第5章 絶え間なく注ぐ愛の名を
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じーっと悶える投光器に映し出された苔だらけの石鳥居を潜って外に出ると、発電機の回転するノッキング音とか出店前でスーパーボールをねだる子どもらの喧噪が遠ざかる代わり、おばちゃんたちがチラシを押しつけるかしましい嬌声が聞こえてきた。だいたいが商店街で開かれる新春特別セールのビラだ。阪神電車の駅から北、ごちゃごちゃした区画を縫うようなノコギリの刃状に伸びてる濃緑色のアーケードは、戦前から続く市街地にあるからだろう、薄汚れてるわりに不況でも盛り上がってんだが、俺たちの住む棟からはけっこう遠い。それにセールの類いには興味がないんで、例年のごとくビラは中年腹の体当たりで押しのけるみたいにガン無視した。手が空いてたら持たされるし、ポケットにむりくり突っ込まれることも多いから、ポケットを手で塞いだ格好で一気に駆け抜けるのがベストだ。ヒトミはご丁寧に全部受け取ってた。受験で忙しいこの時期、セールに行くわけでも無いだろうに、奴はチラシを読むのが好きらしい。特に家と車と仕事のチラシがお気に入りらしく、団地の郵便受けに入ってるチラシなんかもよく食卓に広げ、貧乏削りの赤鉛筆片手にああだこうだ文句を言ってる。変な趣味だと思う。まあ風俗のチラシに興味を持つんでなけりゃ、俺からは言うこともないけど。市内に新地がある関係で、結構多いんだよな、風俗の派手なチラシ。
「あ、ねえねえ、ミキオ。これ見てよ」
俺が早足で歩いて行くと、ヒトミが俺の腕をぐいっと引き留めた。ちょっとびっくりするぐらい強い力だった。
「なんだよ」
俺は仕方なく振り返って、ヒトミが広げてるチラシに目を遣った。葉書サイズぐらいの小さなもんで、こういうのは、フライヤーって呼ぶんだっけ。高校の学祭で作ったことがある。けっこう安く作れるんだよな。そのチラシはモノクロ印刷で、いかにも金を掛けて無さそうだった。日時と料金と場所が大きく書かれてる。どうやらライブのチラシらしい。四人組のバンドのシルエットが粗い解像度で印刷されてた。
「……GLAY?」
俺は眉を顰め、そのチラシの上方に目立つバンド名を読み上げた。その文言を素直に解釈すりゃ、これはGLAYのライブのチラシらしい。
眉唾だろ。料金は安いし、場所も市内のさして広くもねえ市民ホール。あの伝説のGLAYが来る筈ねえだろ。確かに今は押しも押されぬ国民的ロックバンドだった当時ほど売れてるわけじゃねえが、それでもドームを満員にできるようなメジャー・ミュージシャンだ。こんなせこい町に来るもんか。そもそも、チラシがいかにもインチキ臭えし。
「何だこのチラシ。ニセモンじゃん」
俺が鼻で笑ってまた歩いて行こうとすると、ヒトミは強く掴んだままの俺の腕を放さんかった。力強いっつうよりも、強い意志が込められてる。そんな掴み方だった。
「ミキオ、行こうよ。GLAYのライブ」
ヒトミの言葉もすごく力強くて、それだけに、俺は力一杯反発しちまった。
「何言ってんだよ!」
口にしたのはそれだけ。でも俺は、思い切り腕を振って、ヒトミの手を振り払った。瞬間、ヒトミは傷ついた表情を見せて、俺は心臓を抉りとられたみたいな空虚感を覚えた。いつかヒトミに股間を蹴られたときの感覚に似てて、それよりずっと息苦しかった。何だよその顔。こんなGLAYのニセモンのライブなんかで、何で俺がお前を傷つけたみたいになんなきゃいけねえんだよ。
ヒトミは表情に笑みを戻し、再び強い口調で言った。
「わたし、GLAY好きだよ。ミキオの本棚にある、『REVIEW』ってアルバムが好き。友だちでGLAY聴いてる子なんていないし、誰とも話合わないけど、わたしはそれでいいんだ。だってミキオ、若い時、これ聴いてたんでしょ。GLAYを聴いてると、ミキオが若い時どういう風に生きてきたのか、分かる気がする。『グロリアス』も『口唇』も『千ノナイフガ胸ヲ刺ス』も『ずっと二人で』も好き。でも一番好きなのはあの曲。♪絶え間なく注ぐ愛の名を」
「歌うな歌うな、JASRACが来る」
