん、こんにちは。千晶さんも。今日は新しい支店長と一緒なんだ」

 鷹之宮証券の担当者は桜の同級生の星川逹だった。彼は新卒で鷹之宮証券に入社したのだが、転勤がない職種であることを聞いていたこともあって、こちらから申し出て五年ほど前から鷹之宮家と会社の口座を担当してもらっていた。現在全体で数百億の資産を預けており、地場証券である鷹之宮証券としてはないがしろにはできない大口顧客であるため、明らかに身勝手な要望であるにも関わらず、逹が若手の頃から管理職が全力でサポートして、担当してきたのだった。桜個人にせよ、会社にせよ、他の金融機関との取引が当然あるわけだが、逹との関係もあり、最も親しい関係性になっていた。今では中堅社員として、経験を積み重ね、知識を身につけた逹は、桜のところには月に一度は訪問して情報を提供するとともに、桜の考えを確認することにしていた。

 逹に同行している支店長と紹介された男性が桜の前に立ち名刺を差し出した。

「いつも本当にお世話になっております。この度聖北支店の支店長になりました熱海と申します」

「社長の鷹之宮桜です」

「秘書をしている橘です」

「頂戴いたします」

 名刺交換を済ませたところに、玲奈が先ほどから準備していたコーヒーを持ってきて、机に並べた。桜は二人を椅子に案内し、座るよう手を差し伸べた。

「冷めないうちにお召し上がりくださいな」

「いただきます」

 桜はコーヒーカップに一口、口をつけると話を始めた。

「熱海さんはどちらからいらっしゃったんですか?」

「東京から参りました。実は今回初めて支店長という立場になりまして、何とかお役に立ちたいと思っています」

と少し照れ笑いをした。

「そうなんですね。初めての支店長ということは出世されたんですね。おめでとうございます」

 桜はそれを聞いて微笑むと、千晶の方に顔を向け、

「千晶、何かお祝いとしてご用意できるものはないかしら?」

と頼んだ。熱海は慌てて

「お気遣いなく」

と返事をしたが、千晶は桜がそういう気遣いの手を絶対に抜かないのを知っていたので、無言で頷いた。桜は取引先の社長や会長の誕生日には直筆の手紙を必ず書いているし、祝電や弔電も欠かさない。桜曰く、「挨拶をすることで損することなんてほとんどないと思います。挨拶されて嫌な人もほとんどいないじゃないかと思うの。ならやった方がいいでしょう?」ということだが、その一つ一つの積み重ねが人望を高め、取引先との良好な関係に繋がっているに違いなかった。社内においても、社員の誕生日には直接お祝いの電話をくれるし、事前に頼めば結婚式にも出席してくれるので、社員からも慕われているのだった。

 千晶は彼らが雑談しているうちに、席から立ち上がって、部屋の入り口にある内線を取ると、秘書室に戻った玲奈に連絡を入れた。

「商品開発部の新商品を二人分食べられるよう用意してほしいのと、持ち帰りできるようにパッケージにしてあるやつ一つ持ってきてくれない?」

「かしこまりました」

 千晶は席に戻り、桜に目配せをすると、桜はにこやかな笑顔を見せた。

 桜と逹はアイスブレイクがてら雑談をしていたのだが、熱海は当然のように敬語を使わないで話す部下に少し焦り、

「あの……星川とお二人がお知り合いということは予め伺っているのですが、その、星川とはいつもこんな感じでお話されるのでしょうか」

と質問した。桜はこの手の質問には慣れているのか、

「ええ、そのようにお願いしています。私は逹を信用していますし、逹も私と千晶が何でも言うことを聞く存在ではないことをよく知っています。大事な資産のことですから、こういう場だけ余計な気遣いをするより、普段通り真っ直ぐに話をしてくださる方がありがたいのです」

