第10話 解体

「さてと、まずは皮を剥ごうか」


 母屋の隣にある納屋の中。太い梁に頭を上にして吊した牝鹿めじかに手を合わせたあと、カイは剣鉈けんなたさやごとテーブルに置いて少年に渡す。


「もう内臓は抜いてあるからな。最初は頭の付け根にぐるっと切れ目を入れる。今は皮だけ切れればいいから、そんなに深く入れなくていいからな」

「うん」


 牝鹿は少年の目の高さに首のてっぺんがくる位、低めに吊り上げてある。ショーンは剣鉈を手に取り、鞘をテーブルに置いて牝鹿と向き合った。もう一度手を合わせ、彼女の首にぐるりと刃を回す。


「今度は腹の切れ目から首の中心を通して、今切った頭の付け根まで一本、切れ込みを入れる。胸は深めに。他はさっきと同じように皮だけ切れればいい。同じように、前脚や後ろ脚も手首足首にあたる関節付近をぐるっと切って、それぞれの内側の中心に線を引くように、切れ目を入れていく。そう、上手だ」


 カイに言われた通り、皮に切れ目を入れていく。切れ味の良い剣鉈は、力を入れずともスルスルと皮を切り進んでくれた。


「ほとんど血は出ないんだね」

「ああ。君のおかげで、血抜きもうまくいったからな。血抜きに失敗すると獣臭けものくささが強くて、人によってはとても食べられない肉になる。今回はしっかり抜けたから、全部おいしくいただける。その子の生命を無駄にしなくて済む」


 そう言って微笑んだあと、カイは柱に結んでいたロープを引き、結び目の上下に飛び出しているフックにぐるりと一巻きして少しばかり鹿を持ち上げた。そして、次なる作業の指示を出す。


「切れ目を入れたら、首から皮をいでいく。首のほうから、服を脱がすように。その子は若いから、そんなに力も要らず剥げるだろう」


 ショーンの邪魔にならないよう、背後の少し離れた場所から見守るカイ。


「鹿や小さな動物は、そんな感じで簡単に脱げてくれるものが多い。熊や猪は皮下脂肪も厚いので、そうはいかない。ただ小さな動物でも、尻尾や人間でいうかかとの部分は筋と皮がしっかりくっついている。だから、そこは刃物でしっかり筋を切ってやらないとならないんだ。手を切らないように、慎重にな」


 カイの言うとおり、少年の力でもすんなりと鹿の皮は脱げて、白っぽい筋膜に包まれた筋肉が露わになっていく。もう尾と後ろの両足首を除いて、皮は肉から離れていた。


「尾は根元からそのまま切り取る。足首は皮を引きながら、筋を少しずつ刃で切る。最終的には、足首の関節の筋を切り、足首ごと折り取ってその子の身体から外す。後ろ足の関節は折るのにちょっと力が要るぞ。そう、自分の太腿ふとももの上に彼女の踵を置いて、筋を切った足首を踵側に思いっきり折るんだ」


 慎重に作業することしばし。鹿の皮はきれいに剥げた。ついたままだった後ろ脚の足先も、筋を慎重に切って皮から外す。


「そうだ。ショーンは器用だな。初めてとは思えないほど傷なくけている。さすがだな」


 ショーンの背後から剥いだ皮を確認しながら、カイは微笑んだ。

 ショーンは振り返り、カイを見上げる。カイの目が優しい。


「この皮は、捨てずになめそう。いろんなものを作れる」

「うん」

「それじゃ、今度は肉を切り分けていくぞ。この皮をテーブルの上にいて、そこに切り分けた肉を乗せていこう」


 カイはショーンから鹿の皮を受け取り、毛を下にしてテーブルに敷いた。


「食べる部分は彼女の筋肉だ。筋肉には筋がある。肉は筋に沿って刃を入れたほうが外しやすいんだ。まずはその筋がわかりやすいところから外してみようか。開いた胸と腹の中を見ると肋骨の下のほうから腹にかけて、背骨に沿ってくっついている肉が見えるだろう。そこは柔らかくて美味うまいんだ。左右とも、背骨に沿って刃を入れながら外していくぞ。でもその前に、ナイフと手を洗って清めよう。ナイフをテーブルに置いてくれるか」


