第2話 桃の花びら舞う中で…

努力しなくては努力が実る事は無い。


正論だ。


何もしなければ何も始まらないなんて、誰に言われなくても分かる。


だけどもし、繰り返しても繰り返しても努力が実る事が無かったら?


足掻いても足掻いても何の変化も得られなかったとしたら…


正論は正論のままでいられるのだろうか?


…少なくとも【オイラ】は…


何もしなくても同じだと感じている…。



…温かく優しい風が吹く…


…その中を踊るように舞う桃の花びらが、桃太郎と白鬼の周りを包んでいた…


…失意に満ちた桃太郎の視線と、満身創痍ながらも生きようと足掻く白鬼の視線が交差する…。


まるで心を見透かすかのように桃太郎の瞳を見つめる白鬼。


このまま見詰めあっていれば、心の奥底まで覗かされそうな気がする…


しかし…


視線を外しても本音を見破られそうで…


真っ直ぐ見詰め返す事も…


視線を外す事も出来ずに、桃太郎はただ目を泳がせていた…


…もう諦めるのか?…


…そう聞かれた…


その問いに「諦めない」と答えたら嘘になる気がする…。


だが、「諦める」と答えても本心ではないようで答えられない…。


まるで金縛りにでもあったようだ。


一言も交わされる事のないまま過ぎていく時間…


桃太郎がその気まずさに耐えられなくなり始めた頃…


岩にもたれ掛かる白鬼の上体が…一瞬 倒れ掛けたように見えた。


最初から分かっていた…。

白鬼が負傷している事を…。


白鬼が身に纏う白い衣を染め上げる【血】と【泥】の汚れ。


その汚れの激しさが、彼の負っている傷がどれ程深いのかを物語っている。


…このままでは命に関わる…


相手が人ではなく鬼である事は分かっている…。


鬼と言う存在が、人としては駆除しなくてはならない災いの原因である事も…。


…しかし…


桃の花びらが作り出す この優しい空間のせいか…


桃太郎は…


白鬼を「助けたい」と感じていた…。


…咄嗟に白鬼に駆け寄る桃太郎。


…傷は…


…思ったよりも深手だ…


他人の手当てなんかした事はない…。


桃太郎が分かるのは稽古で傷付いた自分を手当てしてくれたおばあさんの治療だけ。


自分でやった事はない。


上手くいくはずがない。


それでも、今 何をすべきなのかくらいは分かる…。


白鬼に必要なのは水と食料と治療道具…


そして何より安静にして休める場所を確保しなくては。


郷の皆は、彼を休ませたいと申し出ても きっと拒絶する事だろう…。


だが、おばあさんがいつも所持している治療薬の入っている箱がどこに有るのかは分かる。


どんな傷にどんな手当てをしなくてはならないのかも見てきた…。


水と食料だって家にある…。


…ならば…


手遅れになる前に急がなくては…。


桃太郎は郷に向かって走り出そうとした。


治療道具さえあれば何とかなると信じて…。


…しかし…


郷に戻ろうとする桃太郎の気配を察したのか、白鬼は桃太郎の腕を掴んで制止した。


…「やめろ」と言わんばかりに。


白鬼からすれば当然の行動だ。


得体の知れない人間が自分の存在を知った上で何処かへと走り出す。


人間と鬼という種族の違い…


そこに確かに存在する、お互いがお互いを駆逐しようとする考え…


それがある以上、このまま桃太郎を行かせれば仲間を呼んで来て殺される方が可能性は高い。


しかし声を出す力も無いのか、白鬼は桃太郎の瞳を真っ直ぐ見つめるだけで一言も発しない。


桃太郎も白鬼が何かを案じている様子を理解した。


自分の右腕を掴む白鬼の手に、左手でそっと触れる桃太郎。


桃太郎の手のひらから伝わるその意思に、白鬼は害意が無い事を やっと理解した。


それでも完全には信用出来ないが、このままでは野垂れ死ぬのも確実。


白鬼は考えた末に桃太郎に賭ける事にした。


桃太郎の腕を掴む白鬼の手から力が抜けていく。


それは自分を信用してくれた結果だと桃太郎は判断した。


白鬼の手を優しく離すと、今度こそ郷へと走り出した桃太郎。


その足は疾風の如く…


みるみる内に郷の中心部へと近付いて行った…。


桃太郎

『治療道具と水と食料…。


誰かの目に止まれば理由を求められるだろうな…。


勘の鋭いばあ様に見つからないで、それら全てを盗まなくちゃ…。』


桃太郎にとってそれは至難の業。