「そうなんですね。正直面食らってしまいました」

 逹は苦笑しながら

「支店長、友人だからこそ大変なんですよ」

と言った。千晶はフォローするように、

「わがままな客ではありますが、今後ともご支援をいただけますようお願いいたします」

と言うと、熱海はうなずいて

「もちろんです。私の出来る限りのことはさせていただきますので」

と答えた。

 一通りの自己紹介を終えると、桜は愛用のスケジュール帳を開きながら逹に声をかけた。

「今年もう少し設備投資に資金を回そうと考えているのですが……事業として何か面白そうなものはありませんか?」

 鷹之宮証券からすればこちらは顧客であり、営業を受ける立場であるが、金融機関からは質の高い情報を得ることができるため、重要な情報源として活用していた。千晶が資料を用意していたのも彼らに自社のことを相談し、意見を聞くためであった。

「そうだね。最近だと風力発電機を設置する会社が民間でも増えてきたみたいだね」

「最近ニュースでよく取り上げられている脱炭素というものですか?あれはビジネスとして成り立つのかしら?」

 熱海が横から話に加わった。

「ええ。こちらの地域のお客様でもそういう方面に投資されていると伺っております。太陽光と違って売電価格も高いですし、実際の利回りもかなり良いと聞いています」

 千晶もメモを取りながら質問をした。

「初期投資がかなりかかりそうなイメージがありますが、回収までには結構かかるんじゃないですか?」

「そうですね。発電機一つ作るのにも数億円くらいかかるそうで、銀行から借り入れてやるケースが多いそうです」

「そうなんですね。利回りも大事ですが、社会貢献の一環としてやってみたいですね」

「社長、社会貢献も大事ですが、黒字化を前提にやってくださいね」

 桜は強く関心を持ったようで、今すぐにでも何か始めそうな勢いだったが、それにブレーキをかけるのも千晶の仕事だった。社長である桜にブレーキをかけられるのは、千晶の他には桜の夫である璃音くらいで、ただ璃音は会社のことには基本関わりを持たないので、一度やる気になった桜を止めるのは簡単ではないのだった。

 桜は数秒思案し、

「そうですか。では、次の経営会議でこの事を話し合いたいのでどなたかに調査をお願いしてもらっていいかしら?」

と千晶に頼んだ。千晶は自分が調査をすることになるだろうと思いながらも

「かしこまりました」

と答えた。

 桜は一息つくと、真面目な表情になって逹に声をかけた。

「それで、今日はどんなご提案があるのかしら?」

 逹は頷くと、机上に出してあるクリアファイルの中からホチキス留めされた資料を取り出すと、二人の前に広げた。手元用に同じものを逹と熱海の前にも出した。

 逹は資料のページに沿って、現在保有している商品の個々の現状やポートフォリオ全体の分析などを順に解説した。

「今のところ先月立てた戦略はまずまずと言ったところかなと思ってるんだけど、桜さんから見てどう?」

「そうですね。正直難しい相場状況だと思っていますが、その中では健闘していると思いますわ。先月千晶に言われて一部利益確定しておいたのがよかったですね」

「そうだね、千晶さんの取引タイミングはいつもとてもいいタイミングだと思うよ」

 いわゆる富裕層にとって資産運用というのは増やすというより管理をするという方が適切であり、様々なリスクに曝される資産を守るために預け先を分散させたりしなければならないし、そもそも桜の保有資産の多くは彼女の母から相続で引き継がれてきたもので、桜の想いとすれば、それを守りながら次世代に引き継いでいくのが運用の目的であった。会社としても余裕資金の置き所というのは悩ましいもので、証券運用に留まらず、マンションやビルなどの不動産運用も行なっていた。これらの判断は社内的には社長である桜の権限で決めることになっていたが、実質千晶と話し合って決定することが多く、千晶の責任は重大なのだった。

 大事に運用しなければならないとは言いながらも、桜は経営者らしくそもそも投資そのものがとても好きであり、自分で築いた資産に限ってはリスクをとった積極的な投資もしているのだった。