俺は嗤いながら、むちゃくちゃ意味分からん言い口でヒトミの歌を阻止した。なに言ってんだ俺。なに嗤ってんだよ。耐えられなかったんだ。その続きを聴くってことが。胸騒ぎを掻き立てる歌と、幼さの残る声と、気の強い眼差しが。
ヒトミがGLAYを好きってことは、嬉しかった。単純にそう思ってた。でもそれだけじゃなかった。俺たちが本当に真っ当な父娘なら、それだけで済んでたんだろう。父親が若い時に聴いた曲を、娘も聴いて、感想を言い合う。いいじゃねえか。父娘の美しくて健全なワンシーンだと思う。でも俺たちは、違った。ちっとも健全じゃなかった。俺は健全な父親じゃなかったし、ヒトミも健全な娘じゃなかった。俺たちはGLAYのあの名曲のサビに、歌われてない意味を見いだそうとしてた。それは歌われちゃいけねえ。俺たちは自由に歌うこともできねえ。それを歌ったとき、来るのは本当はJASRACじゃないんだと思う。俺はふいにおみくじの待人の欄に書かれてた言葉を思い出した。
ヒトミはまた傷ついた顔をした。こんなに痛い沈黙は初めてだった。絶えきれなくて、ふう、と溜息を吐いて、とりあえず健全なことを言ってみることにした。
「……ライブの日、受験の前日じゃん。さすがに行けねーだろ」
ライブは二月頭の土曜日で、そのちょうど次の日が受験日だった。まあ現実的な話だ。さすがにヒトミも諦めるだろうと思った。
「やだ」
でもヒトミはその場を動こうとしなくて、俺を上目遣いで睨んだまま言った。ヒトミが見せたことのねえ表情だった。
いま思えば、ヒトミはずいぶん聞き分けの良い子どもだった。赤子の頃こそ、それなりに大変ではあったけど、物心が付き始めると本当に手の掛からない、楽な子だった。確かに家事はしねえが、迷惑を掛けられたことは一度もねえし、口は悪いけど、どうにもならない我儘を本気で主張したことは一遍たりとも無かった。
「行こうよ、GLAYのライブ。わたし勉強してるし、これからもするし、絶対合格するから。それに、どうせ受験の前日なんて勉強しないんだし、ライブにでも行ってリラックスした方がいい結果が出るかもしれないし。ねえ、お願い。わたしこれまで、結構ちゃんとしてきたよね。これからもちゃんとするよ。高校真面目に通って、いい大学に行って、いい会社に入って、頑張って働くよ。家もずっと離れないし、ミキオの世話もちゃんとするよ。浜かもめ団地よりずっといい家を建ててあげるよ。そこでミキオと暮らすのが、わたしの夢なんだ。ねえ、だから」
ヒトミは俺の両腕を掴み、胸に顔を預け、呻くようにくぐもった声で言った。
ライブに行くだけなら、簡単だったと思う。確かにヒトミは必死に勉強してきたし、それは俺もずっと見てきて知ってる。成績票とか内申点を考えても、きっと合格するんだろうと思う。でも、その先は? ヒトミは俺のことを分かってるようで、全然分かってねえ。分かれよ、俺はそんなこと、望んでねえんだよ。
「迷惑なんだよ」
俺はヒトミを突き放し、言った。その言葉が本気なのかどうなのか分かんなかった。ヒトミはもう傷ついた表情はしてなくて、ただ、悲しいとか苦しいとか怒りとか、全ての感情を消し去ったみたいな表情をしてた。
「知ってただろ。俺とお前は、血が繋がってねえんだよ。父娘じゃねえの。血縁があるならよ、俺たちはちゃんとずっと一緒にいられるかもしれねえよ。そうじゃねえの。分かってくれよ。俺たちゃいつか離れなきゃいけねえんだよ。俺がお前の世話をしてきたのは、お前が大きくなるまでの一時的なもんで、お前が独り立ちしたら、俺はお前なんか……」
一瞬言葉を迷った。俺にとってヒトミはなんなのか。
「……お前なんか、どうでもいいんだよ!」
ずっと言わなきゃいけねえと思ってたことをやっと言えた。でもそれは口に出してみりゃ、伝えたかったこととは違った。不正解だっつうことは分かるけど、どこが不正解なのか分かんねえ。ああそうだ、俺はずっとヒトミに嘘をついてきたに違いなくって、そのことを謝らなきゃいけなかったのに、また嘘をついてんだ。
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