第576話

 「じゃあ、行きます。万が一失敗して噛みつかれた場合は、お手数をおかけしますが、援護をお願いします」


 聖剣に手を添えるように構えて、イライザは緊張した面持ちで言う。

 視線は机、ダイヤルロックの掛かった引き出しに固定されていた。


 「ああ」

 「気を付けて」


 二人の返答は、イライザに聞こえているか怪しい。

 彼女は頷きを返すこともなく、少しでも多くの酸素を全身に回そうとするかのように、深く長い呼吸を繰り返している。

 

 ステラの魔術速度は反射のそれ。

 

 知覚、認識、対応。

 普通はその三行程を要する危険への対処を、知覚と対応を同時に行うほどに加速している。


 天性のセンスを、王国が用意できる最高の環境で、物心つく前から磨き上げた結果だ。

 幼少期から先代衛士団長や兄弟子、そして兄と並んで剣を振っていたとはいえ、イライザは所詮、二か月ほど前までは一般人だった十二歳の少女。


 センスも訓練も経験も、地金も蓄積も全く足りない。

 彼女のように鮮やかに、得体の知れない“顎”から逃れるのは不可能だ。


 しかし、遅れれば指を噛み千切られる。

 剣士として致命的な欠損を背負うことになる。その予測、そして痛みへの恐怖を、息と一緒に吐き出していく。


 集中。集中。集中。

 自分にそう言い聞かせ、それ以外の全ての言葉を脳裏から追い出し。

 

 イライザはダイヤルロックが『002』に合わせられた引き出しを、無造作に引いた。


 瞬間、美しからぬ総当たりを試す不届き者へのペナルティが起動する。

 目も鼻もない、鋭利な牙だけを携えた獣の口のカリカチュア。醜悪なトラバサミが飛び出し、指と手首を千切る勢いで噛みつき──甲高い金属音を立てて、聖剣がその咬合を妨げた。


