第673話
泥人形は傾げた首を戻すと、頷くように首を曲げた。
視線を下げるように──存在しない目の先には、若草色の幼女がいる。
表情のない泥の塊は、暫しその向きで止まった。
「それにしても……まさか“森林”を連れ歩いてるとはな。お前の意思でどうにかなるなら、暫く──ここにいる間は引っ込めててくれ」
ヴィカリウス・システムを知っているとは言っていたが、シルヴァのことも分かるらしい。
泥人形の声にマイナスの感情を認めたフィリップは、傍らのシルヴァと正面の泥人形を交互に見遣る。
「どうして?」
「⋯⋯どうしても、だ」
言いにくそうに口ごもる泥人形──口はないけれども。
傍らに目を落とすと、幼女は気だるげな溜息を吐いた。
「まえにぼこぼこにした」
「前にボコボコにした!?」
すごいエピソードが飛び出てきた。
というか意外な戦力差──でもないか。
勿論、王龍のブレスを以てすれば、規模にもよるが森林一つを消し去るくらいは可能だ。ヴィカリウス・システムの無敵性も貫通できる。
しかし“森林”といえば、人類が森を切り拓き道や都市を作る現代にあってなお、地上の半分以上を占めるとされる環境だ。
その支配面積は平地よりも川よりも多いどころか、あらゆる環境の中で最大。
“森林”に追われるということは、地上の六割から追われるということ。ボコボコにされるくらいで済むのなら、大人しくボコボコにされておくほうが賢明だろう。
「どらいあどによばれてねがわれたから」
「着地の時に木を何本か折っただけだぜ? あの世間知らず共、やり返すにしてもやり過ぎだったろ」
仕方ないよね、とでも言いたげなシルヴァに、泥人形は辟易した様子で独り言ちる。
目は無いが、目線はシルヴァに向いていなかった。目というか、顔というか──パーツが無いので顔の正面も何もないけれど。
「まあいい。早く準備して、勇者を連れてさっきの場所に来い」
「あ、うん」
言うだけ言ってどろりと溶けた泥人形が、フィリップの返事を聞いたかどうかは定かではなかった。
まあフィリップたちは教わる立場だし、時間が有り余っているわけでもない。
フィリップは言われた通りイライザに声を掛け、まだ顔色の悪い彼女と、既に平常通りに回復した聖痕者たちと共に先程の場所へ──山の切り株へと向かった。
そこには既に、剣師龍本体が居なかった。
あの巨躯が飛んだり跳ねたり──はしないにしても、のしのし歩いていれば流石に気付く。恐らくは転移魔術か何かで、場所を空けたのだろう。
聖痕者たちが見守るなか、フィリップとイライザは、切り株の中央付近で待つ泥人形に近寄った。
「よし、勇者はコレについてこい」
「小僧はコレだ」
地面から滲み出すように、泥人形が一つ増える。
二つはそれぞれ逆方向に身体を向けて、互いに遠ざかるように歩き出した。
どちらも剣師龍が、ここからでは見えない位置から操っているのだろうが、何とも器用なことだ。
山の切り株はかなり広く、泥人形は二人の距離を十分に開けて止まった。
剣を振っても当たらないどころか、大きめに叫んでも内容が判然としない程度の距離がある。
「では始めるぞ。聖剣を出せ」
「……っ」
泥人形は手にした木の枝をイライザの顔に向ける。
彼我の距離は約5メートル。枝は50センチほどで、普段なら危険を感じる距離ではない。
しかしイライザは弾かれたように、強く急かされたように慌てて聖剣を取り出し、下段に構えた。
枝を叩き落とすための中・上段の構えではない。
反射的に枝の剥いた先──顔を守りたくなる衝動はあるが、彼女は既に、それを押さえ込む訓練を積んでいる。
足首辺りを剣先で狙われた泥人形は、枝を下ろして何度か頷いた。