今までおばあさんの直感を掻い潜れた事は一度もない…。


郷長である祖父は一日の殆どを外出しているから見付かる心配はないが、常に在宅している祖母のあの勘の良さには泥棒の達人でも敵わない。


そんな祖母から気付かれないように必要な物を全て盗まなくては。


おばあさんが忙しくしている瞬間が狙い時。


桃太郎は家の近くまで来ると様子を伺った。


いつもいつも…


ケガした自分に優しく手当てしてくれるおばあさんに見つからないように…


まるで恩を仇で返すかのような行い…


桃太郎の心の何処かが軋むような音を立てる…


おばあさんにはその音さえ聞こえてしまいそうで…


桃太郎は自らの胸を手で押さえた…。


…罪悪感はある…


…だがそれでも…


今は理解を求めるよりも、自分で「すべき」と判断した事に従おうとした…。


おばあさんが家事に追われている事を遠目に確認すると、家から少し離れた茂みから遠回りをして近付いて家の中へと侵入する。


治療道具と水筒と、おばあさんの特製吉備団子…。


それらを手に取ると、桃太郎は再び白鬼の元へと走り出した。


桃太郎

『やったぞ!

あの ばあ様に気付かれずにやってやったぜ!』


いつも失敗ばかりの桃太郎…


【成功】と言う言葉とは無縁だった彼が、初めて経験した【成功】…。


桃太郎 自身、自分で出した結果を理解するのに時間が掛かった…


直ぐ後ろをおばあさんが追ってくるのではないかと、何度も何度も後ろを警戒した…。


…しかし…


おばあさんが追ってくる気配は無い…。


…これは、桃太郎からすれば奇跡のような体験…。


いつもなら、こう言う時こそ失敗するはずなのに。


それでも上手く行ったのには実は理由があった。


桃太郎の両手首にはいつも、手首の保護のための布が巻かれている。


だが左の手首の布の下には【ある物】が隠されていた。


その【ある物】が、この時うっすらと光っていたのだ。


異常な走力で家に戻れたのも…


おばあさんに気取られない程に気配を消す事が出来たのも…


…全てはその光のお陰…


その事に…桃太郎はまだ気付けていなかった…。


…白鬼の元へと戻ると、桃太郎は手早く治療を始めた。


鬼の身体の至る所に無数の傷がある。


1つ1つは致命傷を免れているが、その出血量はあと少しで白鬼の命を奪い去る程のものだった。


人間のような肉体を持たない妖怪達にとって、流れ出る血液は彼らの存在をその場に形作る力の源…


それは【気】…


人や物と触れ合う事が出来る程の高密度な気が、彼ら妖怪の存在を成り立たせていた。


…つまり…


桃太郎は知らなかったが、妖怪が人間の治療薬で傷を癒す事は出来ないのだ…。


…だが…


桃太郎のおばあさんのお手製の治療薬は、おばあさんの大いなる気が込められて作られた物だった…。


毎日ケガを負って帰ってくる桃太郎に、少しでも早く完治して欲しくて作った薬…。


それが…


鬼である彼に対し、絶大な効果を発揮していた…。


そしてそれは水や食料でも同じ事が言える…


桃太郎が汲んできた水筒の水は、この地から涌き出る清らかで神聖なる湧き水から汲み取られた、大地の気をふんだんに含んだ聖なる水…


その水を使い、おばあさんの気を込めて作られた吉備団子も…


白鬼の体力回復に大きな貢献をしていた…。


本来の鬼の栄養と言えば…


大地を流れる気が吹き出す【龍穴】と呼ばれる場所での気の補給…


鬼は生きるために口から食材を取り込む必要はないのだ…。


そうとも知らず…


桃太郎は鬼の生存に必要な気を、おばあさんが作った薬と団子で与えていた…。


白鬼の傷の手当てを終えた桃太郎…。


その手際の良さは、桃太郎自身が驚く程のもの。


白鬼も、その素早い作業には感心していた。


しかし決して雑ではなく、桃太郎の治療は白鬼のケガに合わせて正確に処置を施されていた。


白鬼

「…やるじゃないか…。」


桜に続いて、人生で二度目の称賛…


…まだ桃太郎には照れ臭い。


桃太郎はまたしても返す言葉が見つからず、無言のまま治療道具を纏めていた。


白鬼

「…お前は命の恩人だ…。


礼をしなくてはな…。


…名前は何と言う?」


不思議な気分だった。


今までどんなに頑張っても、桃太郎はこんなふうに誰かから感心を持たれた事は無かった。


仲間から疎外されて鬼から認められるだなんて…どんな皮肉だ?


