第2話 声を欲した蝶
「え!? 階段から転けたの? 怪我はないの?」
「あー、うん大丈夫。ちょっと腰打って頭ぶつけただけだから」
平気なフリする彼女の頬は僅かに腫れていた。腰を打ったというのなら、顔は傷つかないはずだ。でもそれを話さないということは隠しておきたいことなのだろう。笑う彼女と目線は合わない……そう思ってた。俺の視線に気付いたのか彼女の丸眼鏡越しに目があった。
黒い瞳は昨日よりも淀んでいた。生物室にいる金魚と同じ瞳をしていた。助けを求めていると誰もが思うだろう。しかし、あれは諦めてる目だ。声を、掛けようか。いや、掛けたところで何が変わる?
「右蝶? お前錦戸ばっかみてどうしたんだ?」
友人の一人がニマニマといやらしい笑みを浮かべながら小突いてくる。別にそんな意味じゃないのに言われるのは心外だ。彼女とは別になにもない。好意なんてものは存在せず、抱いているのは、かつて家族に向けていた親愛に等しい。そんなことを知らない友人は笑みを浮かべたままで、実に楽しそうだ。この雰囲気を壊す訳にはいかない、適当に合わせるしかない。
「ん? 別に何でもない」
「嘘つくなよー! お前、意外と素朴なタイプがいい感じ?」
「別にそういう感情はねぇよ。手当り次第なお前とは違うんだよ」
笑いながら小突き返す。友人は満足そうに笑って全く関係の無い話を広げ始めた。楽しげに話す彼に対して感情も興味も冷めきっていた。それでも悟られないように、同じ言葉を繰り返し話しては時々笑う。これをしているだけで会話は弾んでいるように見える。結局、自慢話ばかりの薄い会話になんの意味があるのだろうか。
彼女とはそれ以降目が合うことはなかったが、いや、お互いに意識的に逸らしていたのかもしれない。それでも今日も生物室に彼女はやって来る、そんな気がした。あそこは俺達にとって唯一、気を遣わなくていい場所だから。
──────────……
放課後、生物室を訪れると彼女はいつものように金魚鉢を眺めていた。その横には珍しく、白い蝶が入ったケースが置かれていた。誰かが持ってきたのだろうか。
「……来ると思ってた」
「俺もいると思ってた」
「部活だからね」
「曜日ごとに当番が変わるのにか?」
痛いところをつかれた彼女はため息をついたあと、黙り込んでしまった。覗き込むようにして彼女の顔を見ると、未だにその瞳は淀んでいた。しばらくの沈黙、彼女は淡々とした口調で話し始めた。
「私が行く大学、家から近いし何を目指して勉強してるのか分かんないから嫌だった。だからその事を家族に伝えたの。そしたら……酔った父に突き飛ばされて、太腿殴られちゃった。まぁ、青アザだけで済んでるし、腰と頭が痛いだけだからどうってことないけどね」
苦笑する彼女の目はやはり乾いていた。よくあることなのだろうか。先にやってきたのは同情でも悲しみでもなかった。尊敬だった。
「凄いな、ちゃんと親に言えてさ。俺は言えなくて困ってるから……よくさ、相手に意見を言うことが大切って言うけど、相手に変わって欲しくて意見してるのに変わってくれないと、言っても無駄になるよな。あぁ、こいつには何を言っても意味が無いんだろうってなるよな」
「……分かる。言うだけ無駄なんだよ。だから私はもう何も言わない。どうせあの人達から逃げれることなんてないんだから」
「そうなんだよな。どこに逃げたって繋がりは断てないし、断ったところで一人で生きていける自信はない。反骨精神なんて芽生えずに暮らしてきたんだから」
慰め合いなんてしない。かと言って責めたりはしない。胸の内に溜めすぎた感情と言葉を結びつけて吐き出し続ける。俺達より上の世代はきっとこう言うだろう。『生意気な奴らめ』『ガキが一丁前に語るな』『考えがまだ幼い』そうやって否定していくんだろう。
確かに、幼くて、未熟で、子供で、生意気だけどこれ以上我慢なんてしてられない。楽しそうに日々を謳歌する彼らを見ると自分を見失いそうになる。何故、俺は家族のことや将来のことを一人で悩まなくてはならないのか。自分が嫌いだ。
「右蝶も何かあったの?」
「え?」
彼女は何も言わず、すっと俺のめを指さした。あぁ、隈が出来ていたのか。最初は苦笑して何とかその場をやり過ごそうと思った。
思った……だけど、彼女になら話してもいいのかもしれない。
「俺の父さんさ離婚してて、今は彼女がいるんだ。その彼女は通い妻みたいにほとんど毎日来る。家に帰ればご飯作ってて、おかえりって言われて……父さんも彼女優先だから家から追い出された時もあった。ホテルに泊まった時もある。俺の家なのに居場所はない。だから早く出ていきたかったんだ」
「そう、だったんだ。家族ってさ、変わらないものだと思ってた。ずっと安定したまま続いて、落ち着いて……でも実際は他人。その人の気持ちなんて分かりはしない。右蝶のとこだって彼女さんを優先するという考えが出来るほど欲に忠実。どこにいても自分の居場所なんてありはしない」
そう語る錦戸の表情は俺とよく似ていた。諦めてはいるものの、どこかで変わってくれるかもしれない。なんて、甘苦い夢を抱いている。叶いもしないのに、変える勇気もないくせに、声をあげようとも離れようともしないのに。
ケースの中にいた白い蝶が突然飛び始めた。しかし、ケースの中は狭くて