 逹は現状の説明を終えると、

「来月に向けた戦略の提案をさせてもらうね」

と現状の課題や相場の見通しを踏まえたいくつかの案を紹介した。

「千晶さんから見てどうかな?」

 千晶は逹の資料と自分で用意してきた手元資料の双方を確認しながら、

「そうですね、三つ目の案が良いと感じました。ただ、質問なのですが、なぜこの商品を推奨するのでしょうか」

と聞いた。逹はそれを受けて、資料のページを数ページ戻して説明した。

「現状分析で話したことでもあるんだけど、昨今の金利上昇に対処するためにウェイトを減らしてきた部分は、増やし始めても良いのではないかと考えてる。残した部分を見てもらえば分かる通りかなり値下がりしたから、安いうちに足しておきたいんだけど、そうそう急激に価格が戻るということでもないと思うから、焦らず、今月は合わせて多くても五億円程度にとどめて、来月以降の様子を見てさらに割合を増やしていくのがいいと思う」

「分かりました。では一回では買わずに複数回に分けて買いましょう。タイミングはいつものように良いと思えるタイミングでお電話ください。社長もそれでよろしいですね?」

 千晶は逹の回答に納得し、桜に確認をした。

「ええ、よろしくお願いしますわ。ただ、とりあえず今日二億買いましょう」

 桜は逹が来てくれるときには、内容に納得がいけば、その日にいくらか注文を出すことにしていた。逹の顔を立てるためでもあるが、その時点の最新の情報に基づいた提案と考えれば、すぐに動かない理由はないだろうという判断だった。千晶も今日の注文がただの義理ではないことを知っており、桜の言う通り逹に注文を依頼した。

「分かりました。でしたらご注文お願いできますでしょうか」

「ありがとう。他に不明点や質問はございませんでしょうか」

「大丈夫です」

 逹は手数料やリスクの説明を行い、手持ちの携帯電話で会社に電話すると、電話先の同僚に注文入力を依頼した。

「完了しました。いつものように約定の内容は後ほどメールがいくのでご確認をお願いいたします」

 注文は程なく完了し、終了時間まで少し雑談をし、逹と熱海は部屋を後にした。


 二人を見送り、千晶が秘書室に戻ると丁度十二時を知らせるチャイムが鳴った。

 千晶は目を閉じてふぅと聞こえるくらい大きな深呼吸をした。金融の世界は利益が出るばかりではない世界であり、それを友人とやり取りするのははっきり言ってやりにくいものだった。一月に十億円ほど取引することも少なくないが、普通のサラリーマンの生涯年収が二億から三億と考えると相当大きな金額で、しかも自分の資産ならまだしも、上司と会社の大事な資産であることを考えると、かなりのプレッシャーがかかる業務なのだった。

