2 少女は黄昏の夢に横たわる

   三



 あの日以降、私は周囲の空気に敏感になった。

 小学校来の親友に対しては「バイトしていることを先生に言ったら絶交だ」と脅せば良かったが、大御名おおみなに関しては、そんなわけにはいかなかったので、私は、彼がいつ先生にバラしてしまうか、気が気でなかった。学校にいる間中、要警戒人物として大御名の姿を眼で追うようになり、友人たちから変な勘繰りをされたほどだ。

 だが私の予想に反して、何日経っても、大御名はおろか、他の友人や教師すらも、私がバイトをしていることに言及してくることはなかった。

 どうやら、彼は本当に約束を守ってくれているらしい。

 大御名もわざわざあのことで話しかけてくることはない。しかし時おり、彼は何か言いたそうな顔をして、私をチラチラと見てくることがある。

 そんな時は、さっさと立ち去るに限る。私を引き留めてひと悶着起こそうとするほど、彼は積極的な性格ではなかったので、彼が何か言ってくる前にさっさと退散してしまえば、それ以上彼が関わってくることはない。それが私なりの彼への対処法だった。


 一週間が経った今日。帰りのホームルームが終わると、私はさっさと教室を後にする。

 今日は、居酒屋のバイトの後に、客引きのバイトがある。こういう日は、仕事が終わるのが遅くなるので、仮眠をとってからバイトに向かうことにしていた。

 仮眠を取るのは、いつも図書館の隅の席だ。机に勉強道具を散らしておけば、誰も仮眠を咎めることはない。今日もそうしようと、図書館のガラス扉に手をかけて――はた、と気づいた。ガラス越しの貸し出しカウンターに、大御名の姿がある。そういえば彼は図書委員だったか。こんな日にかぎって、彼が貸し出し係であるらしい。

 これでは、足を運ぶに運べない。彼を避けている手前、ほとんど二人きりになるなんて気まずいし、彼が何を言ってくるか分からない。

 図書館で仮眠をとるという選択肢は、カウンターの中に彼の姿を見た瞬間に、消え去った。

 踵を返し、校内をうろついていると、ふと窓の景色が目に入った。

 生憎と、今日は天気が良く、外も温かい。これなら、どこか公園のベンチで仮眠をとるのも良いかもしれない。

 そう思い立った私は、学校からいくらか離れた、小さな公園に移動することにした。


 目当ての公園は、学校から十分ほど歩いた場所にある。周辺は静かな住宅街で、その中に、取り残されたようにぽつんと、小さく寂れた公園が口を開けていた。

 公園の入口の生垣には、ノバラ公園、と書かれた錆びた看板が立てられていた。その看板がなければ、ここが公園だとは分からないだろう。

 遊具という遊具はなく、砂場だけがちょこんと、申し訳程度に、公園の中央にはめられている。たった一つ置かれたベンチは、元は青いペンキが塗られていたのだろうが、ほとんど剥げてしまっていて、ただの古ぼけたベンチになっている。

 こんな公園なので、子供の姿一つ見えない。だが、仮眠をとりたいだけの私には、好都合だった。

 ベンチの砂埃を払い、腰を下ろす。頭上には、隣家からはみ出した林檎の木が、影を作っていた。日除けにはおあつらえ向きだ。

 鞄を枕に、カーディガンを掛布にして、横になる。


 そのままぼんやりと公園を眺めていると、そよそよと吹いた初夏の風が、ささやかな生垣をカサカサと揺らした。少し遅れて、木漏れ日が葉擦れの音と共に揺れる。昼と夕の狭間の日差しが、気だるげに辺りを照らしていた。

 まるで日常から離れたような光景に、穏やかな気持ちになる。

 凪いだ気持ちの中ふと思い出されたのは、先日の大御名とのやりとりだった。


『心配だよ』


 どうして、今、彼のことを思い出したのだろう。

 「そういえば」という突発的な思い付きは、当人にコントロールできるものではないので、まったく「何故?」と疑問に思うより他にない。

 あの時彼は、「心配だ」と言っただけだった。

 他の友人たちのように「バイトをやめろ」だとか、「校則違反だ」とか、「親が心配する」だとかは言及しなかった。ただ彼は「夜道を一人で歩くのは危ない」と言ったのだ。

 あの時はついつい頭に血が上ってしまっていたので、考えが及ばなかったけれど、彼はただ単純に、私の身を案じていただけだった。もしかしたら彼は、私がこれまで遭遇した他の人たち――偽善者らしい人たちとは違うのかもしれない。


 ――だけど、どうして?

