第527話

 惨劇の発端となったのは、一階席中ほどに座った一人の男だった。

 王国の中位貴族で、愛する妻と息子と自分の三つ、招待状を手に入れられた運のいい男。


 歌が始まって一分ほどしたとき、彼の心中を埋め尽くしていた感動に水を差された。

 

 ほんの小さな呼吸音。

 隣に座った息子が、感動のあまり溜息を漏らしたのだ。


 そして彼は──特に武闘派というわけでもなく、特別な戦闘訓練を受けたこともない彼は、三十余年の人生史上最速の動きで、右手を横に振った。


 腕と手の骨が揃い、肋骨から肩甲骨まで使った素晴らしい動きの手刀は、十歳になったばかりの子供の頚椎を一撃で圧し折る。


 鍛えていない手の骨がぴしりと軋む音、命を折り砕いた感触を痛みと共に感じながら、彼は思った。


 ──これで静かになった。


 そして──彼の頭は、後ろの席に座っていた女魔術師の火属性魔術で爆散した。

 彼女もまた、見ず知らずの男を自慢したくなるような展開速度の魔術で殺し、満足感を覚える。


 ──うるさい奴が居なくなった。


 ほんの一瞬で子供と夫を喪った女性が息を呑み、その音と震えた身体が、隣に座っていた他人の癇に障る。


 眩しく喧しい火属性魔術を撃った女が、手を重ねて座っていた恋人に殴り飛ばされる。


 悲鳴を上げた子供が親に、止めさせろと命じた貴族が護衛に、逃げようと立ち上がった者が恋人に、或いは見知らぬ他人に。

 彼我の関係性など、衝動的殺意に呑まれた人間には、もはや関係がない。


 音が音を、排除が排除を、暴力が暴力を生み、伝播していく。

 凪いだ水面に意思を投げ入れた波紋のように、殺意が感染していく。


 誰かに攻撃されて瀕死になった誰かの苦悶が、別な誰かの殺意を励起する。


 誰も殺すつもりなんてない。

 死んでほしい相手を死なせるために攻撃している人間は一人もいない。


 皆、思いは一つだ。


 ──静かにしろ。この素晴らしい歌に雑音を混ぜるな。


 天上の歌声を背景に、地獄が描かれる。

 家族も、恋人も、賓客も、何もかもを忘れる。


 産声を聞いて涙した我が子の声、囁かれるだけで心臓が跳ねる恋人の声、どんな雑踏の中でも聞き分けられるほど連れ添った夫婦の声、尊敬と畏怖を励起する主君の声。


 厚いカーペットに吸い込まれる微かな足音、滑らかな生地のドレスやタキシードの衣擦れ、悲鳴を呑み込んだ呼吸音。


 何もかもが、その音の前では耳障りな雑音と成り果てる。

 

