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 マリが救急車を呼んでくれたんだろう、目を覚ますと、俺は県立病院のベッドに倒れてた。看護師さんによりゃ、俺はうわごとで「ヒトミにだけは言うな」って呟いてたらしい。まあ俺の意識が確かでも同じこと言うだろな。出血がひどかったうえ低体温症ってのになりかけてたにも関わらず、医者がおったまげるぐらいの奇跡的な回復を遂げたそうだ。俺は意識が戻るなり、すぐに「帰る」って飛び起きた。だって、そうしねえとヒトミが心配するじゃねえか。太ももの傷がひどいっつって、若い看護師さんに抱きすくめられたけど、俺はほそいわりに力強い腕をうざってえ点滴ごと振り切るぐらいの格好で病院を飛び出した。看護師さん、マジ泣きで、苺マシュマロみたいないい匂いのする可愛い子だったから、ちょっともったいなかったな。偉そうな若造の医者には「また来い」って居丈高に言われたけど、受付で叩きつけるように治療費を全額現金で払って、それからは行ってない。個人タクシー拾って家に着いたのが朝で、ヒトミの朝メシと弁当を速攻作って、奴を見送った後、会社に行った。足はまだ痛かった、っつうか、ちゃんと動かんかったけど、騙し騙し歩くぐらいはできたし、電車通勤は無理でも車の運転は左足だけで意外といけた。

 割とうまく誤魔化せたもんだと思ってた。ヒトミは何も言わんかったし。朝が弱いから相変わらず眠そうな顔でメシ食って、ちょっと嫌そうな顔で学校行ったし。いつも通りの光景だと思ってホッとした。けど、日付の計算が合わなくて気づいたんだが、俺は病院で丸一日寝てたみたいだった。会社はかなりの放任主義だから、信じられんことに俺が一日休んでても誰も何も言わんかった。いや、何か言えよ。一応会社では大事な役割を務めてたつもりだったから、ちょっとショックだった。とにかく、俺はヒトミを一日ほっといたわけで、それが一番ショックだった。たぶんメシも食わんかったんだろう。でもヒトミはそんなことに不平を漏らさないどころか、俺が帰って来なかったことに全く触れんかった。遠慮とかそういうんじゃないと思う。ヒトミは遠慮の欠片もない奴だし。なんつうか、言わないことで逆に言ってたとか、そんな感じだった。言葉にならんかった言葉は、言われるよりずっと痛い。それに比べりゃ足の痛みなんて屁のつっぱりだった。

 俺とマリの間に何があったのか、ヒトミは訊かなくて、マリに訊いたのかも分かんなくて、どのぐらい分かってるのかは知らねえ。それ以来、食卓でのいつもの雑談でも、マリが話題に上がることは無かったし。いつも俺たちが食卓でどうでもいいことを話すとき、それは本当にどうでもいいことを話してるもんだと思ってた。違ったんだな。あのころの、イズミとの会話と同じだ。俺は今までよりずっと真剣に、でもどうでもいい振りをして、ヒトミの話に耳を傾けるようになった。言われんかった大切なことを、ひとつ残さず聞き逃さないように。

 ちゃんとヒトミを見よう。牛乳が好き。卵料理が好き。きゅうりが嫌い。俺の本棚からパクったGLAYのCDが好き。そんで、俺がトイレの壁に貼った篠崎愛のポスターが大嫌い。うちの車のR1は結構気に入ってる。風呂に入る時間は短い。寝るのが趣味。足音がバタバタうるせえ。俺がヒトミの髪を切るときに注文が多い。左耳に触れたらキレる。あとなんだ、そう、ピンク色が好き。ああ、この子は女の子なんだな、と思った。大切にしなくちゃいけねえ。病院代が高くて、意地張っていつもみたいに値切ったりしなかったから、クリスマスプレゼントのアイポッドは偽物しか買えんかった。けど、ヒトミはこれまでで一番うれしそうに受け取ってくれた。俺はちゃんとしなくちゃいけねえ。俺にとってヒトミは、「やくそく」なんだ。

 病院に行かねえと、足は治んないどころか、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、だんだん動かなくなっていった。それはさすがに誤魔化せなくて、ヒトミからは心配されたっつうか、あいつ口が悪いから、どやされた。病院行けや、っつって、くしゃくしゃの万札を顔面に投げつけられたこともある。うるせえ、カッコつけさせてくれよ、この右足の傷は、俺の戒めなんだよ。治したら、俺はヒトミを傷つけちゃう、そんな気がする。またイズミに会いたくなる。治ったら、俺はその足でイズミんとこへ行っちまう。

 あれ以来、想像することがあんだ。いつかイズミが俺のとこに帰ってきて、ヒトミとどっちか選べって言われたら、どう答えんだろう。それはよくある、母親か恋人かどっちか選ぶタイプの質問と似てる。むかし大衆浴場のカビが目立つ休憩室で、しなびた畳に寝転がって読んだ「HUNTER×HUNTER」っつう少年漫画にも出てきたな。おなじようにイズミを待ってて、そのことになんの切実さもなかった、ぜんぜん切実じゃなかったあの質問。作中での正答はこれだった。「選べない」。俺はそれじゃ、駄目なんだ。俺はちゃんと、ヒトミを選ばなくちゃいけねえ。だってイズミが、きっと切実にそれを望んでる。

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