 「──ッ!!」


 ぎゃりぎゃりぎゃり! と、木の引き出しとは思えない硬質な音と火花が散る。

 牙と牙の間に挟まった剣にかかる回転の力を、イライザは握力だけでなく体重を使ってどうにか押さえ込んだ。


 剣同士で打ち合ったとき、衝撃と摩擦が微細な鉄の欠片に熱を与え、火花となって飛散するのは珍しくない。

 しかし今は、神が創りたもうた聖剣と、木の引き出し。火花が散る余地など無いはずなのに。


 そんな疑問は、火花が瞬くように照らしたトレイの中──もとい“口”の中に、白いものを認めた瞬間に吹き飛んだ。


 何かある。


 イライザは無我夢中で“口”の中に手を突っ込み、牙に触れないよう伸ばした指で薄いそれを挟み、素早く引き抜いた。


 「と、取れました!」

 「剣を抜いて離れろ!」


 イライザとステラは同時に叫ぶ。

 言われた通り聖剣を引き抜くと、噛みつかれていた時より更に派手に火花が散った。


 剣が抜かれると、“顎”は戦意を失ったように口を閉じ、引き出しの表面に染み入るようにして消える。

 中身を取り戻そうと追撃してくることまで予測して身構えていた三人は、深々と安堵の息を吐いた。


 「と、取れましたね」

 「……確かに妙ね。設計思想からすると、こんな抜け道は潰されていそうなものなのに」


 「取れちゃった」と、むしろ困惑したような表情のイライザに、ルキアも怪訝そうに返す。


 ドアや窓を破壊しての脱出どころか、順番を無視した部屋の探索さえ許さないほど厳格な設計だったのに、ここにきてゴリ押しが通った。

 困惑と疑問を誘う結果だ。


 「あの口が“潰し”で、私たちが一枚上手だった可能性はあるけれど。もしくは──」

 「──これが、というか、噛まれながらでも中身を取り出すのが正規の攻略法なのか」


 ルキアの言葉をステラが引き取る。

 傾向からして、“潰し”ならもっと強固なはず。それこそ、ドアや窓を守る障壁を使えばいいだけだ。


 「中身は……手紙か?」

 「はい。ええと……、……?」


 イライザが手にしていたのは飾り気のない封筒だった。

 シーリングも施されていないし、宛名も差出人も書かれていない、ほぼ未使用品と言っていいもの。


 中の便箋を取り出したイライザはさっと目を通し、怪訝そうに眉根を寄せた。


 「……どうした?」

 「よ、読めません。共通語じゃないですよね?」


 イライザの言葉に、ルキアとステラは顔を見合わせる。

 別に、この世に存在する文字は共通語のそれ一つではない。古い時代の象形文字や、魔法陣を書くときにしか使わないような特殊記号もある。


 しかし、ルキアはシュブ=ニグラスを招来する儀式の場で、ステラはクトゥグアとハスターを召喚する魔法陣で、それぞれ目にしている。

 人類とは異なる思考、論理、概念に基づいて設計された言語。それを書き記すために使われる文字を。


 線と点の組み合わせ、平面上に描かれた単一の記号が、精神を汚染するほどの情報量と意味を持つことがあると、二人は知っている。


 「……貸せ」


 手を出したステラの声は硬く、彼女らしくなく緊張が表出している。

 ルキアは僅かに躊躇ったが、結局、自分より多くを知る彼女に任せた。


 ステラは一度大きく息を吐き、渡された紙に目を落とす。

 そしてもう一度、今度は安堵と拍子抜けの溜息を吐いた。


 「あぁ……文官なんかが使う速記体、略字だな」


 流石に王女に提出されるレベルの文書で使われることはないが、実務の場では何度も見た。

 予想していたものとはかけ離れた、何なら見慣れていると言ってもいい文字だ。肩透かしが過ぎて足から力が抜け、そのままひっくり返りそうだった。


 ステラが明かした答えに、ルキアも安堵と苦笑を浮かべて寄ってくる。

 書かれた内容を見せると、彼女は「もしかして内容を教えてくれないのかな」という不安を表情に貼り付け、所在なさげに佇んでいるイライザに気付き、小さく苦笑して紙に書かれた内容を読み上げた。


 「『彼の美しき森の貴婦人、赤き女狩人を表すのなら』……?」


 暫しの沈黙があった。

 ルキアも、ステラも、イライザも、誰かが「それは」と話し始めるのを待つかのように。


 「……どういう意味でしょう?」

 「貴婦人とやらを表す“何か”が、なにか、だ。次に進むために必要なヒントや道具かもしれないし、この館を出る鍵の在り処を示しているのかもしれない。或いは……私たちは引き出しの中のものではなく、開けるためのヒントに手に入れたに過ぎないかも」