「ふむ。構え方は悪くないな。体格と体力に見合った防御主体の戦形。筋肉ではなく骨で剣を持ち、身体を支えられている。基本の立ち姿勢はそれでいい」
言われて、イライザは目を瞬かせる。
師に──先代衛士団長に教わった通りの構えに、彼に褒められるときとよく似た言葉が返されたからだ。
いや、それは先代が最適な指導をしていたということなのだろう。
先代と剣師龍の知識量や感覚には大きな差があるにしても、イライザの能力は変わらず、人体の構造も変わらない。
同じものを見て、同じ結論を出したというだけのこと──だけと言い切るには、龍と人とはかけ離れているけれども。
「素振り、上段から縦一文字、下段から上段突き。三十回」
「っ、? は、はい!」
イライザは思わず口を衝きかけた困惑の声を押し留め、覇気のある返事をした。
そんな基本も基本の、準備運動のようなことをさせられるとは思っていなかった。
勿論、「それはイヤ」とは言えないし、理由を問うことすらできないけれど。
イライザのために誂えたかのように手に馴染む長剣は、小気味の良い澄んだ風音を立てる。
一回、二回と続き、言われた通りを数えるまで、その音が揺れることは無かった。
「……お、終わりました」
「次、火の形態変化。あの山を狙って三十回」
褒めも貶しもせず、泥人形は淡々と指示する。
その手に握られた木の枝は、山を──この山脈に連なる、谷を挟んで反対側の別の山を指していた。
稜線から稜線──ではない。
あちらは斜面だが、こちらは山を伐った切り株の真ん中あたりだ。
直線にしても1キロ以上ありそうで、歩けばもっと遥かに遠いだろう距離が開いている。
「えっ、と、届きません」
「構わねえよ。撃ってみな」
不安そうに言うイライザに、泥人形はまた淡々と返す。
安心させるように、でもなく、失望や嘲笑を滲ませるでもなく。
ただの数字を読むかのような無機質さで。
データの採取──実験動物の観察にも似た冷たさ故に、互いの力量差や存在格差から来る軽視を排して。
「は、はい!
「……」
イライザの詠唱に従い、シャツの背中が焼け落ちて聖痕が露わになる。
直後、光輝く三対の翼が顕現した。
冷たくも神聖な輝きを放つ光輪、輝く十字の聖痕に、泥人形は慣れきっているように何の反応も示さない。
「万軍の主の栄光の焔よ、定められし終わりを顕せ──聖剣プロヴィデンス、《
deum colit qui novit──神を知らば神を敬う。
そう刻まれた剣身が消え、炎の柱が立ち上った。
手中の炎が振り抜かれると、人間を飲み込むサイズの火球が撃ち出される。
上級魔術クラスの熱量、人体を蒸発させうる攻撃は、30メートルほど飛んで効果を失い、消えた。
谷向こうの山肌には、まるで届いていない。
きっと向こうから見ても、「火球が近づいて来ている」という印象すらなく、斜面が不意に光った程度に見えただろう。
イライザが振り返ると、泥人形もまた、背後──前後感の薄い身体ではあるが──身体を反転させて、遠くで見守る聖痕者たちに振り返った。
「聖痕者──光以外なら誰でもいい。向こうの山に円を刻め。ここから見えるサイズだ」
さらりと除外されたルキアは、ステラと顔を見合わせて肩を竦める。
あまりいい気はしないが、イライザに足りない部分を思えば省かれた理由は明らかだし、怒るところでもない。
むしろ当然と納得出来た。
「⋯⋯私がやるわ」
一拍おいて名乗り出たのはヘレナだった。
一番後輩──聖痕を得てから一番短いノアが、いつも通り手を挙げようとしたのを制して。
谷を挟んだ遠くの斜面で竜巻が起こる。
剣師龍の住処であるこの山脈は危険地帯、通常誰も立ち入ることのない場所だ。登山者を巻き込むリスクはない。
完璧に制御された竜巻は一キロ先からでも視認できる巨大な円を描いて木々を吹き飛ばし、役目を終えると、特徴的な螺旋形を崩して消えた。
