第25話 魔人ブラッドベル
「こっちだ。もっと持ってこい。ありったけだ」
守備兵の隊長が声を張り上げている。
魔人の恐怖に耐え、街に残っていた兵たちだ。その動きはやはり迅速だった。
たちまち館の庭にはいくつもの篝火が焚かれ、昼間のような明るさとなった。
だが、そこへ吹き付ける、黒い霧のような瘴気。
「来たな」
ラクレウスが剣を構えた。
「あれか」
その視線の先に、ユリウスも二体の魔人の姿を認めた。
「あれは見たところ、“踊り手”と“鷲”だな」
事前に仕入れていた魔人の名を、ユリウスは口にする。
ゆっくりと近付いてくる魔人の内の一体は、四本ある足を不規則に忙しなく動かしながら前進してくる。“踊り手”と言われてみれば、なるほど、確かにそれが踊りのステップのように見えなくもなかった。
もう一体は背中から生えた羽のようなものと、篝火を反射して光る猛禽類のような目が、確かに鷲を連想させた。
だが、それはあくまで人間の付けた名前だ。
実際の能力は分からぬ。
「まだ二体しか姿が見えぬ」
ラクレウスは言った。
「いい機会だ。残りの二体が来る前に、仕留めよう」
「うむ」
ユリウスは頷くと、二人の後ろで怯えたように魔人を見ている兵たちに声をかける。
「もし残りの二体が出てきたら、声を上げて伝えよ。おそらく近くにいる」
「分かりました」
年長の兵が頷くのを見て、ユリウスも剣を構えた。
魔人がこちらに近付いてくるのを悠長に待つつもりはなかった。
合図もしなかったが、二人の動き出しは全く同時だった。
ユリウスとラクレウスは、魔人たちに向かって一直線に駆けた。
この時ばかりは、ユリウスも魔人と言葉を交わすつもりはなかった。
ユリウスは“踊り手”に、ラクレウスは“鷲”に。
駆け寄ってくるユリウスを見て、“踊り手”は立ち止まった。
その場で、四本の足が奇妙なステップを踏む。
次の瞬間、ユリウスはとっさに捻った身体を地面に投げ出した。
“踊り手”の足の一本が触手のように伸びて、さっきまでユリウスのいた場所の地面を抉っていた。
たたたっ、と“踊り手”がまたステップを踏む。
跳ね起きたユリウスは、間髪入れずに伸びてきた次の足を剣で受け止めた。
ただの蹴りではない。まるで岩でもぶつけられたかのような衝撃。
だがユリウスの鍛え抜かれた身体はそれに耐えた。
むしろ力を込めて、その足を押し返す。
この程度の攻撃で、騎士が討てると思ったか。
そのまま体勢を低くしてユリウスは“踊り手”に突っ込んだ。
忙しなく動く四本の足が次々に伸びてくるが、一本をかわしざまにもう一本を斬り落とす。
もう“踊り手”はユリウスの間合いの内だった。
魔人にしては珍しく、女の顔をしていた。
甲高い声で何か叫ぼうとするのを皆まで言わせず、ユリウスはその首を斬り落とした。
胸にとどめの一撃を与えてからラクレウスを振り返ると、そちらでも“鷲”の翼が無残に散るところだった。
どのような能力を持った魔人だったのか、ユリウスには知る由もなかったが、ラクレウスは眉一つ動かさず、“鷲”を斬り伏せていた。
やはり、強い。
改めてその強さに感服する。
ユリウスのように地面に転がるようなこともなかった。ラクレウスは真正面から“鷲”と対峙し、たちまちのうちに勝負を決めたようだった。
「さすが」
そう声をかけると、ラクレウスも微かに笑った。
「貴公こそ」
その時だった。
「来ました!」
背後から悲鳴のような兵士の声が上がった。
「あれを!」
兵士の指差した先に、一人の騎士がいた。
長身に、燃えるような赤い髪。黒い瘴気に包まれた右腕が、握る剣と一体化してしまっていた。おそらく死すその時まで剣を離さなかったのであろう。ユリウスの胸は痛んだ。