 疲れた千晶を見て玲奈が声をかけてきた。

「お疲れ様です。今日も大変でした?」

「ありがとう。いつも通りって感じね」

「あの営業の若い方はお知り合いなんですよね」

「同級生だし、かなり付き合いの長い友人の一人ね。彼はあの那瑠さんの双子の弟よ」

「えー!すごい縁ですね」

「逹君からしても、こっちを損させたらどうしようって不安におもってるんじゃないかしら」

「それもそうですね。でもお金のことですから、まったく知らない人より信頼できる人の方がいいんじゃないでしょうか」

「そうかもしれないわね。さて、私はお弁当だしお昼行ってきていいわよ」

 すると、玲奈は待っていたかのように机の脇から風呂敷に包まれた弁当箱を見せびらかして

「私も今日からお弁当デビューなのでこちらでいただきます」

と言った。千晶は驚きつつも微笑んで

「それじゃ、一緒に食べましょうか」

と声をかけ、二人はミーティング用の机に向かい合って座るとそれぞれのお弁当を広げた。

「お弁当は毎朝自分で作ってるんですか?」

「ううん。私の夫。主夫してるの」

 卵焼きを口に運びながら答えた。内側が少し半熟になっていて、砂糖と卵黄の甘みが口いっぱいに広がった。

「それ初耳です。あ、でもそういえば、千晶さん料理の腕致命的でしたね。旦那さんとの馴れ初めはどんな感じなんですか?」

「まあ半分腐れ縁というか……中学の同級生なんだけど、私が仕事でいっぱいいっぱいになってるの見て力になりたいと思ってくれたみたいで……」

 話しながら千晶の声は段々と小さくなった。

「千晶さんがそういう顔してるのレアですね」

 その様子を見て玲奈は可笑しそうに笑うが、千晶は「私は貴方の上司だぞ」と言いたくなるのを何とか堪えた。


 結局お昼の間中玲奈から質問攻めされ、食べ終わる頃には千晶の顔は真っ赤になっていた。

 午後は来客の予定はなかったが、引き続き資料作成を進める必要があった。自分一人でできない部分もあり、時折担当のセールスとコミュニケーションをとりながら、空いている時間のアポイントを埋めてもらえるよう依頼したり、セールスの作成した資料を桜に回す前に事前にチェックしたりした。


 すっかり窓の外が夕陽に染まり、桜との約束の時間が迫ってきた。玲奈は

「彼氏とデートがあるんで早く帰ります」

と言って、十七時過ぎに帰ってしまった。十七時半になったところで、千晶は自分のPCの電源を落とすと、部屋の明かりを消し、施錠して部屋を出た。

 社長室では午前中よりも更に高くなった書類の山に埋もれるように仕事をしている桜が見えたので、その目の前に立って千晶は言った。

「社長。そろそろ片付けないと間に合いませんよ」

 桜は手を動かしたまま、目線だけを千晶に向け、

「もう少し待ってくださいませんか」

と頼んだ。しかし、店の時間に遅れるわけにもいかないわけで、千晶はきっぱりと答えた。

「待ちません」

「後少しなんです」

「明日やってください」

「後少しで終わりますから」

 毎日同じようなやりとりをしている気がして、千晶は溜息を吐いて言った。

「では、私がこの書類を整頓するまでに終えてくださいよ」

「ありがとうございます、千晶」

 千晶は桜の机に積まれた書類の山を抱え、側の机にまとめて置くと上から分類を始めた。今日桜がどんな仕事をしていたか何となく分かった。千晶は各プロジェクト毎にファイル分けし、社長室の壁に備えてある本棚に分けて置いた。

 千晶が片付けを終えるよりも先に桜は作業がひと段落したようで、帰る支度をしながら言った。

「お待たせして失礼いたしました。では、参りましょうか」

 桜の合図で二人で部屋を後にした。

 会社の通用口に社用車が待たせてあった。二人を乗せて車は発進した。


 会社からユーモレスクまでは十分もあれば着くため、時間の前にユーモレスクに到着した。

 店に入ると、店長である那瑠がレジで作業をしていた。

「いらっしゃい」

「お久しぶりです、那瑠さん」

「奥の個室を使ってくれ。後で手空いたらそっちに顔出すから」

 店は少しずつ混み始めていた。夕方までは喫茶店だが、夜になるとこの店は居酒屋へと姿を変える。桜同様休むことが二の次どころか十の次くらいの那瑠はこの店を九時には開け、夜中十二時まで営業している。しかも休みは週に一日しかない。