 不幸中の幸いか、彼らは誰一人として武器を持っていない。貴族や豪商が雇った護衛でさえ、劇場に入る時に武器を没収されている。

 殴られたり蹴られたりして倒れ伏し、静かになった者は、全員が死んでいるわけではない。


 魔術師もそれなりに居たが、殺傷力の高い魔術を撃つ前に不意討ちで殴られて昏倒したり、魔術師同士で撃ち合って耐性に阻まれたりして、致命的な結果を齎した例は多くない。


 しかし──波紋はもはやホール内全体に広がり、どこもかしこも乱戦状態だ。

 恐ろしいのは、殴ったり倒れたりする鈍い音と、魔術による爆発や絶縁破壊、風音などばかりで、人間の声が殆どしないこと。


 この場に於いて正常ならばあって然るべき声の一つ、悲鳴は上がった途端に途切れるので、まだ分かる。

 だが、爆発的な──即座に行動に転じるほど激甚な殺意を抱いているはずなのに、怒声が一つもない。魔術の詠唱すら聞こえない。


 そして、逆に。

 本来ならばとうに途切れているはずの──惨状を舞台上から余さず見ている楽団と歌姫の奏でる音楽が、未だに響き続けている。


 彼らの表情には恐れや強迫観念の色がまるでない。

 自分たちの音楽に酔ったように陶然とした顔、指揮と楽譜に忠実に演奏している真面目な顔、練習以上の演奏が出来ていると楽しそうな顔に、ミスしかけたと少し焦った顔。


 そして──この時を待ち侘びていたと、歓喜に満ちた顔。


 音楽はいよいよ盛り上がり、歌声も負けじと高潮する。


 曲のクライマックス。

 高らかな歌声に圧倒されたかのように、客席の全ての動きが停止する。準備段階だった魔術は掻き消え、殴りかかろうと振り上げた拳は力なく下ろされる。


 誰もが舞台を見つめ、ぽかんと口を開けている。


 そして──何の前触れもなく、一人の観客が潰れるようにして頽れた。

 一人、また一人とその後に続く。ほんの少し前まであれほど過敏に反応していた、床に倒れる鈍い音、椅子にぶつかった硬い音などに、もはや誰も興味を示さない。


 ただ、無言で舞台を見つめていたかと思えば、何の前兆も無く倒れ伏していく。


 そうして立っている、或いはきちんと座っている観客が誰も居なくなってから一分ほど。

 地獄を作り上げた歌は、ようやく終わった。


 スポットライトを浴び、汗粒を輝かせながら肩で息をする歌姫は、死屍累々の観客席に一礼すると、三階の貴賓席を見上げる。

 歓喜や達成感を滲ませた華やかな笑みは、しかし、テラス席でぐったりと顔を垂れている三人を見て凍り付いた。


 「──っ!?」

 「な、なんだ!?」


 歌姫の背後、オーケストラたちも俄かに騒然とする。


 万雷の拍手が降り注ぐ確信すら持っていた彼らは怪訝そうに観客席を見て、そこでようやく、舞台の外で何が起こっているのかを知覚したのだった。


 「セキュリティ!」

 「いや、医者だ! 医者を呼べ!」

 「貴賓席の安全確認が先だ!」


 舞台袖に向かって叫ぶが、そこにいるはずの裏方や見習いたちも、お互い殴り合った後に昏倒しており、返事はない。

 そもそも未曽有の事態であり、荒事に慣れていない音楽家たちは慌てふためくばかりだ。


 そんな中、歌姫は歩きづらいヒールを脱ぎ捨てると、ドレスを翻して舞台から飛び降りた。


 「アンナ! どこへ行くんだ!?」

 「待ちなさい! 何が起きているのかも分からないのに、危険よ!」


 背中に投げかけられる同僚たちの声に、彼女は振り返らず、足を止めることもなく答える。


 『三階の貴賓席へ! あの御方の安否を確かめなくては!』


 焦るあまり、口走ったのは人間のものではない言葉だった。

 


 ◇



 フィリップに短剣を振り下ろしたのは、この劇場内で武装を許された特例中の特例、聖痕者たちの護衛として宮廷から派遣された武官だった。


 素晴らしい演奏に雑音を混ぜられた怒りを込めた凶刃は、しかし、フィリップに届く前に火花を散らして弾かれる。

 剣戟音より涼やかで硬質な音は、魔力障壁に特有のものだ。


 そして一瞬のラグも無く──驚いたフィリップが振り返るより、攻撃者が防がれたことを知覚するより速く、一条の光が天より降り、彼は塩の柱に変わった。

 音も無く、余波も無く、完膚なきまでに、人間一人が、人体一つが無くなった。


 「…………」


 突然の凶行から友人を守り、次いで攻撃者の手足を吹き飛ばそうとしていたステラは、物言いたげな苦々しい顔で親友を見遣った。


 手が早いのはマシになった、みたいな話をしたが、撤回だ。

 あまりにも突然の、しかもルキアやステラではなくフィリップを狙っての攻撃。理由や背景を聞き出したかったし、支配魔術で無理やり喋らせるにしても呼吸と会話は可能な状態でなければならなかったのに。


 歌声に侵されるかのように回りの悪くなった脳を動かし、ステラは目障りな人間大の塩塊を一瞥する。


 「これを運び──」


 運び出せ、と言い切る前に、また別の護衛官が剣を抜き、雑音を発したステラを黙らせようと襲い掛かる。

 しかし剣を抜く鞘走りの音が別の護衛の耳に障り、先んじて背中を斬られた。


 「──、っ!?」


 ステラは最大限の警戒をしつつ──この場に居るルキアとフィリップ以外の全員を殺せるように照準しつつ、思考を埋め尽くさんばかりの驚愕と、そこに滑り込んでくる歌声への関心をどうにか制御する。


 謀反や暗殺なら、話は早い。

 だが、ステラはそれらの気配を知っている。


 今はそれが無かった。

 なにか大きな目的があったり、或いは仕事と割り切った冷徹な殺意であったり。王族殺し、聖人殺しという大それた行為に走るだけの意思の強度を担保する、心に通った芯が感じられなかった。


 今のは衝動的殺意──どちらかといえば、カルトに相対したフィリップが滲ませるものに近い気配だ。


 何が起こっているのか理解できず、ステラは異常事態の専門家の方を見遣る。


 フィリップは斬りかかられたにも関わらず、立ち上がりもせず羽音の煩わしい虫でも居るかのような目をしていたが、ステラの視線に気付くと、困り笑いで椅子を示した。

 まあ座れ、と。


 背後の喧騒に苛立ちを募らせ、全員殺すと決めた目で立ち上がったルキアもまた、フィリップが手を引いて座らせる。


 そして。


 「カノン。──静かにさせろ」


 静かに、しかし二人が見たことも無いような粗略さで、吐き捨てるように命じた。

 さながら配下に命じる王のように、奴隷に命じる主人のように、傲慢で、命令が遂行され達成されることを微塵も疑っていない──自分の意思が必ず実現すると確信しているかのように。


 舞台を見下ろしたまま、無感動に。


 だが、見たことのないフィリップの態度も、新たに背後に生じた気配も、一瞬の後に背後の喧騒が止んだことも、二人の興味を一瞬以上留めなかった。


 三人とも舞台に視線を釘付けにして、届く音を堪能するのに集中していた。



 本当に耳で聞いているのか、フィリップは自分の身体に自信が持てなくなった。

 鼓膜、聴覚神経、脳──その音情報の正常な伝達が行われている気配がない。


 視覚に、嗅覚に、触覚に、味覚に、ありとあらゆる臓器に快感が流れ込むような錯覚がある。


 まず、目を閉じた。

 目を開けていると視覚情報の処理に意識が割かれて煩わしかったから。


 身体の力を抜いて、椅子に全ての体重を預けた。

 お行儀よく座っているための労力を、音を噛み締めることに使いたかったから。


 感動のあまり漏れた溜息が耳障りで、息を止めた。


 それでもまだ、何かがうるさくて。


 ──その雑音は、興奮して早鐘を打つ心臓と、体内を駆け巡る血潮の音だと気が付いた。


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