第二章〈月のものぐるひ〉7‐1 声を上げて泣き悲しみ


 三人で向かったのは、千代の時代の五條橋。いまは松原橋と名を変えた橋の東の袂である。


 橋の袂に立つと、加藤さんは袖に手を入れ、一通の手紙をつまみ上げた。


「見合いした後に、旦那からもろた文や」


 封筒から便箋を出し、大事そうに封筒を袂に落とす。


 紫さんが〈月のものぐるひ〉をファイルから引き抜き、謡いのような調子で声を張った。


「花のころは東山の木かげ、また月の夜は五条のはしのうへ――」


 その刹那、橋に落ちる月の光が蒼さを増した。


 川風に煽られて、ふわりと画紙が浮かび上がる。深月が見ているその前で、〈月のものぐるひ〉に描かれた文の紙から文字が離れ、螺旋状に空に舞い始める。

 と同時に、千代の着物が柔らかく煌きを放ち、静かに読経が始まった。


 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


 女が一人、蒼に包まれた橋を裸足で渡っていく。

 流水模様の衣を着た四十くらいの髪の長い女だが、瞳を凝らせばつと女の姿がぶれて、加藤さんの藤色の衣が見える気もする。


「夫人も視えるか」

 

 横で紫さんが囁いた。深月がうなずくと、嬉しそうに目を細める。


 そうこうするうちに、千代が橋の中程で立ち止まり、懐から手紙を出して、高らかに読み上げ始めた。


 だが、声は聞こえない。

 嘆き悲しむ声も。

 場に満ちているのは、ひたひたと沁みるような、声明の響きだけ。


 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶


 天高く上った月光が、紙一重に滲んで、藤色の衣を淡く照らしていた。

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