 席にはお品書きが置いてあった。桜が事前にコース料理を頼んでいたようだ。

「社長は最初何を頼まれますか?」

「そうですね。コースが始まる前に那瑠の淹れたアメリカンアイスコーヒーが飲みたいです」

「では私は、キャラメルラテをいただきましょうか」

 千晶はアルバイトを呼んでそれらを注文した。

 千晶には店内にかかっている音楽に聞き覚えがあった。

「この曲って確か文化祭で那瑠さんが演奏してませんでした?」

「そうね。何か懐かしいと思ったら」

 大学の時那瑠は軽音楽部に所属していて、文化祭のステージでこの曲を演奏していたのだ。軽快で爽やかなギターロック。

「私たちも歳をとりましたね」

「お父様にこの前そんなこと言ったら、その年齢で何を言ってるんだと笑われました」

「そうでしょうね、でも大学を出てからもいろんなことがありましたから」

 桜と千晶はそれぞれの親の後継として、鷹之宮財閥に就職したのだが、縁故採用はしてもらえず、一般の就活生同様に筆記試験や面接試験を経て採用されたのだった。入社後も最初は一新入社員として、特別扱いされることなく下積みの期間を過ごした。二人とも身分を知られてしまっていたが、社長だった桜の父は、二人を特に厳しく扱うよう周囲の社員に厳命し、桜たちにもこういった試練を乗り越えられないようであれば後を継がせるつもりはないと伝えていた。二人ともそれぞれの持ち場では苦労し、時には助け合い、時には周囲の人に助けられ、今の地位に至ったのだ。当時共に働いた上司や先輩たちとは今でも関わりがあり、そういった経験をしたからこそ、社内でも尊敬を集める存在になれたのであった。

 ちょっとした昔話で盛り上がっていると、突然BGMが変わり、アルバイトたちと歌いながらケーキを持った那瑠が現れた。

「誕生日おめでとう!」

 千晶の好きなニューヨークチーズケーキに、「千晶、お誕生日おめでとうございます。いつもありがとうございます」と書いたプレートが添えられていた。

 桜がぎこちない表情をしていたので、千晶は笑顔になって自分の気持ちを伝えた。

「社長から直々に祝ってもらえるなんて、とても嬉しいですよ」

「本当ですか?」

「本当です」

 桜の顔が子どものように笑顔を弾けさせた。事前に桜は那瑠に相談をして、このようなサプライズを企んだのであった。

 那瑠が二人の目の前で手際よくケーキを切り分け、皿に盛り付けた。

「忙しいのに、ありがとうございます」

「いや、忙しくない」

「え?」

「優秀なアルバイトが多くてね。最近じゃすっかり管理職だよ。お菓子も料理もドリンクもみんな上達したから、今日はのんびりこのケーキを作らせてもらったよ。コースの料理はほとんどバイトに作ってもらったから楽しみにしててほしい」

「ありがとうございます。楽しみです」

 そう言って那瑠は厨房に戻っていった。

 桜と千晶はコーヒーとともにケーキを味わいながら雑談をしたが、仕事の話題を避けようとしつつも、他の話題も見つからないもので、

「早乙女さんはどんな様子ですか?」

「大口を叩いただけあって想定以上の仕事ぶりですよ。少し生意気なところもありますが、私はその方がやり易いところもありますので」

「そうですか。将来が楽しみですね。千晶の負担が軽減されているといいのですが」

「ええ。だいぶ助かっていますのでご安心ください」

「それはよかったです。ではそろそろコースを始めていただきましょうか」

 桜はそばにいたスタッフを呼ぶと、コースの説明がされた。

「ファーストドリンクはお決まりでしょうか。今日のコースには赤ワインが合うと思います。当店には店長が直接選んだワインをいくつも取り揃えておりまして、よろしければいかがでしょうか」

 二人ともワインはあまり飲む方ではなかったが、

「では、貴方のオススメでお願いできますか?」

とそのスタッフに任せることにした。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そのスタッフが瓶を手に戻ってきて、赤ワインがグラスに並々と注がれた。

「それでは改めて誕生日おめでとうございます、千晶」

「ありがとうございます、社長」

 桜の言葉で二人はグラスを合わせた。

 すると、すぐに前菜から料理が運ばれてきた。二人は料理を食べながら、店に用意されているワインを順番に飲み比べた。

 