 それが重要だ。どうして大御名が、私を心配してくれるのか、その理由が分からない。どうして彼は、私を心配することができたのだろう。

 彼が転校してきたのは四月の頭だったので、そろそろ半月になる。彼の新しい学校生活は、まだまだ分からないことだらけのはずだ。周囲に馴染むので精いっぱいのはずなのに、どうして知り合って間もない私のことなど、気にかけてくれたのだろう。


 ――私なら、そんなことは出来ない。

 もし私が大御名の立場で、夜道でいかにもバイトをしている様子のクラスメイトを見かけたとしても、知らんぷりを決め込むに違いない。相手に心配の言葉をかけられるほどに、相手のことを知らないし、思いやりもない。

 もしかして私に気があるのでは……と一瞬考えたが、すぐに馬鹿らしくなって一蹴した。

 ここ一週間、彼を観察してみて分かったことがある。彼は「大変なお人好し」であった。

 人の嫌がる役割を進んでやったり、人が困っていたら手伝いを申し出たり……。例えばグループワークの発表では、大御名がいる班では、必ずと言って良いほど彼が発表者になる。この間は、委員会の仕事を溜めこんでいる生徒の手伝いを買って出ている姿も見た。

 その甲斐あってか、彼は今、クラスの中心になりつつある。担任の信頼も厚く、クラスメイトすらも新参者の彼を信頼している。まだ転入してきて間もないのに、学級便りやレクリエーション係を任されたりして。私からすれば、ただ人の好さに付け込まれて、仕事を押し付けられているだけにしか見えないのだが。それでも、転入早々にして教師やクラスメイトたちの信頼を獲得した大御名には、一目置かざるを得ない。

 しかし不思議には思う。一体彼は、何のためにそんなことをしているのだろう。手っ取り早く周囲に溶け込むための、彼なりの処世術なのだろうか。それとも、厄介事を押し付けられてでも、他人に良く見られたいと言うのだろうか。――それか、ただ単に真性のお人好しなだけだろうか。

 いずれにせよ、大御名はとんだ聖人君子だ。彼の人助けが真心からのものであれ、作為的なものであれ、誰かのために動くことができるその姿勢には、尊敬すらする。


 ――私のことも、彼の慈善事業の一環なのだろうか。

 困っているクラスメイトに「どうしたの」と寄り添うのが、彼にとって当然のことであるように、私への心配も、彼にとっては当たり前の、数ある善行の一つに過ぎないのだろうか。

 もしそうだとしたら、少しの寂しさを感じる。私は別に「特別」などではなく、彼にとって数多の善行うちの一つなのかもしれない、と。だがきっと、それが正解なのだろう。


 ――もうやめよう、こんな不毛なことを考えるのは。

 考えても分からない他人の本心に思いを馳せるなんて、なんの意味もないことだ。

 あの時の心配の言葉は、彼の数多ある慈善活動のうちの一つだった――そう結論づけ、それ以上このことに思考を割くのはやめた。もし彼の本心を知った時に、自分がひどく傷つくことがないように、赤っ恥をかかないように、一番最悪な答えを自ら進んで享受する。

 キシリ、と胸が軋む。

 人の善意を疑う卑しさと、素直に善意を受け取れない根性と、それらの虚しさ。痛む胸から逃れるように、私は、ゆっくりと瞼を閉ざし、眠りに落ちることに集中した。






 そよそよ、そよそよ


 吹き通す風に、私はふと目を覚ます。最初に飛び込んできたのは、白い木漏れ日。意識が上向くにつれて、感覚器官が周囲の様子を拾っていく。

 気が付くと、私は見知らぬ草むらに寝ころんでいた。



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