 ショーンはこくりと頷いて、カイに言われたとおりテーブルの上にナイフを置く。


「刃物の受け渡しは、できる限りこうやってどこかに置いて行う。それがお互いに一番安全だからな。できれば端に置くより、柄も含めて全体がしっかり乗るくらい奥に置いて渡したほうがいいんだ。何かの拍子にぶつかっても落ちないからな。お互い足を床に縫い付けたり、指を切り落としたりせずに済む」


 穏やかに笑いかけてから、カイはナイフを手に取る。そして傍に置いてあった水筒の蓋を外した。水筒からは白い湯気がたちのぼる。


「まず、ナイフを熱めの湯で洗う。手も、できれば強めの酒やヨモギの汁で清め、洗う。皮を剥いだあと、そのままいきなり肉を切り分けるより、こうして洗ってやると肉が腐りにくくてな」


 そう言いながら、カイは別の小さなテーブルに置かれた手桶の前に移動した。ナイフをその中に置き、水筒の湯をかける。そしてショーンを手招き、蒸留酒で湿らせた布を手渡した。


「それで手をよく拭って、湯からナイフを取り出す。そのとき両手も火傷しない程度にサッと湯に通し、乾いた布でナイフと手を拭う。それだけで肉の持ちがよくなるなら、やらない手はないだろう。最初だけ、見本を見せようか」


 少し冷めた湯からナイフを取り出し、手を軽く洗ったカイ。乾いた布で手とナイフを拭い、皮を剥いだ鹿と向き合う。ショーンも湯で手を洗い、同じように手を拭った。そしてカイの斜め後ろに立って鹿を見る。


「じゃ、やってみよう。こうしてつっかえ棒をして開いた肋骨の下、腹側の肉の付け根のちょっと上から背骨沿いに肉を切り離す。刃は上から下へ。少し切ったら、ナイフを持っていない左手で切り離した部分を軽く引きながら、少しずつこうやって外していくんだ。このとき、こじるようにナイフを横に動かさないようにな。横に動かすと刃こぼれするから。さあ、やってみようか」


 カイは再びナイフをテーブルに置いて、ショーンをうながした。ショーンはナイフを握り、再び鹿と向き合う。

 先ほどカイが切った肉の端を左手で握り、少し引きながら切り離していく。肋骨側から腹側へ、切り離された部分の少し上から下へと刃を滑らせ、慎重に肉を外していく。


「そうだ。そうやって少しずつ肉を骨から外していく。もちろん肋骨側から切り離してもいいが、上が最後までつながっているほうが俺には、きれいに無駄なく肉を外してやりやすくてな。逆に上から外すほうがやりやすいなら、ショーンはそれでいいからな」


 カイは穏やかな笑顔で少年の作業を見ながら、言葉を続けた。


「人の数だけやりやすい方法がある。俺はこうして吊ったままさばくほうがやりやすいが、状況によっては置いてやったほうがいいこともある。今日みたいな雪の積もった野外で捌くなら、雪の上に置いてやるのも楽だぞ。今回は俺の得意な吊りのやり方を伝授するが、今後は自分に合った方法を探すため、いろいろ試してみてくれ」

「無駄なく……」

「そうだ。この子に貰った生命、できる限り無駄なく活かしてやりたい。それがこの子に対する一番の供養だと俺は思っている。以前はそんなこと考えたこともなかったんだが、東国で師匠に教えてもらったこの考え方が俺にはしっくり来てな。実際のところは自己満足かもしれないが……」


 ショーンが手を止め、カイを振り返った。カイは少し困ったように笑い、真顔になって話を続ける。


「俺の故郷では、人々は食べるためではなく山や畑を荒らす害獣として動物を狩って捨てたり、ときには……単なる楽しみのために動物や人の生命を奪ったりもしていた。人間以外の生物や肌色の違う人間は、自分たちよりも劣った存在だ。自分たちを楽しませるために神が作りたもうたものだから奴隷として使役し、殺してもいい生命なのだと。昔は俺もそれを信じていたが……」


 カイは一瞬、言葉を止めた。何かを探すように牝鹿に視線を移す。


「あの戦のさなかに、俺はその教えに疑問を抱いた。人間と動物、同じように生きているのに生命は違うのか? たとえば西国や北国では肌の白い人間が多く、南国は黒い人、東国はその中間といったところか……見た目はもちろんだが、住むところが違えば風土が違う。文化や考え方も違ってくる。最初は誰もが戸惑うだろう。自分が幼い頃から慣れ親しんだものとはまるで違うからな。だが、ともに過ごすと理解し合える部分もある。俺の生まれ育った西国では自分たちが優れた民族だと子どもの頃から教え込まれ、大抵たいていの者がそれを疑うことなく大人になるが……東国で過ごすうちに、俺はわからなくなった。人間同士でも、住む場所や見た目が違うってだけで、生命の重さに違いはあるのか? 文化が違うだけで、人間の優劣が決まるのか? とな」