 或いは、なんて言い方をしたが、ステラはその可能性が一番高いと踏んでいた。

 この空間で「やってほしくないこと」は、そもそも出来ないようになっている。逆説的に、出来たということは「やってもいいこと」と言える。


 つまり、あの“口”に手を突っ込んで中身を取り出すのは、設計者の想定した、認められた動きである可能性が高い。


 「数字を示す備忘録のようなものか? 同じ場所に保管するのは……まあ、詮無いことだが」

 「あはは……」


 どこか気の抜けるイライザとステラの会話は、ルキアの意識に殆ど引っかかっていなかった。


 「美しき森の貴婦人……」

 「お心当たりがあるんですか?」


 囁くような呟きに気付き、ステラとイライザが目を向ける。

 ステラは親友の声が僅かに震え、崇拝と畏怖の念が込もっていることにも気付いたが、触れるべきではないと判断して、興味も想像も心中から消し去った。


 「そう呼ばれる御方を、たぶん。でも、赤き女狩人の方は分からないし、三桁の数字には──」


 ルキアは言い終える前に言葉を切り、素早く振り返って魔術を照準する。

 ステラとイライザも同様に身構え、じりじりと足音を立てないよう動いて陣形を組み直す。


 ルキアが話している途中、執務室の外から扉が開く音がしたのだ。


 位置的には向かいの部屋、つまり書庫。

 誰か──或いは何かが出てきたり、廊下を通って入って行った気配はしなかったが、扉が開く音は間違いなく聞こえた。


 「……書庫が開いたんでしょうか?」

 「恐らく、ね。何が分からないのか分からない蒙昧は弾き、明確に疑問を持ち智慧を求めるのならば受け入れる……そんなところかしら」


 面倒な、と思ったのはイライザだけだった。

 ルキアとステラは「設計者」が智慧に対して拘りを持つらしいことに、恐れの滲む苦笑を交わしている。


 二人がどうというより、フィリップがこの場に居たら、「へぇ」と感心の声を上げそうな気がして、それが怖かった。

 勿論、ただの想像だ。だが設計者の思想が、フィリップから感心を引き出せるものだとしたら、それだけで十分に恐ろしい。


 「……行こう」


 書庫へ向かうと、やはり扉が開いていた。

 一応警戒して中の様子を窺うが、人も、それ以外のものもいない。


 四方の壁は全て本棚で埋まっており、綺麗に装丁された厚い本から、背表紙も付いていないような手製のノートまで多種多様な本が並んでいる。


 「……図書館の匂いがしますね」

 「紙……いや、防虫剤と防腐加工剤の匂いだな。きちんと管理されているらしい」


 さっと見渡して目に付いた本のなかで、三人が知っているものはない。

 相当な蔵書数だし、読みたい本を探して見つけるのは骨が折れるだろう。


 ただ、何を読むべきか──「設計者」が読ませたい本は、すぐに分かった。


 扉の正面、中庭側の壁に位置する本棚の中央には、表紙や特定のページを見せるように飾るためのディスプレイスタンドがあった。

 そこに乗せられた黒い革表紙の本。これ見よがしな置き方だし、視線は否応なく、その閉じた表紙へと吸い寄せられる。


 「……あれか」 

 「でしょうね。あからさまな誘導だわ」


 ルキアとステラの会話を聞いて、イライザは本を取りに行こうとする。

 しかし一歩踏み出した直後、ステラが片手で動きを制した。


 「王女殿下?」

 「……少し待て」


 不思議そうなイライザだったが、ステラが苛立ちを僅かに滲ませたことで、慌てて元の位置に戻る。直立不動の姿勢にまでなったが、ステラにはそれを解くどころか、苦笑を浮かべる余裕も無かった。


 あの本は不味い。


 状況からの推察ではなく、感覚でそれが分かる。

 そして、それこそが何よりも不味い。


 ただの本だ。

 紙を綴じ皮革で装丁した、ただの本。表紙にタイトルが書かれているわけでもなく、本であること以外は何の情報もない。


 なのに、強烈な忌避感が湧き上がる。

 それが何よりも不味い。中身が何であれ──たとえ全編白紙の未記入ノートだったとしても、表紙を見ただけで忌避感を抱かせる異常な物品だ。


 そして恐らく、そんな生易しいものではないだろう。


 「どうする? これがまともな本じゃないことは、流石に分かるが」

 「……そうね」


 ルキアとステラは本をじっと見つめ、思考を回す。

 