…それでも、桃太郎は喜んでいいのか分からなかった…。


…相手が【鬼】だったから…


…この日本の平和を乱し…


世に争いを生む悪の元凶…


彼等はそう言う存在だと寺子屋では習ってきた…


そんな鬼を自分は生かした…


桃太郎がした事は悪を生かす行為…


ならば桃太郎もまた悪だったのかもしれない…


そう思うと桃太郎の心の中には今…


言葉に言い表す事の出来ない、強い罪悪感が広がっていた…。


…だが…


桃太郎

「…【桃太郎】…。」


…迷いながらも…桃太郎は名を名乗った…。


それは郷長の孫としての礼節や自尊心などでは決してなかった。


それは言うなれば…


桃太郎の【人を見る目】…。


白鬼と出逢ってから…


桃太郎は一度も感じていなかったのだ…


争いを生むはずの鬼から…


憎しみや殺意のようなドロドロとした不快感を…。


それを一切感じない白鬼には…


名乗っても良いと、桃太郎は判断したのだ…。


白鬼

「…俺は【夜叉丸】だ。

…助けてくれてありがとう。

…【桃太郎】」


白鬼も名を名乗った…。


嘘も偽りも無く…


自分にとっては敵であるはずの人間に…。


きっと白鬼も安心したのだ…


悪く言えば甘過ぎるとも受け取れる桃太郎の優しさに…


【信頼しても良い】と…


彼にそう思わせたのだ…。


その信頼から生まれた安心感…


安心感は油断となり…白鬼が今まで精神力で塞き止めていた疲労や痛みを増水した川のように氾濫させた…。


急な眠気と目眩に襲われて、瞼を開く事が出来なくなってしまった夜叉丸…。


彼は目の前に桃太郎がいるにも関わらず、岩にもたれ掛かったまま眠ってしまうのだった…。


唐突に…


そして無防備に…


吉備団子も水も、気が付けば食べ尽くしている。


張り詰めた表情はどこか柔らかくなっていて、静かに寝息を立てていた…。


その様子を見て一安心した桃太郎…。


…しかし…


桃太郎が完全に安心するのはまだ早かった…。


おばあさん

「…これは…まさか…


…桃太郎が…?」


桃太郎が夜叉丸の命を繋いだ達成感に満たされていた頃…


治療薬と食料が盗まれた事に気付いてしまったおばあさん…。


その拳は強く握り締められ…微かに震えていた…。


おばあさん

「…これは一本取られたね…。」


桃太郎と言う存在に対する認識が変化を見せ始めた…。


ハッキリと…


本人さえ自覚する程に…


しかし…


桃太郎はまだ、その重要さを理解出来ていない…。


これからその身に降り掛かる出来事が、皆の運命を左右する事も…


桃太郎が選ぶ行動が、この世界の未来に繋がっている事も…


…おばあさんが桃太郎を探すために準備を始めた頃…


…当の桃太郎は、郷の御神木である大きな桃の木がある丘の上まで来ていた…。


…ここは郷の誰もが訪れる場所でありながら、桃太郎しか知らない秘密の洞窟がある…


それは崖っぷちに生っている御神木の背中側…。


訪れる誰もが、その立派な外観に目を奪われてしまい、確認しようともしなかった場所…。


そこには人が数人程度は隠れる事が出来る空間があり、誰の目にも留まらないと言う意味では、夜叉丸を匿うのには打ってつけの場所だった。


桃太郎

「…ここなら…しばらくは…。」


桃太郎は迷った挙げ句、鬼である夜叉丸を助ける事に決めた。


それは夜叉丸の負ったケガが、どれも刀等の刃物を相手にした傷だったからだ…。


