第620話

 光が胸を突き抜ける。

 斥力を、熱を、破壊力を付与された魔術の弾丸は人体を容易に貫通し、肋骨を抉り、背中まで通る綺麗な穴を開けた。


 「──、ぁ」

 「は──、……さいっあく」


 二人は重なるように地面に倒れた。

 ノアがフィリップを背に庇うように──いや、背に庇った結果、“冒涜者”を狙った魔術に貫かれて。


 「咄嗟とはいえミスったなぁ……。ヘレナ先輩で無理だったんだし、そりゃ無理だよね。最悪すぎ。無駄死にじゃん……」


 願望に呑まれていた時よりも弱々しい、涙すら枯れたような声だった。

 

 そりゃあそうだ。

 彼女の胸にはコイン大の穴が開き、心臓の内容物が溢れ出ている。拍動のリズムなんか関係なく、命が刻々と目減りしている。


 だが、無駄なんてことはない。


 人類最高の魔術師の魔力障壁と魔術耐性は、天使の一撃を僅かに、しかし確かに逸らしてみせた。

 本来はフィリップの脳幹をブチ抜き、断末魔すら許さず即死させる一撃は心臓の一部と片肺に穴を開けるに留まった。


 カウントダウンは始まっている。タイムリミットはすぐそこだ。

 痙攣する心臓が脳に血液を送れなくなり、脳機能が完全停止するまで約3分。意識喪失まではもっと短い。


 ──問題ない。


 ノアのお陰で、まだ声は出る。

 片肺貫通、気道を上ってきた血が鉄の味と共に口から流れ、ゴボゴボとノイズが混じるが、まだ言葉を発せる。


 まだ口が動く。声が出る。


 だったら──自分の足で走り、自ら剣を持つ必要などない。


 フィリップはちょうど胸元にあったノアの目元を覆う。

 彼女はまだ戦意を持っていたが、視界を遮る手を振り払うだけの力は残っていなかった。


 「いあ──」


 喉の奥で血が泡立ち、口の端から垂れるのに構わず、囁く。


 森の外にイライザがいる。

 胸には、たったいま自分を庇って撃たれた友人がいる。


 だが、自分が死ねば、ルキアとステラの心に大きな傷を残してしまう。発狂か自死か、どんな結末を辿るかは知らない。

 それは自分自身も同じことだ。死後、自分にどんな末路が待っているのか──。


 ──そんなことは全部、どうでもよかった。


 