「⋯⋯」
「聖痕者は届く。俺も──」
泥人形は言葉を切る。
直後、ヘレナの魔術が刻んだ円の中に、新たに十字が刻まれた。
「見えたか?」とステラが問い、「いいえ、全然」とルキアが頭を振る。
剣を振り、斬撃を飛ばしたのだろう。
過去に同じものを見たルキアとステラは、以前より更に長い攻撃距離と、以前より速い攻撃速度に苦笑を浮かべた。
あの時は腕が霞むほどの速度だったが、逆に言えば、腕が霞んだようには見えたのに。
今回は完全に、剣を──枝を振ったことにさえ気付けなかった。
「もっと近くなら見えたのかしら?」
「逆に、近いほうが見えにくいですよ」
ヘレナに返すノアの言葉が正しいことは、泥人形のすぐ傍にいるイライザが、驚愕に目を見開いていることから明らかだった。
聖痕者たちの位置から表情は判然としないが、斜面と泥人形とを交互に見ているのは分かる。
慌てようの伝わる動きが可愛らしく、ヘレナはくすりと笑った。
「──届く。ブレスなら山ごと消し飛ばしてる。龍と聖痕者の戦闘はこの
未だ愕然から復帰できずにいるイライザだったが、泥人形の言葉が冷静さを取り戻させる。
というか、半ば強制的に意識を向けさせられた。
驚愕に値する技だった。
だが驚いてはいられない。これはあくまで、龍本体ではなくパペットの為したこと──片手間の戯れだ。
「お前には基礎的な人間の剣技があり、俺の剣技を身に付けたところで、プロメテウス──お前たちの言う魔王には届かない。伸ばすなら聖剣と魔力の扱い方。特に、外部への依存度を減らすことだ」
泥人形は滔々と語る。
淀みなく──考える素振りもなく。言うべきことが明らかだから、という風でもない。
勿論、泥の塊の表情や仕草は内心をそのまま映すものではないだろうけれど、印象としては「慣れている」。そう感じる。
人に、人間に物を教えることに、とても慣れている。
「……というと?」
「今のお前は、聖剣をお前のものとして扱えていない。聖剣とて刃物だ。使用者のクセを覚え、そいつの手に馴染むように研かれていく──比喩だぞ。物理的に削れるわけじゃねえ」
泥人形は再び、いやに人間文化に詳しい言い回しをした。
まあ人間が刃物──金属加工を発明してからの年月を生きている、いやそれ以前から生きている剣師龍は、たった12歳のイライザよりよほど刃物に詳しいだろうけれど。
それは分かっていても、恐るべき巨躯の龍を目の当たりにした後では「アレが?」と思ってしまう。
「魔力も同じだ。人間に限らず、普通は自前の魔力、自前の脳で魔術を行使するが、お前はそれを背中の翼に委託している」
イライザの聖痕は、言ってしまえば勲章でしかない聖痕者のそれと違い、能力的な価値を持っている。
聖痕から現れる三対六枚の翼は単なる飛行装置ではなく──飛行装置というだけでも凄まじい機能でありながら、そればかりではない。
それは魔力の供給装置であり、同時に演算装置でもある。
魔術の発動に必要なエネルギーと、行使に必要な計算を全て肩代わりしてくれるわけだ。
翼の形をしてはいるが、実質的には──脳にこそ近しい。
「魔術師の中には、これと同じことを出来る奴もいる。魔術式の演算を肩代わりさせたり、逆に演算だけは──魔術の行使は自分で行いつつ、他人の魔力を使ったり魔術の発射口にしたりな」
泥人形が語った内容を、イライザは知らない。
故にそれは、他人を魔力リソースとして見るような、或いは他人に罪を擦り付けるような技術に聞こえ、嫌悪感を抱かせるものだった。
勿論、技術とは使い方次第で、それ自体に善悪は無い。
フィリップは過去、ルキアに同じことをやって貰った。
魔術を使えるようになるのではと淡い期待を抱いて──結局、聖痕者直々に「見込みナシ」と言われたわけだが。