それは誰かと争った証明…


どこかで転んで出来る傷ではない…


夜叉丸が生き残っている以上、追手が迫っている事を意味する…。


しかし、夜叉丸が手当てをされた状態で見付かれば、郷の誰かが助けたと判断されて巻き添えを受け兼ねない…。


桃太郎は、本当は自分が夜叉丸を見捨てるべきであった事を理解していた…。


残酷でも…それが郷のためであると…


…しかし…


桃太郎

『…郷にはオイラの居場所はもう無い…。


寺子屋だって退学になった…。


ならば…


どうせ誰もオイラを追ってくる事も無いだろうし…


このまま1人で郷の外に逃亡してしまえば…


夜叉丸はそのついでに助けただけ…


もしも追手が郷に入って来たとしても…


オイラの事も…夜叉丸の事も…


何を聞かれても、郷の皆は知らないフリをしてくれるさ…。』


自分の価値を見出だせない桃太郎は、この時、やや自虐的になっていた…。


自分で自分を追い詰め、優しさとは別の意味で自分の事よりも他人を優先する。


…後先も考えずに…


気が付けば西の空に日は落ちて…


空には満月と、満天の星空が広がっていた…。


今も寝息を立てる夜叉丸を見守るために、洞窟の入り口で座して見張る桃太郎…。


その瞳はどこか遠くを見詰めながら…


それでも…


何かに絶望したような表情をしていた…。


桃太郎

『…取り敢えず…


オイラもここで一晩休もう。


夜叉丸をここまで運んで凄く疲れた…。』


自分よりも体格が良い夜叉丸を背負って桃の木がある丘の上を目指すのは、桃太郎には至難の業だった。


当然、運ばれていた夜叉丸も苦しかったかも知れないが、人一人担いで丘の上を目指すのは桃太郎にとっては地獄の苦しみ。


足の筋肉はパンパンに膨れ上がり、夜叉丸の身体を支える両腕は限界を迎え、夜叉丸を背負って前傾姿勢になっていた上半身は軋んでいた。


到着する頃には桃太郎の体力は底を尽き、夜叉丸をそっと寝かせると桃太郎も近くで倒れてしまった。


全身に汗をかき、肩で息をしながら達成感に心満たされる桃太郎。


達成感なんて感じるのはどのくらいぶりの事だろう?


初めて感じたような気もする。


気が付けば…


やっと見る事が出来るようになり始めた、郷の外に広がる風景…。


桃太郎は自分が少し落ち着き始め、冷静に周りが見えるようになり始めた事を自覚していた。


…広い…


今まで自分が見てきた世界よりも、圧倒的に…


何処までも続き、終わりなど無いのではないかと思わせる視界の果て…


そこにはいったい何があるのだろうか?


そこにはいったいどんな人が住んでいるのだろうか?


そして…


そこではいったいどんな事が起こっているのだろうか?


…一歩踏み出せば…


そこから先には自由があるような…


そんな不安と期待を桃太郎に感じさせていた…。


桃太郎

「…逃げたとしても…誰も悲しまないよなぁ…。」


楽になりたくて、つい現実から目を反らすような言葉を溢してしまう桃太郎。


だが、それでも良かった。


もう限界を通り越していた桃太郎にとっては…


それが強さでなくとも、本音を吐き出せるのなら何でもよかった。


自由に生きる事に伴う責任はまだ分からない…。


だがそれも今から経験して行けば良い…。


…まずは目の前にいるケガ人を守る事…。


それが自分で選んだ最初の自由…。


桃太郎は近くに転がる棒切れを手に取った。


御神木である桃の木の枝が折れた物だろうか?