 胸から入って心臓と肺の一部を抉り背中に貫けた傷が、とても痛い。灰の中に液体が溜まる感覚、気道を塞がれる感覚、溺水の窒息感。なにもかもが、とにかく気に障る。


 もういいだろう。

 よく頑張っただろう。よく耐え、我慢しただろう。、とは言わない。それさえも、もはやどうでもいい。


 もう──全部消し飛ばしてしまおう。


 「──フィリップ君」

 「い、あ──?」


 ふと、フィリップは気が付いた。

 一体いつからか。思考を遡ればその時点から、撃たれ、ノアに押し倒される形で倒れた時には、もう既に。


 いつの間にか、或いはずっと、フィリップの頭はマザーの膝に預けられていた。


 「……痛い?」

 「……げほっ。……まあ、胸に穴が開いてるので。放置したら……普通に、死にます」


 女性的な魅力に富んだ肢体を包む、ゴシック調の喪服。

 人外の美貌を隠す薄いヴェールの向こうに、白銀とも黄金ともつかない月光色の双眸がある。


 優しい、しかし冷笑に満ちた愛玩の視線。

 言葉とは裏腹に、そこに心配の色は微塵も無かった。


 答えるフィリップの声は震えているが、痛みだけでなく、呆れ笑いも混ざっていた。


 「? でもフィリップ君、死ぬことより痛いことの方が嫌いでしょう?」


 死者蘇生など容易な、時間を巻き戻すことさえ可能な邪神は、フィリップの死にも特別な興味を持っていなかった。

 関心が向けられているのは、生死ではなく、好悪だ。


 そのことに、フィリップは言いようのない感動を覚えた。

 嬉しいような、好ましいような。畏敬のように遠くもあり、共感のように近くもある。


 決して悪感情に類するものではなく、抱き着いて、胸に顔を埋め、そのまま眠ってしまいたい衝動が湧き上がるような、何かだ。


 「……そうですね。取り敢えず、手当して貰っても?」

 「えぇ」


 手袋に包まれた嫋やかな指が胸板を撫でる。

 小動物に対するものと恋人に対するものが混じり合ったような、愛玩と慈愛とが綯い交ぜになった手つき。ぞくりと背筋が震えたのは、色香故にか。


 いや、きっと生理的な反射だ。

 ほんのひと撫での後にはフィリップの傷は完全に癒えていた。


 息を詰まらせる血は消え失せ、呼吸と脈拍は完全に平時の落ち着きを取り戻していた。そのギャップに、人体が驚いただけだろう。


 森も敵も何もかも消し飛ばしてしまえとまで昂っていた心も、世界で一番安らげる場所で横たわり、今や完全に凪いでいる。


 「ふぅ……ありがとうございます、マザー。あと、ついでに彼女、も──」

 「あら。ふふ、膝、お気に入りだものね」


 言い終える前に、フィリップの意識は静かな眠りの中に沈んでいった。

 レースの手袋に包まれた手は、色気と威厳を併せ持った所作で差し伸べられる。その先に居たノアの身体からも、確実に死に至る傷が消えた。


 「──」


 ふと、森の中に音が現れる。

 それは何ら異常なものではなく、本来“森林”という環境が内包しているべきもの。虫や鳥の鳴き声だ。


 そして、膝で眠る愛し子への子守歌。

 頭を撫でたり髪を梳いたり、首筋や鎖骨に指を這わせたりと気儘に愛玩しながらのハミング。


 「──」


 人間の作った曲ではない。

 しかし、神話的な要素や不可解なものはない。単純なメロディーと落ち着いた曲調による、安眠と、良い夢を齎すものだ。


 ──それとは全く関係なく。


 木々は黒く染まり、捻じれ、歪む。

 下草は硬く鋭く棘のように、それでいて柔らかく滴る粘液のように。


 これまでの姿を失った森は、しかし、これまでよりも遥かに活気づいていた。

 変性した植物はより深く根を張り、より高く伸び、より太く育つ。本来は数年かかるはずの成長が、ほんの数秒で。


 一年草は十数秒で天寿を全うし、次世代への種を落とす。

 種は即座に芽吹き、育ち、まだ十数秒で次の世代へ移り変わる。


 年を重ねる植物は、より良い形質を獲得し、より優れた種へと変化する。

 単独個体による進化、或いは植物種の変態。千年の時を経ても姿が変わらない逸話を持つ種でさえ、一分とせず形を変えた。


 だが、そこには依然として森がある。

 これまでより優れた種へと変貌したかつての住人が、新しく根付いた住人が、生を謳歌し、偉大なる母を懸命に讃えているのだ。


 細やかに。

 子の眠りを妨げないように。母の気に障らぬように。


 「あぁ……」


 ただそこに居るだけで環境を作り変えた邪神は、ふと思い出したように呟いた。


 月光色の視線はフィリップの寝顔を離れ、不愉快な羽音を立てる虫に向けられる。

 それはマザーが現れてからというもの、ずっと鳴いていた。「ありえない」とか「そんなことがあってはならない」とか、そんな感じの譫言を繰り返し。


 森とその住人たちは、愚かにも母の目に留まり、景色の一部から「個」へと認識を格上げされてしまった劣等種に軽蔑を向けた。


 『鳥や虫の声がする森』であれば、地母神も、その寵児も、なにも気に留めなかった。

 だが、眠る子の側で喧しく鳴けば、それは『眠りを妨げる邪魔な虫』だ。


 その虫が愛しい子を刺していたとなれば、その末路は概ね決まっている。

 絶対的死。或いは永遠の生。その間に横たわる無限の可能性は、それも想像もつかないほどの苦痛を伴うという点で一致しているのだから。

 

 「どうしましょう。怪我をする前に殺してもいいのだけれど、叱られてしまいそうだし……」


 視線と共に悪感情が向けられる。

 敵意ではなく、害意や殺意でもなく。もっと単純な──不快感だ。


 三次元世界を壊さないよう、脆弱な子供を撫でて壊してしまわぬよう、力を極限まで抑えた化身。それでもなお、向けられた感情一つは、天使を進化させた。


 絶対的上位者に対峙した『神の兵士』は、翼を広げて逃げようとした。

 未だ冒涜者を処断できていないことになど一切構わず、主の命令に背いた。本来は持っていなかったその機能を、手に入れることが出来た。


 ──だが、叶わなかった。


 手は動かず、足は動かず、翼も動かない。

 それに許されたのは、ただ震え、怯え、恐れることだけだ。


 攻撃も、威嚇も、逃走も、交渉も、命乞いさえも、シュブ=ニグラスは許さない。

 だって、騒げばフィリップが起きてしまう。膝に乗せ、頭を撫で、髪を梳き、首筋や鎖骨を愛撫する至福の時が終わってしまう。


 だから、天使には音を立てる一切の行動が許されなかった。

 自分の羽が無慈悲に黒く染まり、それでもなお何の意味も無かったことへの慟哭さえ。


 「……」


 フィリップはまだ眠っている。

 気を失ったノアの頭を胸に抱き、その目元をしっかりと覆いながら。


 そうなると、羽虫を殺すのに趣向を凝らす必要は無い。

 フィリップに理解できる殺し方を用意する必要もないし、フィリップが楽しめる殺し方も、後学のためになるものも、何も。


 ただ叩き潰すだけでいい。

 眠る子を起こさぬよう、静かに。


 彼女は子が蚊に刺されたからという理由で、この世のありとあらゆる水源に毒を撒ける。

 井戸を汚染された村が滅ぶことも、大海原の水面が魚の死骸で埋め尽くされることも、山々から命の気配が無くなることも気にしない。


 前人未踏の秘境にある小さな水溜まりすら見逃さず、確実な絶滅を用意できる。


 しかし──幸いにして。

 彼女は羽虫を叩き潰すとき、それが何という名前のどういう虫なのかを気にしないタイプだった。


 「──」


 子守歌が再開される。

 彼女にとってもフィリップにとっても幸せな一時は、フィリップが目を覚ますまで続いた。

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