「ブラッドベル」
ラクレウスが呻くように言った。
「来たか」
「ラクレウス殿」
ユリウスは低い声でラクレウスを呼ぶ。
「貴公がやるということでいいのだな」
「うむ」
ラクレウスは頷いた。
「私がやらねばなるまい」
「もし本当に気乗りがせぬのなら」
ユリウスが言いかけた時だった。
背後の兵たちの間で、悲鳴が上がった。
「魔人が!」
振り返ったユリウスは、兵士たちの中から最後の魔人が姿を現すのを見て、目を見張った。
「あれは“亀”だ。背後に回られたか」
背中に亀の甲羅を思わせる外殻を持つその魔人は、どうやら突如地中から現れたようであった。
亀ではなく、モグラであったか。
ユリウスは舌打ちする。
すでにその鋭い爪で、二人の兵士が血煙とともに倒されていた。
それ以上、させてなるか。
ユリウスは“亀”に向かって走った。
「ラクレウス殿、ブラッドベルは貴公に任せる。私は“亀”を」
「頼む」
そう答えたラクレウスは剣を構えたまま、“亀”を振り返ろうともしなかった。近付いてくるブラッドベルをじっと見据えていた。
シエラの騎士の始末は、シエラの騎士が。
ユリウスはラクレウスの言葉を思い出す。
今は、ラクレウス殿をこの戦いに集中させてやることこそが私の任務。
そう心に決め、ユリウスは兵たちを襲う“亀”に向かって駆けた。
右腕を斬り飛ばされた“亀”が、地中に逃げ込もうとする。
「逃がさぬ」
ユリウスは両腕で外殻を掴むと、全身の力を込めて“亀”を引きずり出した。
長身とはいえ、細身に見えるユリウスのどこにそんな力が隠されているのか。見守っていた兵たちは目を見張った。
苦し紛れに“亀”が振るった左腕をかわすと、ユリウスは剣をその首筋に叩き込んだ。
岩を砕くような音とともに“亀”の首が宙を舞うと、兵たちから歓声が上がる。
ユリウスは息を一つつくと、ラクレウスとブラッドベルを見た。
二人は激しく切り結んでいた。
剣と剣のぶつかる音が響き、立てる火花が闇に煌めく。
ラクレウスの荒い息遣いが、ユリウスにも聞こえた。
一方のブラッドベルは、息を切らす様子が全く見えない。
ユリウスにも見覚えのある顔だった。だが、謹厳そうな顔が、今は邪悪に歪んでいた。
茶色く濁った瞳。奇妙にねじ曲がった剣。
それは、生前の姿を知っている者であればあるほど、正視に耐えない姿だった。
その剣の腕は衰えていない。そればかりか、無尽蔵の体力と魔人としての能力までもが加わっている。
そういえば、とユリウスは思い出す。
ブラッドベルはユリウスの見た武術大会の試合でも、剣筋はよかったものの、長期戦に持ち込まれて敗れていた。持久力がなかったのだ。
つまり、今の魔人化したブラッドベルは最大の弱点を克服した状態ということだ。
鋭い打ち込みを、いつまでも続けることができる。
さらに、剣と一体化した右腕はもとより、ブラッドベルの左腕も異形と化していた。
二の腕の辺りから、長く鋭い爪のようなものが二本伸びていて、それが鞭のようにしなってラクレウスを襲うのだ。
剣だけでも難敵だというのに、あの二本の爪。あれは厄介だ。
ユリウスは“亀”の死骸から離れ、二人に近付いた。
ラクレウスは、決して自分からユリウスに助けを求めはしないだろう。
だからいざとなれば、ユリウスはラクレウスの誇りを傷つけてでも己の判断で助けに飛び込むつもりでいた。
しかし、目の前で二人の戦いを見て、ユリウスは改めて己の好敵手の剣技に舌を巻いた。
無尽蔵の体力で打ち込んでくるブラッドベルの剣と、別方向から伸びてくる二本の爪。
ラクレウスはそれを全て危なげなくさばきながら、徐々に自分の得意な状況に持ち込んでいた。