 メインディッシュが出て、コースも一段落したところで

「少しお手洗いに行ってきますわ」

と桜が席を外すと、それを待っていたかのように那瑠が席にやってきた。

「千晶、少し話していいか?」

「ええ」

「唐突なんだが、店の経営もかなり順調だから法人成りしようと思ってるんだ」

 自分のお店を出すにあたって那瑠は鷹之宮の力を借りたくないというこだわりがあったため、二つ返事でたくさん出資してくれるであろう桜には、独立すること自体を秘密にして、自分の資金と人脈で、自宅付きの店舗を建て、開店したのだった。結局は桜に知られてしまって、自宅の家具などは桜が手配したものになったのだが、那瑠はきちんと料金を支払ったという経緯があった。

「そこで、桜を含めて、逹や璃音たちにも少し出資してもらって、作った会社の株式を渡そうと考えているんだが、今までそういうことをやったことがなくて、さっぱり分からなくてな」

「そうでしたか。確かに会社設立はいろいろと大変ですよ。それに皆さんを株主にしたら株主総会を開く必要もあります。法人成りするのはやはり税金の関係ですか?」

「まあ、それも大きいな。税金払うのが馬鹿馬鹿しいとかではないし、お金に困っているわけでもないから、大きな金額を出資してもらうつもりもなくてさ。自分が頑張ることでみんなのためになるから、これも一つの恩返しの形かなって。もし株主総会でみんなと集まる機会を定期的に作れるならそれもいいかもね」

「素敵ですね。私も少し出資させてもらおうかしら、なんて」

「もちろん千晶にも渡したい。ただな」

 那瑠は一呼吸置いて、一番の悩みを口にした。

「店出す時、桜が出資してくれるって言ってたのを思いっきり拒否しちゃったから、少し気まずいんだ」

「なんだ、そんなことですか」

「そんなことって……」

「大丈夫ですよ。社長が戻ってきたら直接相談しましょうか。私から話切り出すんで」

「嫌がらないか?」

「那瑠さんにしてはいつになくしおらしいですね。社長がどれだけ那瑠さんを大事に思っているか気づいていないわけではないでしょ?」

「そうかな?あんまりそういうの自信ないんだ」

「あの仕事人間が仕事放り出して貴方たちのことを優先するんですよ。それが十分な証拠です」

「聞こえましたよ、 千晶。一体何の話かしら?」

 気づけば話が長くなり、桜が戻ってきてしまった。千晶は仕事人間と言ったのをなかったことかのように

「実は那瑠さんが会社を設立するので社長に出資してほしいそうです」

と話をした。千晶があまりにストレートに話をしたため、那瑠の顔が少し強張った。桜はきょとんとした顔で

「あら、それはもちろん構いませんわ。那瑠のお店ならこれからもっとうまくいくと思っているので、十億くらい出したっていいのですよ」

と答えた。千晶はそれを聞いて

「会社乗っ取るつもりですか?」

と冗談を言ったが、那瑠は神妙な顔のまま

「実は、他のみんなにも出資してもらおうと思ってるんだ。前に続き今回も否定するようで悪いけど、公平になるように百万円にしてほしい」

とバツが悪そうに申し出ると、桜も那瑠の意図を察したようで

「分かりました。私は那瑠の力になれることが嬉しいです」

と満面の笑みで答えた。那瑠は表情を崩し

「じゃあ詳しい話はもう少し具体化してからするよ。千晶も折角の誕生日に硬い話をして悪かったな。次の料理を持ってくるよ」

と言って、厨房の方へと戻っていった。


 コースも終わって一時間が経った頃には、桜はすっかり酔っ払ってしまっていた。桜はお酒が弱いわけではないし、酒の席で自制ができないタイプではないのだが、普段飲まないワインをハイペースで飲んだせいか、珍しくこんな状態になっていた。