今のイライザは、あの時のフィリップと同じだ。
強力な補助を得て、どうにか魔術を使っている。
「言うなれば今、お前は弩の射手だ」
再び人間の道具を引き合いに、泥人形は語る。
「他の誰かが作った弩に、他の誰かが作った矢を番え、お前は狙って引き金を引くだけ。お前は弩の構造を理解することもなく、使い方だけを知っている状態だ」
自分のものではない脳で、自分の知らない魔術式を処理し、自分のものではない魔力を用いて魔術を使っている。
イライザが決めているのは種類とタイミングくらいだが、それにしても、誤作動防止なのかなんなのか詠唱が必須。
しかもイライザにはない──魔術適性のないイライザが無理やりに魔術を使おうとするせいで、精神的に非常に消耗する。
実際に自分の脳を使って演算を行うわけではないにもかかわらず、だ。
「それでは、弩の性能は引き出せない」
引き金を引けば矢が射出される弩。
まあ種類によって起動方式がペダルだったりレバーだったり、弾頭が錬金術製砲弾だったり鉄礫だったりするが、それはいい。
その仕組み、詳細な仕様を知らないまま、明らかな機能だけしか知らずに使っているのは問題だ。
それが戦争で、使用者が徴兵された農民とかなら──弩の使用要員でしかなく、とにかく矢が飛べばいいというのなら話は別だ。
そこにいるのが赤子だろうと猿だろうと構わない。
だが聖剣はそうではない。
勇者もまた。
彼女は当代唯一人の聖剣の担い手。
彼女の聖剣の習熟度が、そのまま勇者の戦力となり、魔王戦の趨勢に直結する。
「しかし、お前の魔術適性は控えめに言ってゴミ同然。あっちの小僧とどっこいだ。お前には弩を作る技術も、矢を削る技術もない。ついでに、構造を理解できる頭もない。お前に出来るのは、ありものを自分用にカスタマイズする──手に馴染むまで使い込むことだけ」
木の枝を拾って使う泥人形にしろ、頭と腕と尾に自前の刃を持つ本体にしろ、剣師龍に「手に馴染むまで使い込んだ」経験があるのだろうか。
イライザはそんなことを思った。
「⋯⋯なるほど、私たちにはない視点ね」
風に乗って聞こえた泥人形の言葉に、ヘレナが感心したように呟く。
感心──というか、感銘を受けたように、と言うべきか。
魔術に於いてだって、剣師龍は人間以上の知識量を持っているだろうし。
実際、他人に魔術行使を委託する、他人の魔力を利用するというのは、自前で膨大な魔力を持つ聖痕者には分からない感覚だ。
フィリップの魔術行使の補助をしたことがあるルキアも、逆の立場になったことはない。
イライザが抱えていた問題を、彼女たちは優秀さゆえに気付けなかった。
努力を知らない天才は凡人の努力を理解できない、とは言うが、彼女たちは努力してきた天才だ。
これは彼女たち天才が前提、土台としていた、才能部分の話──才を磨く努力ではなく、才を得る努力に分類される。
「疑似熾翼から直接魔術を使わないことだ。手前の魔力を供給される魔力に混ぜ込み、演算の一部を手前で行い、自分が何をやっているのか、何をしたいのかを具体的にイメージしろ。そうすれば、お前は疑似熾翼と聖剣を正しく道具として扱えるようになる」
泥人形の言葉に、イライザは即座には頷けなかった。
理解は出来た。
専門的な魔術用語は一つもなかったし、論理も常識的なもので複雑な魔術理論の話ではない。
しかし、引っかかる。
「道具……」
「物を切るのに剣を使う。魔王を切るのに聖剣を使う。だったらそれは道具、だろう? ……言葉あってるか?」
「……はい」
言葉の定義を問われると、頷くしかないけれど。
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