ふとこの話を蒸し返す
この話を持ち出したのが2022年4月で、今が2025年6月。まさか俺も蒸し返すとは思わんかった。けど、急につながったのだよね。
さて、一応命題から書き出そう。「自作を読んでもらったことへの感謝を述べるのに適切なのはお読み『いただき』か、お読み『くださり』か」という話だった。
このテーマについての展開は「いや、お読み『くださり』じゃねえの?」から「いうて『いただき』もありだな?」という、じゃあなんでお前この話立ち上げたんだよ状態になっていた。で、ここに今回、「腑に落ちたこと」があった。それを書き出しておきたい。
さて現在、俺はエピクテトス『提要』を読み進めている。ストア派の哲学者で、「自分にできることとできないことを切り分け、できることに集中しろ」と論じる人だ。この切り分け方がかなりえげつなくて毎日笑っている。ちなみに爆笑会場はこちら↓
https://kakuyomu.jp/works/16818622175614579342
で。
このエピクテトスおじさんが、こんなことを語っていた。
「思い出せ、なにがしかの饗宴において、そなたがなすべきことを。それは自身にお鉢が回ってきたときに、はじめて恭しく受け取ること、のみである。通り過ぎれば求めず、来ておらぬなら欲するべきではない。ただ、待つに如くことはない。」(『提要』15章)
これが、ものすごく「ストン」ときたわけである。何か。俺は「お読みくださる」ことを喜ぶが、特段には求めない。なので、「お読みいただけた、という結果」を「うやうやしく受け取る」。つまり状態として、「くださったものに喜ぶ」なのである。
対して「お読みいただき」とはどういう状況か。読み手に手を伸ばす。そして、結果を迎え入れる。なので「いただけた」になる。そして我がもとに引き寄せるのだ。
ちなみに、言うまでもないことなのだが、ここで書き手が読者の「下にいる」のは、ただの謙譲語的構造の話でしかない。別に書き手と読み手、どちらが上か、なんてことを問題にする気はない。敢えて問題にするとしたら書き手を上に据えたくなって炎上しちゃうので黙る。
まあなんだろうね、俺の中でエピクテトスの感覚はわりとはじめからあったようなのだ。つまり「お読みいただけることはこちらにどうにかなるわけでもないので、特段には望まない。もちろんお読みいただけたんなら嬉しい」。こういう感覚である。
では、一方で「読んでいただきたい、そのために努力する」。これはどうなのか? 素晴らしいことだ。だが「俺にはできない」。することの価値はわかるのだが、そのための努力をするのであれば、自分の萌えを消費していたい。そうなってしまう。
つまり、何だね、「お読みいただき」系の言説に対する感覚をもうちょい掘り下げると、「くそ、俺にできないことを平然とやってる! そこが悔しい妬ましい!」になってたんだろう。醜い心はどんどん吐露しちゃいましょうね。
じゃ、いまはどうなんでしょうね。よくわかんないです。いまやり始めてるのは「うるせえ環境がこっちに来い」みたいなめちゃくちゃ力技なんで。この荒業が実ったら爆笑、実らなくても魂の筋トレできてるので良し、である。
そして、やはりこう言うのだろう。
「お読みくださり、ありがとうございます」。
おそらく俺に「お読みいただき」とお礼を言える日は来ない。それでいいのだ。
「お読みいただき」の不思議 ヘツポツ斎 @s8ooo
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