 酩酊した状態で桜は千晶に内心を吐露した。

「私はちゃんと社長をできていますでしょうか?」

チェイサーを挟んでいた千晶は桜ほど酔ってはおらず、冷静に返事をした。

「急にどうしたんですか?会社の業績は計画通りではありませんか」

 桜の言葉は続いた。

「ええ、それはとても大事なことです。お父様たちにもお褒めの言葉ばかりいただいています。私が今の立場になってから、もう五年になりました。ただ、夜中に仕事をしていると、ふと社員や地域の皆様にとってあるべき姿になれているだろうかと悩むこともあるのです」

「お言葉ですが、あるべき姿なんてそんなものを気にする必要はないです。今は社長の会社なのです、お好きにおやりになったらいかがですか?」

「私は恵まれた立場です。この社長の座も与えられたものです。一番は母のようにやっていけるか不安に思っているのです」

 桜は一息で言うと、突っ伏して黙ってしまった。

 確かに桜の抱えるプレッシャーは相当なものであることが容易に想像できる。しかし、桜がこういった姿を人に見せることは滅多になかった。

 千晶はそんな桜を様子を見て大きくため息をつくと、席から立ち上がって、テーブル越しに桜の頭を撫でながら

「いつでも私がいるから大丈夫よ、桜」

と言った。それを聞いた桜が頭を起こして何か言おうとするのを遮って、荷物をまとめて席を立った。

「さて、社長、明日も仕事ですからそろそろお暇いたしましょうか。今日はありがとうございました」

 桜もフラフラと立ち上がって、うっすら目に涙を浮かべながら、

「千晶……もう一回桜と呼んでください」

「何のことですか?私の方で領収書は切っておきます。ごちそうさまでした」

 千晶はよろける桜を支えながら、那瑠たちにお礼を言って、店を後にした。


 社用車に乗って、桜の自宅に送ってもらうと、千晶もそこで一緒に降りて歩いて帰ることにした。桜の家で食事をする機会は偶にあって、そういうときも歩いて帰ることが多かった。

 千晶の家は桜の家から歩いて十分ほどの距離にあった。橘家は鷹之宮家のすぐ隣に邸宅があったが、千晶は学生時代から家を出て、一人暮らしをし、結婚した今でも実家とは違う場所に住んでいた。

「ただいま」

「おかえり、今日もお疲れ様」

 家に着くと子どもたちは既に寝てしまっていて、賢史がパジャマ姿で読書をしているところだった。

「お風呂温めてあるから入っておいで。僕ももう寝るばかりの状態だから」

「ありがとう、そうさせてもらうわ」

 千晶はゆったりとしたバスタイムを過ごした。鷹之宮桜の秘書としてほぼ休みなく働く彼女にとって、この時間が唯一の息抜き時間だった。

 風呂から上がるとダイニングテーブルに缶ビールが置いてあった。戻ってきた千晶を見て賢史は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて千晶に

「呑んできた後だろうけど、もう一杯呑まない?」

と訊いた。千晶も笑顔になって

「もちろん、ありがとう」

と返事をすると、賢史は缶を開け、それぞれのグラスに注いだ。

「乾杯」

 千晶はぐいっとグラスの半分ほどを飲みほし、

「やっぱり風呂上がりはビールに限るわね」

と頬を緩ませながら言った。賢史はそれを見て、

「ほんと、千晶はビールが好きだね」

と笑った。

「そうよ、家族にビールがあれば十分よ」

 賢史はあまり酒が強くないため、二口ほど飲んでグラスを置いた。

「桜さんは?」

「そうね。今日の様子じゃまだまだお転婆桜ちゃんの面倒見てあげないといけないみたい。お給料に見合うだけのお仕事はしなくちゃね」

「そんなこと言ってほんとは桜さんのこと大事に思ってるんだろ?」

 千晶は少し黙って、頭に手を当てたが、賢史のグラスを取って、一気に飲み干すと、

「グラスも空いたことだし、さあ、寝る準備しましょう」

と言って、歯を磨きに洗面所へ逃げた。


 

 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

humoresque 朽無鶸 @Bflat_dim7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る