第5話 弾む会話で酔いに惑う
大声と無縁の人生だったとは言わないが、大声と積極性が結びつかない人生を歩んできたという自覚はあった。人生の隘路を歩む中で生じる不都合に一々叫んでもいられないというもので、だから己の喉が然るべき時に然るべき声量を持って震えてくれたことには少しの驚きを覚えると共に感心を感じた。というか今思い返せば、叫びと積極性が結びつく以前に日常会話と積極性が結びついた記憶も無い。掘り下げて辿り着く灰色の生活の中で常に彩りを添えてくれていた酒でさえ私の話相手になってくれなかったのだ。与える無償の愛に見返りを求める質ではないが、少なくとも与えた愛情が軌跡を残す思い出の形は求めたいもので、それを感情知らぬ酒に求めていることに気づいた私の胸中には、更なる驚愕が過っていった。
なんて、出来るだけ自分を客観視することで得られる現実逃避も、この小説より奇なる圧倒的な現実感の無さの前では全くの無意味なものであり、俯瞰して見た現状の蓋然性の前では裸足という客観的同一性を宿す私すら霞ませるには十分なものなものなのだ。
色々と回りくどく言葉を羅列してきたが、つまるところ私の言いたいことはただ一つ。
彼女は一体何者なんだ。
「……」
「どうかされましたか?」
何も言えないでいる私に小首をかしげて彼女が訊いてくる。その可愛らしい所作も今の私には人間の心理を分析した悪魔が見せる幻影に思えてならないのだが、当の本人はそんなことは気にせずに本当に不思議そうに疑問符を浮かべて見せた。
「えっと……あのぉ……っすぅ」
口を開くが、上手いこと言葉が出てこない。別に言葉を失っているわけではない。ただ、あまりある感情が運んでくる数多のセリフたちが口元までの道中で迷子になっているだけだ。大海を埋め尽くすほどの言葉の中から、今発するに相応しい語を探ろうとしても、それは砂上に落ちた米粒を見つけるようなもので、掻き寄せる手が震えていることを鑑みても、中身の無い空虚な息が漏れるだけの現状は不可抗力の産物と言える。
「とりあえず……その手に持っている手を元に戻してくれる……?」
「手ですか? 別に構いませんが」
しどろもどろに彼女にお願いすれば、彼女は左手に持っていた右手を元の場所に戻し始める。ぎゅっきゅっ、と軋む音が夜闇に一度響けば、瞬きの間に右手は復元されていった。
「えーっと、随分特殊な人体構造をしてるんだね。最近の若者は皆そうなのかい?」
「最近の若者については知りませんね。あ、でも師が言ってました」
「『普通、人間は腕が取れるようには出来ていないから、間違っても人前で関節を切断してはいけないよ』と」そう言って何処か得意げに微笑みを浮かべた彼女は、可動域を確かめる様に右手を握っては開いている。
「つまり、君の瞳には私は人間に映っていないということか」
「いいえ、そのようなことは。私の眼にはあなたは人間に映っていますよ」
「……では、何故目の前で腕を取って見せたので……?」
「なんとなくです」
「なんとなくか」
少し前にも彼女がそう言って真意を隠していたことを思い出し、「本当は?」と重ねて訊いてみる。
「……酔いました」
「あの一口で?」
「はい」
「喋り上戸だったか」
「どうやらそうみたいです。でも、もう大丈夫」
彼女はそう言って、視線を虚空へと向けた。
「酔いも醒めてきました」
私は瓶の栓を開け、一思いに酒を煽る。焼けるような刺激が喉元を過ぎれば、荒れた精神は一瞬にして凪いでいき、落ち着いた呼吸で息を大きく吸って吐くと再び彼女に向き直る。
「それで、本題」
「はい」
「あなたは……何者?」
人間離れした整った容姿を持つ彼女には、人間にあるべき血が通っていなかった。彼女が切断した右手の切断面からは一滴の血が流れることも無く、そしてそんな彼女は痛がる素振りも見せない。手が切断された瞬間に反射的に酒の瓶に手を伸ばし構えた私は、平然とこちらを見据える彼女を認識すると、いよいよ彼女が人間ではないという事を信じざる負えなくなった。
では、一体彼女が何者なのか。精神を安定させる為に酒を飲み、引き換えに思考力を失った脳では答えを導き出すことは出来ない。
故に安易に答えに手を伸ばした私に、彼女は変わらずの無表情で口を開いた。
「私は人形です。この世界で最も優れた師が造形した、ただ一つの」
「最も優れた師……」
先程彼女が発した「人形師」という単語が脳裏をよぎる。
「前提として聞いておくけど、あなたの言っていることって言葉通りに受け取っていいもの?」
「含みはありません。私は人間ではないので」
「じゃあ、本当の本当にあなたは人間ではないんだ」
「私は人形です」
この身は信じろと言われて信じる能無しでは無いが、信じざる負えない現実を前に現実逃避を重ねるほど愚かでもない。そんな冷静な判断で彼女の言葉の真意を測ろうとしても、そこからは文面以上の意味は推し量れず、結局混乱と納得の狭間を行き来しながら、私はもう一度手に持つ酒を煽った。
「もしかして、さっき言ってた『隕石が降ってくるから、その調査に来た』っていうのも本当だったりするのか?」
それはずっと頭の片隅にあった彼女の発言だ。何をしにここへ、という質問に対し彼女はそう答えてみせた。
最初こそ、信憑性の欠片も無いその言い分に耳を貸すことはしなかったが、今の彼女を見るとその考えも変わってくる。
「正確には『隕石のような何か』です。その正体は私には分かりません」
彼女は頭上を見上げている。その月明かりを受けて涼しげな艶を帯びる黒い瞳は、遥か先を見定めるようで、その横顔を見た私はいよいよ彼女の核心に触れる覚悟を決めた。
「……詳しく聞かせてくれないか。その、隕石のような何かについて」
臀部をずらし、彼女の方へ体を向けると、裸足の足で胡坐を掻く。
神秘的な夜に、神秘的な人形と、神秘的な会話をする。私は以前に似たような感覚を覚えたことがあったが、あれは何だったか……そうだ、思い出した。初めてこの『酒― 神造酒オルタ―』に出会った時に感じた、あの未知への探求心と
「分かりました。星辰が導く縁に従い、あなたの目覚めを私が担い、その真実の一片を語りましょう」
そう言って、彼女は見上げていた視線を此方へ向けると、自らの胸の前で祈るように両手を合わせた。
「あなたは、超次元領域からの使者、特定並行管理区における
そうして彼女の口から放たれた単語は何一つ聞き覚えの無い暗号のようで、私は「ふっ」と知ったような息を漏らしながら次にはこう返していた。
「……なにそれ」
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