ブラッドベルの体勢が何度も崩れ、ラクレウスの姿勢は盤石なままで一向に崩れない。
やがて、決着の時が来た。
左腕から伸びた爪を弾き返したラクレウスの剣は、返す一撃でブラッドベルの胸を深々と貫いた。
「見事」
思わずユリウスは呟く。
無意識にそう声が出るほどの強さ。ラクレウスはまたさらに腕を上げていた。
ラクレウスが、なおも立ったままのブラッドベルの胸から剣を引き抜く。
「……なぜだ」
ブラッドベルの声。
ブラッドベルはまるで生前の彼に戻ったかのようにそう呟いた。
「なぜ、私が貴公と戦っているのだ。ラクレウス。魔人は、どうした」
「ブラッドベル」
ラクレウスは悲しそうにブラッドベルの顔を見た。
「貴公の戦いは終わったのだ」
「なに」
訝し気にラクレウスを見たブラッドベルは、やがて、ああ、と微笑んだ。哀しい笑顔だった。
「そうか。そういうことか。私は」
「貴公は勇敢だった」
ラクレウスは言った。
「シエラの誉れだ。胸を張って、逝くがいい」
「そうか。貴公が止めてくれたのか」
ブラッドベルは言った。
「恩に着る。取り返しのつかないことをするところであった」
その言葉にラクレウスは辛そうに顔を歪める。
だが、ユリウスは見た。
ブラッドベルの左腕の二本の爪が音もなく伸びるのを。
そして、それがラクレウスに向かって突き出されるのを。
「ラクレウス!」
ユリウスは叫んで駆け寄りながら、剣を伸ばした。
伸びた爪の一本はその剣で弾いた。だが、もう一本は。
身体で止めるしかない。
ユリウスの胸にもう一本の爪が突き刺さる。
「ユリウス殿!」
ラクレウスの声。
「ラクレウス」
ブラッドベルが悲痛な声を上げた。
「早く、とどめを。もう私には自分が止められぬ」
ラクレウスの顔が歪む。
「シエラの騎士の始末は、シエラの騎士が」
ユリウスはそう叫んだ。
「ラクレウス殿。シエラ第一の騎士たる貴公の役目だ」
「おう」
ラクレウスは自分の気持ちを振り切るように吼えた。
「許せ、ブラッドベル」
ラクレウスの剣が一閃した。ブラッドベルは人とは違う色の血を噴き出して倒れる。
「許しを請うのは、私の方だ」
最期にブラッドベルはそう呟いた。
「許せ、ラクレウス。騎士の道をともに歩めなかった私を」
それを最後に、瘴気が晴れていく。
魔人ブラッドベルは、死んだ。
それだけ見届けると、ユリウスは地面に崩れ落ちた。
ブラッドベルの爪は、鎧を貫き、ユリウスの胸を突き刺していた。
「ユリウス殿!」
ラクレウスの声が聞こえる。
「私は大丈夫だ」
ユリウスは答えた。
「この程度で」
どうにかなる私ではない。
そう言おうとしたが、そのまま意識は途切れた。
次にユリウスが目覚めたのは、見知らぬ一室のベッドの上だった。
ああ、僥倖であった。どうやら魔人にはならずに済んだようだ、とユリウスは考えて、窓から注ぐ日の光に目を細めた。
痛みをこらえて身体を起こそうとして、気付く。
ベッドの傍らの椅子に座り、うとうとと眠っている女性。
その華奢な容貌に、見覚えがあった。
どうして。
その疑問が最初に来た。
こんな無様な姿を見られてしまった。
その動揺が次に来た。
なぜ、こんなところに貴女が。
ユリウスは上半身を起こしかけたままの体勢で、その女性を見つめた。
自分の目が信じられなかった。
疲れ切った様子で、うとうとと居眠りをしている華奢な女性。
目の前にこの女性がいることが、現実とは思えなかった。
だがやはり彼女は、ユリウスの文通相手、カタリーナ嬢に相違なかった。
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