29話「欠片を重ねる」

 私と同じく長期入院していた少女。名前は「天音」であったと辛うじて思い出すことが出来た。


 天音とは入院中、何度も顔を合わせた。話が出来る同年代の子供は院内には珍しく有り難い存在であった。


 彼女には私が夢を見ないことについて話をした覚えがある。


 夢の中での言葉と幼い少女の外見。夢の世界の管理者たる少女が天音であると推察できる状況証拠は揃っている。


 だが、天音は既に亡くなっている。私の入院中に。


 幼い私はひどく悲しんだ。その記憶を封じ込めてしまうほどに。


 無意識も記憶も夢も、全て制御出来る私は天音の記憶に重たい蓋をした。無意識が存在せず自らの内面ですら自在に操ることのできる私は、その記憶を思い出さないように鍵をかけた。今では天音の顔を思い出すことは出来ない。


 入念に封印された記憶を解こうとしても、それは堅牢に閉ざされたままだ。ゆっくりと慎重に呼び起こしていくしかない、多大な疲労感を伴う作業だ。


 亡くなった天音が実は生きていたなどとは思っていない。彼女の姿を知っていることが問題だ。


 夢の中の姿が現実世界の姿と全く同じであることはなく、夢の少女ほどの明晰夢であれば、その外見も自由自在に扱える可能性がある。


 問題はその姿が精巧に再現されたものであるということだ。少なくとも管理者の少女は、その姿に関する詳細な記憶を有している。


 天音は難病で長期入院を余儀なくされていた。私の記憶では退院したことはない。ずっと病院にいた。


 天音の交友関係は限られており、病院関係者を除けば天音の姿を知っている人物は少ない。


 私は天音の苗字も親族の存在も入院していた詳しい理由も知らない。


 記憶を掘り起こすのを一時休むと車内で流れていたニュースが頭に入ってくる。


 新宿の街中で人々が突然パレードのような暴動を起こしているという速報が入る。それを迂回するために交通網の一部が麻痺しており、私の乗った車も足止めを食らった。脳内に描かれていた経路図と到着予定時間が随時修正されていく。殺傷事件にて指名手配中であった容疑者の女が、都内で発見されるも警察官を刺して逃走中との速報が続く。


 そんな中、葉久磁氏から通話が入った。


「分かるか。夢を止めるだけでは現実は変えられない」


「それを呪って何になるのですか」


「私は認めん」


 意を決したような口ぶりに私は問い返そうとするも通話は途切れた。何度か通信を試みるが応答はない。


 病院に到着し担当医を訪ねるも、一切の手がかりを得ることはできなかった。私の担当医は天音という名に反応こそ示したものの、幼い私が傷ついていた過去を労わるのみであった。


 病院を出たところで私を待っていたのは音津氏の姿であった。彼は夢の世界で葉久慈氏に対して仇をなし側近の任を解かれた。その際の葉久慈氏の口ぶりから察するに彼に遣いを頼むとは考えづらいが、それを肯定するように言う。


「個人的な依頼があってきました」


「個人的?」


「ベトガーにいる同僚から今朝連絡がありました。代表が予定を全て取りやめ、鎮静剤を使用したと」


「鎮静剤? 何のためにですか?」


「代表は夢の世界で何かを成し遂げようとしていました。夢の世界に居続けるために無理矢理眠ったのではないかと」


 覚醒中の意識では夢の世界に接続できない。その制約を無理矢理に突破する為の手段ということだろうか。あまりにも危険な行為だ。


 そうまでして葉久慈氏には夢の世界に潜る理由がある。私に語っていない何か別の目的があるのは、今までの状況証拠から推察するに間違いないだろう。


「私の忠誠心を試したのも、その為かもしれません。夢の中という取り繕えない領域で無意識の全てを量る。代表は真の忠誠心を望んでいたのでしょう。夢の世界で代表が成し遂げようとしている目的の為には誰の裏切りも許されない、と」


「あなたは、それを持ち合わせていなかったということですか?」


「正直分かりません。代表への傾倒や執着の根底にある感情が、嫉妬や憎悪の混じったものではないと言いきれません。尊敬の感情が恐怖や畏れであったかもしれません。殺意という形で悪夢に変換された感情が本当はどのようなものであったのか私に説明が出来るものでしょうか。抱えている感情の全ての意味を、一体誰が理解できているというのでしょうか」


 それは暗に、私は普通ではないと言い聞かされているかのようで。


 音津氏は言葉を続ける。


「人は無意識を制御なんて出来ません。そこから生れ出る感情も同じです。私達に出来るのはあくまでそれを如何様に行動で示すかだけです。少なくとも、それがどんな感情で生まれたものであったとしても、私が敬意と貢献を行動で示してきたのは確かです」


 本当はそれだけで十分な筈だった。


 他者が触れ得る領域は人の一番外側だけであり、人はその振る舞いを以て他者の内面を推察する。


 突き詰めれば真実など存在しない。


 他者の内面は誰も触れられない、誰も観測できない不可視領域なのだ。


 だが、夢の世界によって不可視領域は消え失せつつある。人の無意識を事象として具現化する世界、人が隠してきた全てを可視化する世界によって。


「代表が今見ているのは大いなる夢だと信じたい。ですが、それが悪夢であるなら。救い出すことが出来るのはあなただけです」


 音津氏の言葉に私は問い返す。


「それは確かな根拠のある推察ですか?」


「いいえ、予感です」


 それは衝動とでも呼ぶべきものであった。


 音津氏と別れ自宅に戻ってきても麻木の姿はなかった。私はベッドに身を倒し夢の世界へと意識を沈み込ませる。


 悪夢の予感がした。


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