第26話 上に立つ者の贖罪 1



忙しい日々の中、ジュリアンの元気がないことに、わたしは気がついた。


朝からぼんやりしている。水槽の中から出そうとしても、なかなか手に乗ってこない。食欲もないらしく、目の前でいくらスプーンを振ってみせても、飛びついて来ない。目の前に、生きたコオロギやミミズを放っても見向きもしない。


もしや、病気?

カエルが病気になったら、いったいどうしたらいいのだろう? モランシーには、カエル専門の獣医さんがいるのかしら?

苦しいくらいの不安が胸を穿つ。


思い起こせば、ジュリアンに生気がなくなったのは、スパルタノスのあの将軍と対峙してからだった気がする。それなのに、今まで気がつかなかったとは。


本当に毎日、わたしは忙しかった。

でも、そんなの、言い訳にならない。もっと早く気がつくべきだったのだ。ジュリアンが元気がないことに。だってもし、彼が病気だったら……。



「コルデリア」

ある日、思い切ったように、ジュリアンは言った。

「僕を、寝床にいれてくれないか。僕は、人間になりたい」


まずは、彼が病気じゃなかったことに安堵した。それから徐々に、言葉の内容が頭に沁み込んでいく。


……人間になりたい。


とうとう、この日が来たかと、わたしは思った。

覚悟はしていた。

ジュリアンは、ロタリンギアの王太子だ。お国の民が待っている。いつまでもカエルでいていい人ではない。


いつかこの日が来るのは、わかっていた。だから、手は打ってあった。前にイヲが、エリザベーヌは里下がりをしていると教えてくれたから、密かに男爵家の家令と連絡を取り、この日に備えていたのだ。

ジュリアンが人間に戻りたがった日の為に。


だって、全ては、呪文を言い間違えたわたしの責任なのだ。ジュリアンは、充分、苦しんだと思う。そろそろ、元の姿にもどしてやらなければならない。エリザベーヌのところへと、帰らせてあげなくちゃ。こんなに可憐なカエルだもの、冷静になれば、彼女だって彼の愛らしさに気がつくはずよ! そして、その後はもう、ジュリアンは美しい王子だ。エリザベーヌには、彼を拒絶する理由なんてない。


カエルのジュリアンは、それはそれは可愛いいけれど。いつまでも、手元に置いておきたいのだけれど。でもそれは、わたしの身勝手だ。ジュリアンには、ジュリアンの幸せがある。



ところが彼は、意外なことを言い出した。


「ついにスパルタノス帝国との戦闘が始まった。レメニー河の東側諸国は同盟を結んだが、相手は、強大な軍事帝国だ。そうやすやすと、やられはしないだろう。国境付近で、アルフレッドの部隊は苦戦を強いられていると聞く。君の父上の連隊も加勢に出掛けた。僕だけが、のうのうと、ここにいるわけにはいかない」


息が詰まった。


「あなたはカエルよ? 剣を持つこともできないし、銃を撃つこともできないわ!」

思わず叫んでしまった。カエルが戦争へ行く? とんでもない! 

残酷だと思ったが、あふれ出る言葉が止まらない。

「戦争に行ったって、あなたは、何もできないわ。殺されてしまうのがオチよ」


黒い艶やかな瞳が、わたしを見返した。


「それは、僕にもよくわかっている。今の僕では、カエルの歩兵隊の指揮を執るのがせいぜいだ。でもあいつら、統制が取れていないものだから、すぐに逃げ出してしまう。ロンウィ・ヴォルムス将軍と対決してみて、よくわかったよ。あの気迫。統率力。僕は、仲間のカエル達の撤退を止められなかった。でも、彼は違う。彼の兵士たちは、君ら姉妹の攻撃を受けても、たじろがなかった。今のままでは、僕は、彼に敵わない。スパルタノス軍の軍人にね!」


やっぱり!

ロンウィ・ヴォルムス。あいつが、きっかけなんだ。なんと罪深い将軍だろうと、わたしは思った。彼が、ジュリアンの闘争心に火を点けたのだ。穏やかで優しいカエルの生活を送っていたジュリアンに!

あんなやつ、たくさんのカエルに嫌われて、踏みつけにされて、どろどろよれよれになってしまえばいい!


……。

八つ当たりだということは、よくわかっていた。ジュリアンは、人間に戻してあげなくてはならない。麗しいロタリンギアの王太子に。でも……。


「今のままで充分よ。だってあなたは、わたしとフェーリアを助けてくれたわ!」

だが、強くジュリアンは否定した。

「いいや、違う。あの将軍を退避させたのは、君達だ」


「主にフェーリアの迫力ね」

うっかり言ってしまい、わたしははっとした。カエルの自尊心を傷つけてしまったのではないかしら?

