第16話
「尼崎がそこにいます!」
その声が響く。すると狙っている男性が驚いたように振り返り、そして走る。鷲島を筆頭に捜査員達が人々を掻き分けて外に出る。
「鷲島!お前は無理するな!下手すれば本当に死ぬぞ!」
「死ぬ前に尼崎を捕まえてやります!」
「あのバカ・・・!」
佐々川の制止も気にもとめずに走る。尼崎は黒いフード付きのコートを着ておりなるべく目立たない格好をしていた。尼崎は警察署を出ると歩行者信号が赤信号の横断歩道を渡る。当然車道側の信号は青なので五十キロ前後で車が通過していく。尼崎はそれでも構わないのか横断歩道を渡る。車が何台も急停車をして右にひだりに逸れていく。鷲島も多少轢かれても構わない覚悟で横断歩道を渡る。尼崎が横断歩道を渡りきったところで鷲島の左からクラクションと急ブレーキの甲高い音を鳴らしながら車が迫る。鷲島は身体を限界まで捻り、衝撃を和らげる。鈍い音と共に鷲島が身体は歩道に飛ばされる。
「痛っ・・・!」
「あぶねぇだろうが!死にたいのか!」
急停車した車の運転手が叫ぶが鷲島はそれを気にせずに尼崎を追う。尼崎は疲れたのか明らかに息があがっていた。鷲島はその目に正確に尼崎の姿を捉えながら走る。尼崎は歩道橋を上がっていき、後ろを見る。
「逃がすか!」
「あっ!」
鷲島に後ろからタックルを受け盛大に倒れる。鷲島は尼崎の体にしがみつきながら懐から手錠を取り出す。尼崎も必死に身体を動かして鷲島を振りほどこうとする。尼崎の蹴りが鷲島の腹に入り、鷲島は咳き込みながら手を離す。チャンスといわんばかりに立ち上がって逃げようとするが鷲島に足を掴まれ尼崎はバランスを崩して転ぶ。
「離せぇぇぇこの野郎ぉぉぉ!」
「離してたまるかクソ野郎ぉぉぉ!」
暴れる尼崎の顔に思い切り拳を叩き込む。尼崎は一瞬意識が飛んだのか頭をぐらつかせる。そして力が抜けた瞬間に歩道橋の柵と尼崎の手を手錠で繋ぐ。手錠が閉まる音がすると、鷲島は一気に息を吐いて歩道橋に寝転ぶ。遅れて佐々川が捜査員達を引き連れて上がってくる。
「鷲島!しっかりしろ!」
「佐々川さん・・・やりましたよ・・・」
力なく笑う鷲島を佐々川は泣きそうな顔で、しかし涙は流さず捜査員達に叫ぶ。
「尼崎を連行しろ!鷲島はすぐに治療を受けさせる!」
佐々川の指示に捜査員達は素早く尼崎を拘束する。鷲島は佐々川の叫びを聞きながら空を見る。曇りだった空は切れはじめ、隙間から青空が覗いていた。事件の終わりを告げるような青空に鷲島は安心して身体の力を抜く。野次馬の男性のスマホの天気予報は束の間の晴れの後、雨が降ることを予測していた。
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尼崎逮捕から数十分。熊谷警察署内は多くの人が走り回っていた。というのも今世間を騒がせている連続殺人犯が逮捕されたという情報を聞きつけてマスコミが大量に警察署に押し寄せてきており、その対応に追われていた。そこに尼崎の事情聴取等の業務も重なって署内は暴動が起きた時と同じくらいの騒がしさだった。鷲島がいる三階にもその声が届いていたが、今いる空間の雰囲気がその騒がしさを遮っていた。今いるのは取調室、佐々川と鷲島が机を挟んで向かい合っているのは鷲島との揉み合いでボロボロになった尼崎だ。写真で見た時よりやつれている様な気がしたがそれを気にしてやるほど鷲島は優しくなれなかった。鷲島はついにこの時が来たと思った。事件発生から既に四人が殺害され、遺体の激しい損傷、何よりその遺体の臓器を食べるという異常行動をする殺人犯が目の前にいる。この犯人をこの取調室に追い込むのにどれだけ必死になったことか。その努力と犯人への報いをここで一気に爆発させようとする。刑事の感かそれとも鷲島の態度に出ていたのか佐々川は鷲島を手で制して尼崎と向かい合うように座る。鷲島は少し不満そうな顔をしながらも犯人を前にして冷静さを欠いた今の自分ではしっかりとした取り調べができないとも自覚していたので大人しく引き下がる。佐々川は一旦目を伏せると、静かに息を吐きながら口を開く。
「尼崎、単刀直入に聞こうか。お前が四人を殺害した殺人犯・・・イヌ男か?」
「・・・・・・・・・」
「あくまで黙秘を続けるか・・・最初の被害者である三船千佳子に付きまとい挙句の果てに殺害・・・他の被害者も同様に殺害・・・そしてどういう訳か三船千佳子と碓氷保、阿比留岩雄に関しては虐待をしているという嘘を吹聴していた」
