『長い3世紀のルポルタージュ』
「記憶の中の肖像画」
着想元について――「記憶の中の肖像画」
■着想元について
主人公の「僕」は私が創作した架空の人物です。「僕」が受けたという肖像画を描くようにという勅命や、「僕」が描いたという肖像画、そして肖像画の製作記であるという本作も、完全なフィクションです。
ですがいくつかの設定はある程度元ネタがある、つまり当時の記述をもとにしています。
たとえば「僕」の師匠は画工、なかでも後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事をしていますが、この元ネタは四世紀前後に生きた「僕」より少しのち、四世紀前半に生きた
それによると、当時後宮にはあまりに多く女性がいたので、皇帝は全員の顔を見て選ぶわけにはいかず、女性たちの肖像画を見て選んでいた。そのため後宮の女性たちは画工たちに
そんなとき、いわゆる北方騎馬民族の
賄賂を送らなかったために(送らなかった理由は、一説では自分はこんなに美人なのだから送る必要はないと考えていったから、だといいます)、(美人でありながら)(「野蛮」な)匈奴に嫁ぐことになる王昭君の伝説は、この『
という話が近い時代にあるのだから「僕」の時代にも、後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事、というのはあったんじゃないかなと思い、「僕」と「僕」の師匠の設定に採用しました。
もっとも『
ちなみに「画工」という言葉はあれど、「肖像画」という語は当時なかったようで、『
また「僕」の肖像画は「皇太子殿下」、つまり
なんでも歴史書である『
息子の顔がわからない(=覚えられない?)なら、家臣の顔も覚えられていないのではないか、当然それは困るから何がしかの対策を、
つぎに主人公の「僕」は戦乱のために故郷の洛陽をはなれ建鄴へ移住した避難民という設定ですが、こちらも当時戦乱を避けて、多くの人々が移住したという歴史的事実にもとづくものです。
ただこの話を書いたあとに關尾史郎「内乱と移動の世紀 : 4~5世紀中国における漢族の移動と中央アジア」という論文を読んだところ、洛陽から建鄴へというような長距離の移動ではなかったと述べられていて、まあそうだろうな……とこの話を書き終えて二年以上経った今では思います。北海道をよく知らない人がたてた北海道旅行の計画みたいな工程だもんな……。
歴史小説を書いていると、自分の知識のアップデートによって過去の自分の作品にツッコみたくあることは、ままあります。
さいごに、この話全体の着想は写真家・
『
話の作り方としては、ここに書いた順番と逆になります。
つまり『風貌』を読んでこういう話が書きたいと思い立ち、話を成立させるために歴史資料にある程度もとづいて、こういう話があってもさほどおかしくない(と私が思える)設定を固めていった、という製作工程を踏みました。
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