 イライザは何も感じていない様子だが、彼女が動いたときルキアも止めようとしていた。

 内容はともかく多少の智慧があれば、あれに忌避感を感じるようだ。


 それも不味い。

 智慧の有無で体感が変わるモノが、まともである筈がない。


 取り敢えずアレを無視して、別の本にヒントが無いか確かめるくらいのことはしたいが──それが逃避行動でしかないと、ルキアもステラも分かっていた。


 勿論、ここまでの傾向から、読んだ瞬間に即死とか即廃人化なんて代物でないことは分かる。

 しかし二人とも、廃人化より質の悪いものを知っている。想像も出来ないほどの智慧と知識を持ちながら、狂うことも壊れることも、死ぬことさえ出来ない人間を。


 ああなったら終わりだ。

 たとえこの空間から無事に出られたとしても、その先が無い。


 フィリップは慈悲を以て、絶対の死を与えるだろう。肉体も精神も完全に破壊し、それ以上苦しみを味わうことのないように。

 ステラならそうする。ということは、フィリップもそうだ。


 「三人居るが、多少耐性がある私たちで分割して読むか?」


 一人が大きなリスクを背負うか、二人がそこそこのリスクを負うか。

 一人が致命的に発狂するか、二人が精神的に疲弊するか。


 ステラには判断がつかない。

 内容も脅威度も分からない状態では、数値化のしようもない。


 しかし──ルキアは違った。


 「私が読むわ」


 言って、彼女は淡々と歩き出す。

 「大丈夫なのか?」とステラが背に問うと、振り返り、小さく微笑を浮かべた。


 「えぇ、多分、私が拝謁したことのあるについて書かれた本だから」

 「……どうして分かる?」

 「さあ……どうしてかしらね」


 苦々しい表情のステラと、困惑して二人を交互に見遣るイライザを余所に、ルキアは平然と黒い革の本を取る。

 そして何の躊躇もなく最初のページを開くと、ぱらぱらと速いペースで頁を手繰っていく。イライザが感嘆の声を漏らすほどの速読だ。


 背にステラの魔術照準を受けながら、ルキアは大判で厚い本を十五分ほどで読み終える。

 

 本はふわりと宙に浮き、跡形もなく消え去った。

 それはギミックではなく、ルキアの魔術によるものだ。

 

 「……数字はそれなりに出てきたけれど、これといって特徴的なものは無かったわ」

 「え、えぇと……それでは、別の本を──?」

 「いえ、でも、分かったの」


 ステラが拍子抜けするほど淡々と言って、ルキアは平然と歩いて執務室に戻る。その口ぶりや足取りに狂気の色はない。


 イライザは本に何が書かれていたのか知りたそうだったが、ステラに制されて問うことも出来なかった。


 「答えが書かれていたわけではないけれど、私ならこうするわ。と言っても、選択肢が他に無いわけではないから、また噛みつかれる可能性はあるけれど……」


 二人に警戒を促すように言いつつ、ルキアはダイヤルを回して数字を合わせる。

 『9』『6』そして『8』。


 取っ手を引くと僅かに引っ掛かかるが、カチリと小さな音を立てて錠が外れた感覚があった。 


 ルキアは僅かに口角を歪め、そのまま力を込める。

 引き出しは摩擦を感じさせつつも素直に開き、あの“顎”が飛び出してくることは無かった。

 

 「開いた……? 結局、三桁の数字は何だったんですか?」

 「もっと気にすべきことがあるだろう。ルキフェリア、中身は何だ?」


 ステラの問いには無言が返る。

 ただ、ルキアは右手を掲げて中にあったものを示していた。


 語るまでもなく、外見だけで何であるかが分かる。


 「……鍵?」


 それは、小さな真鍮製の鍵だった。

 人差し指ほどの大きさで、綺麗に磨かれてはいるが、傷や研磨痕からそれなりに古いものだと察せられる。


 「玄関の鍵……なわけ、ないですよね。客間の鍵でしょうか?」

 「一室の鍵にしては複雑な形だし、マスターキーじゃないかしら。まあ、どちらにしても、次に行くべき場所はそこだと思うけど」


 イライザの言葉に、ルキアとステラは少し笑いそうになった。

 まだ探索していない場所があるどころか、この空間が何を目的として作られたものかも判然としていない。このタイミングで玄関が開いても「帰ってよし」という意味だとは思えない。


 それにそもそも、内側から開けるのに鍵が要る扉は欠陥品だ。

 牢屋とかなら使えるかもしれないが、牢屋の扉は外からしか開けられない設計だろう。


 彼女が自分で言った通り、玄関の鍵であるはずがない。


 「客間、か。……「一泊しろ」なんてギミックじゃなければいいんだが」

 「それほど長時間の拘束は想定していないと、貴女が言ったのよ」

 「飢餓や脱水のような迂遠な殺し方をする必要はないと言っただけだ。私たちは魔術で水を出せるし、一週間くらいなら耐えられる。それを前提にされていない保証はない」


 軽い調子で会話するルキアとステラだが、勿論、忘れているわけではない。


 客間は最初に行こうとして入れなかった部屋。

 ──中に、なにか魔力を放つものがある場所だ。


 「……なんにせよ、行くしかないわ」



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