佐々川の言葉に一切反応しない。答える気が無いのか佐々川や鷲島とは一切目も合わせようとしない。そんな反応にしびれを切らした鷲島が身を乗り出して話す。
「状況証拠は出てるんだ・・・あんたのパソコンから遺体が腐らないように防腐剤の購入履歴、全ての被害者宅の近くの防犯カメラにあんたが映ってる。これでも言い逃れが出来るとでも?」
「何も話す気は無い・・・このまま俺を送検すればいい・・・そうすればこの事件は終わりだ。猟奇殺人鬼イヌ男とやらの異常殺人はな」
「そうか。一応動機も確認しとこう。お前、佐東の事が好きだったんだろ?」
「・・・?!」
「お前が勤めていた動物病院の人達が言っていたよ。いつもは何事にも無関心な尼崎さんが最近ある女性に惚れ込んでいるってな。佐東は猫を少し前まで飼っておりあんたの動物病院に通っていたそうだな」
「・・・それがなんだ・・・」
「だからあんたは佐東のカフェにストーカーの様に入り浸った。そこに来る人々と虐待を無くす会の人達がに対して勝手に恋路を邪魔したと思い込んで被害者を殺したのか!」
「違う!俺と彼女は両想いだ!だからストーカーもしてないしあいつらを恋敵なんて思ってない!」
鷲島の強い追求に尼崎も身を乗り出して叫ぶ。お互い掴みかかるくらいの勢いで睨み合う。
「確かに彼女のカフェには入り浸ったし、彼女と親しげに話すあの男にはムカついたけど・・・俺はただ力になってあげてただけ・・・彼氏として当然だろ?」
尼崎はそれだけ話すとまた黙り込んでしまう。この調子ではどんなに揺さぶりを掛けても話すことは無さそうだ。しかしそこを粘ってこその刑事、証拠は確実に尼崎が犯人であることを指し示していた。しかし鷲島は頭の片隅に気持ち悪い違和感を感じていた。その違和感はしばらくの取り調べの間、消えることは無かった。
一時間ほど経って取り調べは一旦中断された。多くの捜査員はこれから何時間もの取り調べを覚悟して各々英気を養う為に食事をしたり一服をしたりしていた。そんな中、鷲島は事件の概要が書かれたホワイトボードを見ていた。佐々川はコーヒーを片手に鷲島と同じホワイトボードを見る。
「何か気持ち悪いんですよね。でも証拠は確実に尼崎が犯人であることを指し示している」
「尼崎と被害者達の接点については確かに曖昧な部分がある・・・正直俺も実際のところどうなんだとは思っている。よく調べれば防犯カメラに映り込んでいたり、自分のパソコンから注文したものが履歴として残っていたり、被害者との繋がりが露呈しやすくなっていた。犯人としては不用心すぎる」
だとしても他に可能性はあまり考えられない。阿比留が三船千佳子と何やら話していたらしいがきっと虐待を無くす会についてのことだろう。しかしそれだと最後の被害者である石井楓に関しては虐待を無くす会とは関わりはなく、今まで虐待を無くす会と接点があった被害者達と無関係な石井楓を狙う理由として行動に一貫性がない。尼崎がもし三船千佳子のことが好きで、三船千佳子に近づくひとを恋路を邪魔したと思っての犯行なら石井楓も必ず虐待を無くす会との接点がなければおかしい。何より人の臓器を食べるという異常行動の動機もない。しかし証拠で動く警察としてはそれ以外に犯人を特定するものがないので尼崎から聞き出すしかない。何か他に接点はないか。虐待を無くす会以外に見落としてしまっているような接点は。他の捜査員達は送検されるのも時間の問題だろうと話す中、鷲島は一人捜査資料を読み漁る。佐々川は少しは休めよ、と言い残して鷲島の元を去る。尼崎の資料を見ると最終学歴は明界大学獣医学部出身と書かれていた。特に得るものは無いと思い資料を片付けようと近くのダンボールに入れようとする。その時、ダンボールの一番下にある資料があるのに気がついた。そのファイル名は「佐東菜摘に関する捜査資料」とか書かれていた。最初の被害者の関係者であるので念の為に調べておいたのかもしれない。何も無いだろうが何となく手を伸ばして資料を見る。生まれは一九九十年五月七日、鴻巣市、父親はまち工場の経営者、母親は専業主婦、父親は彼女が小学生の頃に倒産の後失踪、母親の欄を見た時鷲島の中で何かが貫く感覚に襲われた。
「母親は・・・死亡・・・死因は・・・・・・殺人・・・」
