第7話 グレムリン

 夕暮れが終わり、夜の闇が街を覆い尽くす頃。


 セシリアは薄暗い街並みの中、息を切らしながらもふらつく足取りで小走りに黒い影を追っていた。


 「おかしいな……この辺りにいたはずなのに」


 確信が持てないまま、黒いマントを羽織った男を追い続けていたセシリアの胸には、複雑な感情が渦巻いていた。


 (昨日、助けてもらったお礼を言いたいだけなのに……どうしてこんなに怖いんだろう)


 彼の背中を見つけた瞬間、胸が高鳴ったのは感謝の気持ちだけではない。あの自分に向けられた突き刺さる様な冷たい瞳が、彼の本心を見透かせないことが不安を掻き立てる。それでも、彼に近づきたいという気持ちが恐怖に勝っていた。


 自分の中で湧き上がる矛盾する感情――感謝と畏怖。感謝を伝えたい、でも近づくのが怖い。それでも足を止められない自分に、セシリアは戸惑いを覚える。


 (あの人は……いったい何者なんだろう。どうして、こんな場所にいるんだろう?)


 その答えを知りたい気持ちと、触れてはいけないという警鐘のような恐怖が胸の中でせめぎ合い、足が何度も止まりそうになる。それでも、彼の影を追い続けてしまう自分にセシリアは苛立ちさえ覚える。


 その足は知らず知らずのうちに住宅街を抜け、工場群のある区画へと入り込んでいた。

周囲は静寂に包まれ、遠くから工場が稼働する音だけが微かに聞こえてくる。明かりもガス灯の灯りがちらほらと灯るだけで、薄暗い街並みはどこか不気味で。吹き抜ける風が生み出す微かな音に、セシリアは思わず肩をすくめる。


「帰ろうかな……」


 そう呟いて踵を返そうとした瞬間、不意に目の前の廃工場――「スチームワークス・アーセナル」と書かれた朽ちた看板がかかる建物――へと消えていく人影を見つけた。


「あっ!あの……!」


 思わず声を上げたが、その人影はこちらを振り返ることなく、闇の中へと溶け込んでいった。声をかけその影を追うがすでに追う人物の姿はなくただ何も無い廃工場のみが暗闇の中まるで手招きでもするかのように物を運び出す為の搬入扉がギイィィと音を出し勝手に開く。


 セシリアはごくりと息を飲んだ。その場を離れるべきだと心が告げているのに、好奇心と得体の知れない力に引き寄せられるように、一歩、また一歩と足を踏み出す。

 

 工場の中は異様な静寂に包まれていた。


 外では聞こえていた虫や鳥の音が、一切聞こえなくなっている。露出した肌に冷たく澄んだ空気が触れ、壁を覆う石材の冷気が体を芯から凍えさせた。


 「嫌な場所……空気が淀んでる。」


 ここで立ち止まるべきだという本能的な警鐘が鳴るが、あの影を追わずにはいられない強い衝動に駆られる自分に気づき、セシリアは動揺する。


 暗闇の中、何か悪しきものが潜んでいるかのような気配が漂う。重たい空気がセシリアの胸に圧し掛かり、靴音が反響するたびに恐怖がじわじわと広がっていく。


 あの人影は見間違いだったのかもしれない……


 そう考えたセシリアは帰る決意を固め、踵を返そうとした。その瞬間、視界の端で再び動くものを捉える。それは工場の奥へと消える黒い人影だった。


 「あ! 待って!」


 反射的に声が飛び出した。声は暗い工場内で虚しく反響するだけで、追いかけている人影は振り向くこともなく姿を消した。


 「昨日のお礼を言いたいだけなんです!」


 その言葉を口にしながら、セシリアは薄暗い通路を進む。不安と恐怖が交錯する中、廃棄された機械が影を落とし、錆びた鉄骨が軋む音が耳を掻き乱す。まるで出口のない迷路に迷い込んだかのような感覚。奥へ奥へと進むたびに、影はさらに遠ざかっていく。


 それでも、引き返すという選択肢が浮かばなかった。不安と恐怖に包まれながらも、影を追わなければならないという衝動が胸の内で膨らんでいく。まるで何かに導かれるように。


 やがて、影は行き止まりで立ち止まり、何かをしゃがんで作業しているようだった。ぴちゃぴちゃと水音が響いている。


 「あの?」


 セシリアは恐る恐る近づき、声をかける。その影が首をかしげるように動いた瞬間、セシリアは背筋を凍らせた。


 「え……?」

 「お···お···おべを····た···たすけろ···」


 微かにかすれた声が、セシリアの耳に聞こえ目を凝らす。

 何かが倒れた人を襲っている――その異様な姿が目に飛び込んできた。


 セシリアは動揺しそして今まで追っていた影の正体に気づく。


 (つっ!?……人じゃない…)


 影がゆっくりと立ち上がる。闇の中から姿を現したそれは、緑色に光る皮膚、背に生えた不規則な形の翼、そして――赤い目。闇の中でもはっきりと光る、不気味で冷たい赤色。


 その目がセシリアを捉えた瞬間、足元の空気が一変した。


 魔物は、笑ったように牙を剥き出しにする。その笑みには、人間の持つ理性や感情の一片も感じられない。ただ本能的な捕食者の喜びだけが宿っていた。


 「嘘……魔物!?」


 暗闇の中で、緑色の皮膚、背に生える黒い翼、そして血のように赤く光る瞳がセシリアを捉える。


 ――逃げなきゃ。


 そう思った瞬間、魔物が牙を剥き出しにし、一歩、こちらへと近づいた。

足が震え、冷たい汗が背中を流れる。頭の中で何度も「逃げろ」と叫ぶが、身体が言うことを聞かない。それどころか、魔物が発する威圧的な気配に全身が硬直し、呼吸さえままならなかった。


 セシリアは慌てて魔力を練り上げようとしたが、恐怖と緊張で手元が狂い、魔法は発動しない。

 

 心臓が激しく脈打ち、視界がぐにゃりと歪むような感覚が足元から全身を這い上がる。


 死の気配がすぐそこに迫り、耐え切れず目をぎゅっと閉じた――その瞬間。


 「――ッ!」


 それはまるであの夜起きた時と同じように、空気を裂くような轟音が響いた。倒れかけたセシリアの身体を誰かが抱き寄せ、温もりが恐怖をかき消すように伝わってきた。

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