「その蝶ね、部員で虫好きな人がいて持ってきたんだ。日数はそんなに経ってないけど、こんな環境だからなのか弱ってるの。この金魚と同じようにいつ死んでもおかしくないんだよね」
「じゃあ元野生?」
「うーん、その部員曰く家で卵から育てたうちの一匹で今まで飼ってたんだけど、この子だけ体が弱かったみたい。隔離するためにこの子だけ連れてきたみたい。だからこの子も外の世界を知らない」
「そっか……なんだか似てるな」
金魚鉢にいる金魚とケースにいる白い蝶を見る。似ているのは俺と錦戸もだ。もし、錦戸と血の繋がりがあれば支え合えたのだろうか、温もりを知れたのだろうか。
「それは……金魚と蝶が? それとも、右蝶と私が?」
「どっちもだな。錦戸といると落ち着くし、何でも話せる。こんな暗い話してごめんな」
そう言うと錦戸は首を横に振った。
「私も暗い話したからお互い様。でも、右蝶といると話しやすいのは同じ。お姉ちゃんにも話せないこと話せちゃう。私達、きょうだいだったら良かったのかもね」
「きょうだいか……じゃあ俺がお兄ちゃん?」
「まさか。私がお姉ちゃんだよ」
錦戸はそこで初めて自然な笑みを向けた。ドキリとせず、ただただ安心した。あぁ、これは恋ではない。親愛だ。錦戸は俺と同じ『
「じゃあ、双子だったら良いんじゃね?」
「双子かぁ。じゃあ、右蝶が落ちぶれた時、私も落ちぶれてあげる」
「じゃあ俺は錦戸が落ちぶれた時、落ちぶれてやるよ」
肩を寄せ合いながら二人で静かに笑った。昔、家族もこんな感じだったのにな……
─────────……
「おかえりなさい、右蝶くん」
帰ってくると、出迎えたのは父さんではなく父さんの彼女だった。今日も仮面のように分厚い化粧と鼻が曲がりそうなほどに甘ったるい香水が鼻を刺激する。嫌な顔なんて出来るわけなく、ただ笑みを浮かべた。
「ただいま」
「今日はね、オムレツを作ったの! 右蝶くんが好きかなぁーって思って作ったの! きっと気に入るわ!」
「そ、そっか……父さんは、まだ帰ってないんだね」
「そうなのよ。だから今家にいるのは私と右蝶くんだけよ」
彼女はご自慢の胸を俺に当てながら甘く囁く。一体この女の何がいいのだろうか。むせ返るような匂いに吐き気で目の前がクラクラしそうになる。今すぐにでもひっぺがしたい。だけど、こいつは仮にでも女性だ手を挙げるのは──────
「私ね、右蝶くんが好きよ」
気づいた時には押し倒されていた。馬乗り状態になった彼女は更に密着させ始める。鳥肌が止まらない、冷や汗が止まらない、触らないでくれ、触るな、汚い汚い!!
「あんな父親だから冴えない息子だと思ってた。でも違った。本当に顔が私好み! 私、右蝶くんのためならなんだってするわ。右蝶くんとの子供だって産めちゃうわ!」
俺は一体何と相手してるんだ? 目の前にいるのが盛った猛獣にしか見えない。嫌だ、怖い、気持ち悪い、触るな! 触るな!
「お、俺は無理です! いいから離れてください!」
大声を出して彼女を軽く突き飛ばす。彼女は痛いと泣く演技をしているが、俺としては寒気が止まらなかった。父さん、父さん! 助けて、この女とはやっていけない!
そう思った時、玄関の扉が開いた。そこに居たのは驚いた顔をした父さんがいた。
「父さ────」
「聞いて! 右蝶くんが急に突き飛ばして来たの!」
俺よりも先に彼女は父さんに泣きついた。父さんは、父さんはそんなこと信じない。そう縋るような思いで父さんを見るも、そんな希望は打ち砕かれた。汚いものを見るかのような目をした父親とざまぁみろとでも言いたげな顔をした彼女だった。
「ふざけてるのか! 彼女は妊娠しているんだぞ!!」
最後に聞こえた怒号はあまりにも衝撃的で、俺の中で耐えていた何かが事切れた瞬間だった。
その後の事は覚えていない。
気づけば、傷だらけのまま部屋のベッドに寝そべっていた。下の階からは父親の怒号が響き渡っており、扉の向こうからは彼女の声が聞こえてきた。
「ガキが、大人の言うこと聞かないからこうなるんだよ。でも弱いねぇ、実の父親を殴りもしないなんて……もう、あんたは用無しだよ。さっさと出てって欲しいもんだよ」
冷たい彼女の声が聞こえてきた。もう腹も立たなかった。見事に顔だけは狙われず、傷はついていなかったが腕や足わ腹には赤い傷と青アザが数え切れないほどあった。どうやらサンドバッグにされたみたいだ。
「……結局何も言えなかったなぁ」
錦戸のように自分の意見は何も言えなかった。あぁ、もうつかれた。どこかへ行く気も失せた。スマホには錦戸からの着信があった。凄いな、こんな時でも電話してくれるなんて……なんで錦戸と双子じゃなかったんだろう。
「もしもし、錦戸……一緒に落ちぶれてくれるか? 俺、疲れた」
そう伝えるとスマホを叩き落とした。目の端に映ったのはネクタイとドアノブであった。この家に居場所はない。俺にも何か言える力があればな……
「あ、蝶は囀らないか。だったら仕方がないな。なぁ、錦戸……お前も同じ虫螻なら落ちぶれてくれよ」
アドレナリンでも出てるのか笑いが止まらなかった。もう、未練はない。来世は金魚にでもなろうかな。
窓の外から見える星々を見つめながら視界は暗転していった。
飛ぶことも囀ることも出来ない蝶は、傷だらけで死にかけの金魚に縋った。
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