鷲島は資料を読み進める手を早める。資料に記された無機質な小さな活字がどんどん頭の中に入ってくる。読み進めていく度に何かが、違和感が繋がっていく。事件を通して気付かなかった、いや気付いていたはずなのにそれを認識するのを恐れていたのかもしれない。資料を読み進め、最後まで読み終えると鷲島は資料を机に投げて走り出す。佐々川はそれを見て何事かと鷲島の事を見るが止める間もなく鷲島は警察署を出ていく。佐々川は仕方ないやつだ、息を吐きながら鷲島が見ていた資料を見る。
「佐東菜摘さんの資料見ていたのか」
佐々川は手に取った流れで資料を開く。最初は流して読むだけだったが、次第に内容が流し読みできないものだと気付く。
「おい・・・・・・これはまさか・・・・・・」
父親は町工場の経営が悪くなった後失踪、母親はシングルマザーで育てていたが彼女が小学生の頃に死亡している。死亡原因は殺人、その被疑者の欄に特記事項としてある名前が書かれていた。
「被疑者・・・阿比留菜摘・・・・・・まさか・・・鴻巣市母親殺人事件の・・・・・・」
かつて小学生だった少女が、母親からの壮絶な虐待の後、母親を殺害してその肉を食べるという行動で世間を騒がせた平成の食人事件、鴻巣市母親殺人事件。佐東菜摘は虐待の被害者であり、同時に母親を殺した加害者だった。そしてその後の事について、阿比留菜摘は医療少年院に送られ精神鑑定を受け、結果は重度の愛着障害、依存性パーソナリティ障害と診断されていた。その後は医療少年院で治療を続けながら社会復帰を目指し、改名をして大学に通っていた。改名後の名前は佐東菜摘、最終学歴は明界大学医学部。入学年度から見て尼崎と同期だった。
「おい待てよ・・・・・・母親の父親・・・つまり佐東菜摘からみた母方の祖父は・・・・・・」
親族の欄に書かれていた祖父の欄には「阿比留岩雄」の名前が記載されていた。佐々川は資料を読んで、何故と思う。何故答えとも呼べる資料が近くにあったのに誰も目を通さなかったのか。誰も彼女の過去を見ておかしいと声を挙げなかったのか。いや、もしかしたら彼女の過去を見る前に追わなければいけない対象が出てきたから見る余裕がなかったのかもしれない。それは尼崎であり警察は事件のあらゆる場所にいた尼崎を無くす会犯人だと確定して捜査をしていた。しかしもし尼崎はただの共犯で本当の犯人は・・・・・・
「っ!鷲島!まさか!」
この資料を読んで、鷲島がとる行動はただ一つ。刑事として一番大事かもしれないことである自分の目で真実を確かめる。鷲島はそんな事をむかしの風習と馬鹿にせずに正直にやる男だった。そしてそれがどれだけのリスクを犯すことになるのか、それを冷静さを欠いた鷲島が判断出来るとは思えなかった。佐々川は強く机を叩くと複数人の捜査員に声をかけて走り出す。
「尼崎の取り調べは署長に任せます!」
「なっ!佐々川!お前どこに行くんだ!」
「とんでもない思い違いをしていたかもしれません・・・・・・それを確かめに行きます!」
「確かめに?!証拠は尼崎が犯人であることを確実に示しているんだ!これ以上の証拠はないし、これ以外の証拠もない!何か根拠はあるのか!」
そう叫ぶ署長を一瞥して佐々川もさけぶ。
「古いでしょうけど、刑事の感です!」
唖然とする署長を尻目に佐々川は警察署を勢いよく出ていく。佐々川はとんでもない思い違いをしていたかもしれない。そして今更気付いたところで手遅れかもしれない。もし佐々川と鷲島が見た資料が繋がっているのなら、事件の本質が変わってくる。ただの頭のおかしい殺人犯による殺人事件ではなく、ある人物の一つの計画だったとしたら。それも自分の命も賭けた計画だとしたら、この事件は想像以上に線が複雑に絡み合った事件なのかもしれない。いや、もしくは幾つもの偶然が重なったのかもしれない。
「鷲島・・・!」
全ての始まりは鴻巣市母親殺人事件。そこから十数年の時を経てこの猟奇殺人は起きたのか。人間の憎悪、闇、欲望が底無し沼の様に映し出された事件は最初から警察の手には負えなかったのかもしれない。だがここまで来たら引き返す訳にはいかない。これ以上の闇を生み出さないためにも。ふと佐々川は頭の中に浮かんだ疑問を口に出す。
「あの捜査資料、誰が作ったんだ?」
あれだけの衝撃的な事実が書かれた捜査資料が手元にあったのに見逃すはずがない。事件のことを調べ直した際に全ての捜査資料を見返している。見逃したとしても資料を作った捜査員は必ず事件に繋がる手がかりとして報告するはずだ。だが今まで気付くことは無かった。佐々川は嫌な予感が頭の中で過ぎるのを感じながら鷲島を追うように走る。
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