これならば木刀変わりに使えるはず…。


桃太郎は手に取った棒切れを数回素振りして、その手応えを確かめた。


…ぼろぼろの棒切れなのに、手に馴染む気がする…。


次第に高まり始めた士気…


桃太郎の心の片隅に僅かに残った「逃げるものか」…


闘争心や勇気とは別の感情から生まれたそれが、桃太郎の握るただの棒切れを武器にした。


いつ誰が襲い掛かって来ても良いように警戒心を高める桃太郎。


足音だろうと…


それが例え虫の息だろうと聞き逃さないように耳を澄ませる…


…すると…


桃太郎の隠れる洞窟へと吹き込んだ優しい風…


それは桃太郎の髪を靡かせ…


夜叉丸の頬を撫で…


夜叉丸の眠気を、静かに奪い去って行った…。


深い眠りからゆっくりと目を覚ます夜叉丸…。


その目に真っ先に飛び込んで来た桃太郎の後ろ姿…。


続いて自分の周りの風景が気を失う前までの場所とは違う事に気が付く。


焦る夜叉丸…


しかし桃太郎に捕らえられた様子ではない…。


手当てされた自分を守るように洞窟へと運び込み、その入り口を警戒して見張っている…。


それらの事実は夜叉丸に1つの答えを導いた。


夜叉丸

「…守ってくれたのか?」


夜叉丸の声を聞いて、桃太郎は彼がやっと目を覚ました事に気が付く。


桃太郎

「身体…大丈夫か?」


振り向き様、桃太郎は何よりも先に夜叉丸の体調を気遣った。


あれだけの出血量と無数の深手を見てしまっては仕方がない。


夜叉丸も桃太郎の反応を見て、自分がどんな状態であるのかを理解する。


夜叉丸

「…俺は大丈夫だ。」


戸惑いながらも質問に答える夜叉丸。


桃太郎はその一言を聞いてホッと胸を撫で下ろす。


桃太郎は「良かった」と言葉を溢すと、肩から力を抜いて大きな溜め息をついた。


長時間 自分を守ってくれた桃太郎を見て、今はただ感謝するしかない夜叉丸…。


だが夜叉丸は不器用な性格をしていた。


礼を言いたいのに口からその言葉が出てこない。


「ありがとう」と言えば良いだろうか?


それとも「すまなかった」と言えば良いだろうか?


夜叉丸の中の天秤が、どちらを選ぶかで揺れている。


悩む夜叉丸の様子を見て、桃太郎も何か声を掛けた方が良いのかと悩み始める。


だがやはり、桃太郎も何と声を掛けたら良いのか分からない。


しばらくの間続いた無言の時間…


2人共がどちらからとなくその空気を破ろうとしていた時…


突然…


2人がいる洞の中に大きな音が響き渡った。


その大きく気の抜けたような音は桃太郎の腹の虫。


今日の桃太郎は朝ごはんしか食べていなかった。


昼飯前に寺子屋を追い出され、今はいつもなら夕飯を食べている時間帯。


緊張感が解けた今の桃太郎は、思い出したように腹を空かせていたのだ。


洞窟の中で反響して大きくなった音が洞窟の外側まで響き渡る。


誰かに聞かれたのではないだろうか?


いや、そもそも目の前の夜叉丸に聞かれている。


そう思うと、桃太郎は赤面し慌てていた。


焦りながら腹の音の言い訳をする桃太郎に驚き、喉元まで出掛かっていた言葉を再度見失う夜叉丸。


だがそれが、反って2人の緊張感を解いていた。


桃太郎

『くそ…。

格好良く立ち去るつもりでいたのに…。』


頭を抱えて何やら落ち込んだ様子の桃太郎…。


そんな桃太郎に和んだのか、夜叉丸は口角を少し上げて微笑んだ。


桃太郎になら、少しくらい気を許してもいい…。


夜叉丸がそう感じた…


その時…


【彼女】は唐突に現れたのだった…。


「桃太郎見ぃーっけ!」


桃太郎

「さ、桜ぁッ!?」


桃太郎と夜叉丸が身を潜める洞窟の出口。


その上から覗き込むようにして身を乗り出して現れた桜。


桃太郎を見つけると桜は満面の笑みを見せ、体操選手のように身を翻して洞窟の出口に着地する。


すると彼女は、いつものように空気を読む事なく勝手気ままに洞窟の中まで入ってきて、まるで当然であるかのように桃太郎の手を取った。


突然の出来事に驚き戸惑う桃太郎。


混乱しているせいか、桜の手を上手く振り払えない。


何とか説得して解放してもらおうと考えていた桃太郎だったが…


桜には桃太郎を行かせるつもりは毛頭無かった。


「こんな遅くまでこんな所で何してたん?

