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 ヒトミが受ける私立高校は浜かもめ団地からそれほど遠くない。幹線道路を三十分も走れば到着できる筈で、余裕を持って間に合う筈だった。けど、道路はひどく混雑してた。浜かもめ団地なんかがある郊外はいわゆるベッドタウンで、都心に向かう人々で幹線道路が通勤時間に混むのはいつもだが、しかし今日は日曜日だ。なのに、渋滞はいつもよりずっとぎゅうぎゅうに詰まってて、十分待っても二十分待っても押しくら饅頭みてえな車列はぴくりともしねえ。

 遠くからパトカーのけたたましいサイレンが聴こえた。事故が起こったのかもしんない。

「別に焦らなくていいよ」

 俺が苛々してることを察したのか、ヒトミが努めて作ったような、のんびりした口調で言った。アイポッドもどきは握りしめてたが、音楽は掛けてなかった。

「でもこのままだと受験間に合わねえじゃん。あれ、途中入場は禁止だろ?」

 俺が後部座席を振り向いて言うと、ヒトミは窓の外に目を向けてて、顔は見えんかった。

「あはは、ちゃんと受験要項、読んでくれてたんだ。父親らしいとこあんじゃん」

 ヒトミのその言葉は、いつもみたいに皮肉っぽくはなく、嬉しそうにも、寂しそうにも聴こえた。

「いいよ、わたしは別に。受験できなくても。どうせ公立校も併願してるし。受験勉強、頑張ってやってきたのが、無駄になるわけじゃないから」

 ヒトミは据わった声で言った。俺はずっとヒトミの方を見てんのに、ヒトミは俺と目を合わせてはくんなくて、いつも逆だったのかもしんない。けど、よく見ると、ガラス窓にはヒトミの顔が映ってた。ヒトミは今までに見せたことのねえおだやかな表情で俺を見据えてた。こういう悪戯っぽいとこがヒトミらしいなと思った。俺たちはいつも真正面から向かい合うことができなくて、いつも何かを介して繋がろうとしてた。シゲチーとか、マリとか、イズミですら、全部がぜんぶ俺とヒトミのために存在してるような気すらした。俺たちはいつも愛し合うことに臆病だったから。

「ミキオは足を治療してくれたのに、わたしは合格できなくて、ごめんね。でも、ありがとう」

 ヒトミの初めての「ありがとう」を聴いた瞬間、俺はやっと何かが分かった。ヒトミのためにどうするべきなのか、どうあるべきなのか、やっと見定めることができた。

 俺はハンドルをぶん回して車の間を通り抜けると、反対車線に飛び出した。R1の車体は素晴らしく小さいから、それほど難しくなく反対車線に出ることができた。逆方向の反対車線にはほとんど車はいなかった。俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。四気筒だと低回転のトルクは弱いが、高回転では分厚いトルクで高速走行を支援してくれる。幹線道路は一応四十キロ制限なんだが、とにかく広いから、道が空いてるときはどの車も八十キロ近く出す。俺はハイスピードで向かってくるトラックを巧みなハンドル捌きで次々と躱した。短いホイールベースとストラット式の独立懸架サスペンションは取り回しがよく、無駄のない最低限の挙動で押し寄せる車をすり抜け、ハイギアの変速比が低いCVTは百キロ近くまで滑らかに加速させてくれた。

「ミキオ! 止めて!」

 ヒトミが俺の左腕にすがり、悲鳴を上げた。いつも勝気なヒトミがこんな姿を見せるのは初めてで、俺の胸はひどく痛んだけど、止まるわけにはいかねえ。

「警察に捕まっちゃうよ! 警察に捕まったら、わたし、ミキオと離れ離れになっちゃう。わたし、そんなの絶対いやだ!」

 俺だって嫌だよ。けどよ、俺はいつだって、ヒトミの幸せのために存在してえんだ。ヒトミのためなら、犯罪者になることだって厭わねえ。死刑にだってなってやる。見ろよ、イズミ。あんとき後部座席に籠もってた俺が、今はこんなに速く走れるぜ。もう着いてこれねえだろ。さよなら、イズミ。そんで、ヒトミ。俺は引換券だ。俺が悪事を犯す理由も、生きる理由ってのも死ぬ理由ってのも、いつだってヒトミ、お前なんだよ。

 交差点をパトカーの車両が塞ぐ。俺はアクセルを踏み込み、隙間を器用にすり抜ける。さすが、やるじゃん、R1。お前だって、ヒトミのことが好きだもんな。

「ヒトミ、俺のことは忘れて、幸せになってくれ」

 俺はそう伝えた。ヒトミはもう項垂れちまって、何も言わんかった。ヒトミが号泣するとこを初めて見た。

 イズミ。ヒトミに会ったんだってな。どうだった? 俺も十五年間、それなりに頑張ってきたんだぜ。認めてくれるか。だから、すまん、あとは頼んだ。こんなときのため、ン千万の金を託してあるし、同居なんかしなくていいけど、ヒトミの面倒を見てやってくれ。してくれるよな? だって俺にヒトミをくれたのは、イズミ、お前だったもんな。

 高校の校庭に慣性ドリフトで滑り込むと、助手席の扉を開け、ヒトミを蹴落とした。それから校門まで車を戻し、外に出ると、俺を囲むパトカーに向かい、ガッツポーズみてえに両手を挙げた。ああ、いつのまにか曇ってやがる。身体はぶるってたが、ヒトミがいなけりゃ寒くねえ。痩せ我慢じゃねえよ。ヒトミがいるから、俺は暖房をつけるし、風呂の温度を二度上げるし、ぬくもりてえって思うんだ。独りの日には、雪じゃなく涙みてえに冷たい雨がよく似合うぜ。

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