慌てて付け加えた。

「あの時、わたしもフェーリアも、力を使い果たしていたわ! あなたが来てくれなかったら、敵の銃撃で、わたしもフェーリアもハチの巣になっていたに違いないわ!」


さっとジュリアンの顔が青ざめた。つまり、カエルの顔が、もっと青くなった。

「ああ、コルデリア! 恐ろしいことを言わないでくれ!」


「フェーリアの力が甦るまでの間、あなたは、時間稼ぎをしてくれたのよ!」

言ってから、また、しまった、と思った。

ジュリアンは命がけで敵の将軍に立ち向かって行ったのに、「時間稼ぎ」に過ぎないとは、なんてひどいことを……。



静かに、ジュリアンは首を横に振った。


「コルデリア。僕は、戦わなくてはならない。それが、王家に生まれた者の宿命だ。大勢の民の上に立つ者の義務なのだ。戦わずして、生き続けるわけにはいかない。お願いだ、コルデリア。僕を人間の姿に戻しておくれ」


これがあの、真実の愛がどうのこうのと言っていたジュリアンだろうか。

彼はまさに、王族だった。

イヲが指摘した、お脳オツムの軽さはこの際問題ではない。国の為、民の為に己を犠牲にできる勇気こそが、真の王族の証なのだ。

わたしはそれに応えなければならない。どれほど自分を犠牲にしようと、たとえ心を踏みにじられようと。


「エリザベーヌとは、すぐに連絡が取れるようになっているわ」

震える声でわたしは言った。

「レメニー河をツーランド山脈まで遡ってからドン河に出る河の旅は、時間がかかりすぎるわ。あなたは、そのルートでモランシーまで来たわけだけど。それより陸路を選ぶといいと思うの。ズンダモチを貸してあげる。ズンダモチはわたしの親友だけど、返すのはいつでもいいわ」


エリザベーヌとの幸せの只中にいるジュリアンに、わざわざ馬を返しに来て欲しくなかった。というか、そんな彼を、見たくもなかった。


「なぜここに、エリザベーヌが?」

不思議そうにジュリアンが問うた。


「なぜ? だって……」

言いたくない。でも、きちんと見つめなくちゃ。見つめて、認めるのよ。真実の愛の力を。

「彼女は、あなたを人間の姿に戻せるたった一人の女性だから」


「コルデリア! ああ、なんてことだ! 君は誤解している!」

机の上に、だらりと投げ出してあったわたしの薬指の先に、ジュリアンはよじ登った。こんな時だけど、ひんやりもっちりしたお腹の感触が心地いい。


「僕が寝たいのは、君だ! 君なんだ、コルデリア!」


「寝たい?」

そのあまりの直截な言い方に、思わずわたしは頬を赤らめた。


「僕を人の姿に戻すことができるのは、君なんだよ、コルデリア! 君だけが、僕を元の姿に戻すことができるんだ!」


「でも、それは、あなた愛している人でなければいけないはずよ? わたしが愛している、」


ではなくて、と言いそうになって、わたしは慌てた。危ういところで言葉を入れ替えた。


「わたしが愛しているでなくて」


すうーっと、ジュリアンの顔から表情が消えた。

暫く彼は無言だった。この後、何と言っていいかわからず、わたしも黙っている。


「それでいいよ」

やがてジュリアンが口を開いた。

「僕は、君のカエルだ。ただ、僕にかけられた魔法を解くには、コルデリア、君でなくちゃ、ダメなんだ。僕を、君のベッドに入れておくれ。気持ちが悪いかもしれないけど、どうか少しだけ我慢してほしい。なるべく早く済ませるから」


気持ち悪い……。

その言葉が、ジュリアンが母国で受けてきた侮辱の数々を物語っていた。彼の恋人、愛しいエリザベーヌは、彼女のベッドに入り込もうとしたジュリアンを、壁に叩きつけたと言う。寝室の控えの間には、証人になる為に、大勢の貴賓たちが集まっていたというのに、その彼らの目の前で。


気の毒なジュリアン。

彼がわたしに執着するわけは、わたしがカエルを嫌がらないからだ。むしろ、積極的に好きだけど。

少なくともわたしは、彼を、壁に叩きつけたりしない。

だからだ。

だから……

……早く済ませる?

再びわたしは頬を赤らめた。








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