皆も桃太郎はどけぇいったんじゃ?言うて探しとったんよ?」


桃太郎と話しながら桜は夜叉丸の存在に気付く。


その人間離れした容姿と、頭部から突きだす鋭利な角。


桜は一目で夜叉丸が何者なのかを理解した。


「…鬼?」


一方、夜叉丸も心の準備は出来ていた。


桜が答えを出した瞬間を狙い、洞の出口に向かって一直線に駆け抜ける夜叉丸。


それはまるで突風のように…


力強く…乱暴に…桃太郎と桜の隣を、殺気混じりの闘気を放ちながら駆け抜ける…。


そのあまりの走力に驚いている隙に、夜叉丸の姿は何処にも見当たらなくなっていた。


突然 視界から消えた夜叉丸を追って、洞窟の出口に向かって走る桃太郎と桜。


洞窟から駆け出した二人を出迎えたのは、辺り一面に響き渡る笑い声だった。


振り返り様、御神木を確認する桃太郎と桜。


そこには…


御神木の枝に立ち、二人を見下して嘲笑う夜叉丸の姿があった。


先程までとは打って変わって冷酷な笑みを浮かべる夜叉丸に、桃太郎も戸惑いを隠せない。


だがその謎は直ぐに解ける事となる。


夜叉丸

「人間の子供よ、俺の脅迫に乗ってくれてありがとう。


お陰で十分な傷の手当てができた。


これでまた暫く人間狩りを楽しめそうだ…。」


【脅迫】なんかされていない。


それが演技である事は桃太郎でも直ぐに理解できた。


むしろこれは桃太郎にしか分からないように伝えられた暗号の言葉。


隣で見ている桜にも今の会話の意味は分からないはずだった。


だが演技が下手な桃太郎が余計な言葉を口にすれば夜叉丸の演技が台無しになる。


それゆえ桃太郎は、今も手に握る桃の木の棒切れを木刀のように構え、夜叉丸を威嚇するような姿勢をわざと見せていた。


夜叉丸

「…次に会う時はまずお前の首から狙う。

一瞬で楽にしてやるよ。

それがせめてもの礼だ。」


桃太郎にそう告げると夜叉丸は今度こそ姿を消した。


一瞬にして何処かへと走り去る夜叉丸…。


桃太郎の耳には、既に彼の足音さえ聞こえなかった…。


桃太郎

『夜叉丸…。

最後にオイラを守ろうとしてくれたのか?』


構えを解いた桃太郎。


その視線は今もまだ、夜叉丸がいた御神木の枝を見つめていた。


話したかった事がまだあった…


いつかまた…


何処かで会えたなら…


それを話す事が出来るのだろうか?


…そんな疑問を抱きながら…


「…なぁ桃太郎?

桃太郎はあの鬼を助けたん?」


…しかし、桃太郎の思考はすぐに現実に引き戻された。


嫌がる桃太郎の手を引いて郷に戻る桜。


そして桜は桃太郎をおじいさんとおばあさんに突き出し、彼女の知る一部始終を嘘偽りなく伝えてしまった。


「あんなぁ!

今日 桃太郎が寺子屋を追い出されたんぉ!


それでな! 桃太郎優しいから鬼の手当てしててな!


そしたらその鬼がズバーッと私達の横を駆け抜けたもんじゃから私達で追いかけてな!」


桃太郎

『あ…。

これって、この後オイラ殺されるやつだ…。』


おじいさんとおばあさんから向けられた攻撃的視線を一身に受けて、桃太郎はこの後起きるであろう悲惨な運命に覚悟を固めようとしていた…。


これが人生最後の夜になるかも知れない…


桃太郎は話の終わりを待ちながら、自分の人生を呪っていた…。



…一方、夜叉丸は郷の外側を囲む森の中に身を潜めていた…。


それはまるで外敵からその身を隠すかのように…。


夜空に浮かぶ満月を見つめながら夜叉丸は思い出していた。


今日、その目で見てきた事を…。


夜叉丸

『…【桜】と呼ばれていたか?


…不思議な女だ。


この俺がこの発達した聴覚で歩み寄る足音にさえ気付けなかった。


これは油断していたからではない。


…あの女は一体…?』



夜が静かに更けていく。


闇夜を照らす優しい月明かりは、今も舞う桃の花びらと…


ボコボコにされた桃太郎をただ黙って照らしていた…。


桃太郎

「桜…

絶対に殺す…。」


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