 カイは目を閉じ大きくひとつ息を吸い込んだ。その息をゆっくりと吐き出しながら目を開き、再び言葉を紡ぎはじめる。


「どんな生命も、生きるためには何かの生命を犠牲にしていかねばならない。食べるためなら生命を奪ってもいいと言う気もない。人も動物も……植物だって生命を持つものに変わりはない。必死に生きようとするものの生命を奪う罪悪感を拭える訳でもないし、冥福を祈ったところで相手を殺したことの免罪符にもなりはしない。それでも、生命に敬意を払い、できる限り相手の生命を無駄なく使う。自らの生命をつないでくれるその生命に感謝を忘れず、いただいた生命の魂の安寧あんねいと後の世の幸せを願う。東国で教わったその考え方が、俺の心には自国の教えよりも違和感なく入ってきたんだ」


 そこまで言うと、カイはふわりと表情をゆるめてショーンを見た。


「すまん。つい語っちまった。これはあくまで俺の信念だ。誰にも……もちろん君にも押しつける気はない。ただ、世の中にはいろんな考え方がある。こんな考え方があるんだってことだけ知っておいてくれれば十分だ。さあ、続きをやろうか。ずっと彼女を吊りっぱなしにするのもかわいそうだ」


 そう言いながら、カイはショーンの背中に両手で軽く触れる。

 ショーンはそんなカイをじっと見上げながら、静かに口を開いた。


「カイ、猟のときからずっと言ってたよね。無駄なく生命をいただくためにって。その考え方、僕は好きだ」


 今度はカイが赤面し、照れくさそうに笑った。


「ありがとな、ショーン。とにかく、次の作業に移ろう。次は前脚を外すぞ」


 カイが牝鹿の傍に向かう。前脚を片方軽く持ち、わきのあたりを指さす。


「鹿の前脚は筋肉で身体と繋がっている。後ろ脚と違って、大きな関節があるわけじゃないからな。この辺から刃を入れて、筋に沿ってぐるりと肉を切っていくんだ。そうすれば簡単に外せる。さあ、やってみよう」


 ショーンがこくりと頷くと、カイは牝鹿から手を離した。少年の作業の邪魔にならないよう、少しばかり牝鹿から離れる。

 

「片手で前脚を軽く握り、彼女の肩を少し開きながら刃を入れていくんだ。そう、その調子だ。意外と重いから、切り離したとき落としたり、君自身が怪我をしないように気をつけろよ」


 万が一、何かがあってもすぐ助け船を出せる距離で、カイはショーンの作業を見守っていた。



 ※※※


「ショーン、頑張ったな」


 作業を始めてから半日。後脚以外、骨と筋膜を外しすっかり枝肉となった鹿を前に、静かに佇む少年。背後にゆっくりと歩み寄ったカイは、テーブルにナイフを置いた彼の肩に両手を乗せた。


「ありがとう。カイのおかげだ。これで、彼女の生命、無駄なく使ってあげられるだろうか……」


 無表情だが、奥深くにほんの少し不安そうな光を含んだ少年の視線がカイを振り返る。


「大丈夫。こんなに上手に君が捌いてくれたからな。彼女の肉は、ヘレナにも手伝ってもらって早速みんなでおいしく食べよう。後脚は一緒に塩漬けして乾かしてハムにしような。長く我々の生命を繋いでくれる。皮も、この先君に役立つものを作って、大事に使ってあげるといい。鞣す方法も、加工も教えるから安心してくれよ」

「うん。ありがとう」


 少年の顔に、やり遂げた充足感を含んだ微笑みがようやく表れた。


「これからも、よろしく頼むな」


 カイは思わずショーンを抱きしめていた。いつまで一緒にいられるかはわからない。けれど今は、穢れのないこの笑顔を、いつまでも守ってやりたいと強く思う。

 せめて、いつか来る別れのあともこの子がこんなふうに笑えるように、生きる術を伝えよう。少年のぬくもりを感じながら、カイは決意を新たにした。

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風が伝えた愛の歌外伝 はじまりの風 鬼無里 涼 @ryo_kinasa

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