3、はじまりの夜
その日はなぜか村のみんなが優しかった。
愚痴ばかりでいつも八つ当たりしてくる母も、寡黙ですぐに手をあげる父も、
すっかり満たされて眠っていた雨昏は、夜半、地面の揺れと雨のにおいで目を覚ました。だが体を動かそうにも動かない。手足は縄で縛られ、水甕のような狭い箱に入れられて運ばれているようだった。さいわい、声をあげることはできた。
「ねえ誰! お願い、縄をほどいて!」
返事はない。
聞こえてくるのは、地面を打つ雨音と、泥濘んだ道を進む足音だけだった。
雨昏は助けてと叫び、内側から箱を揺らし続けたが甲斐はなく、二度ほど吐いて箱の底でぐったりとした。
やがて足音がとまり、頭上の蓋が開けられる。見上げた夜空からなまぬるい雨が降り注いだ。雨昏は父の手で抱きかかえられ、背負われた。灯りのない険しい山道を、父は這うようにして登っているようだった。
「おとう、おろして」
雨昏は震える声で言った。恐怖がないわけではなかったが、それより寒くて仕方がなかった。縛られたままの手足は自由がきかないほど痺れている。
「おとう、おねがい、もうわがまま言わないから……」
「いいんだ。もうわがままを言っていいんだ」
「だったらおろして、家に帰りたい。この縄もほどいて」
「すまないが、それだけはできないんだ。すまない」
いつもと風が異なるのか潮のかおりはほとんどせず、雨に濡れた土と繁ったばかりの草の青いにおいが満ちていた。父の首筋からは燻されたような懐かしいにおいがする。雨昏はそこへ額をこすりつけながら、いい子になるからと繰り返した。けれど父がそれに応えることはなかった。
岩場の隙間に、長年風に晒された朽ちかけの祠がある。父はそこへ雨昏をおろした。父の袖を掴んで引き留めたかったけれど、縛られた両手では叶わない。熱があるのか、体が熱くて、寒い。せめて置いて行かないでと伝えたかったが、舌がもつれてうまく声にできない。雨か涙かわからないが、視界が歪む。父は雨昏の視線を避けるようにして足早に去っていった。
隙間風のような息が口からもれる。雨昏は冷えきった岩場に体を横たえたまま、次第に雨がやんでいくのを頬で感じ取っていた。閉じた瞼の裏が滲むように明るくなった気がして目をひらくと、いつしか夜空は晴れていて、星々がこぼれそうなほどひしめきあっていた。
いつもの潮風が吹く。
「ずぶ濡れだね」
そう声がして、雨昏はすぐそばに人がいることに気づく。うつくしい男だった。兄くらいだろうか、いやそれよりもっと大人びて見える。だとしたら雨昏より十五ほどは年嵩だろうか。そんなことを考えていると、彼は雨昏の頬に張りついた髪を少し伸びた爪の先で払い、冷たい肌に触れた。あとから思えばそれは冷たくも温かくもない指先だったけれど、そのときの雨昏にはどんな肌よりあたたかかった。
男は赤銅色の瞳をすらりと細くして笑う。
「ぼくのところへ来る?」
雨昏は力を振り絞ってうなずく。男の尖った指先は頬から耳を撫で、首筋をなぞり、ふくらみはじめた乳房のふちをたどると、臍のまわりをぐるりと引っ掻いた。
「もう、もとの生活には……家へは帰れないよ。それでもいいんだね」
「いい……」
息を吐き出すようにして掠れた声で答えると、男は雨昏の体を抱き起こして、刃物で切るようにして縄をほどいた。
男はじっと雨昏の黒い瞳を見つめて言う。
「うつくしいね。いいよ、おいで。……そうだな、きみは今日から雨昏だよ」
ぼくのことは
ふいに潮騒が聞こえて、雨昏は閉じていた目を薄くひらいた。
「虹惟……」
頼りない呟きはどこへ響くこともなく、雨昏の胸もとで小さく砕ける。ああ、と噛みしめる思いがある。夢を見ていたと思い返す。虹惟に出会ったあの日の、夢にも思える出来事。まだどこか夢のなかにいるような心地もあった。だが身をよじろうとして、自分が椅子に拘束されていることに気づいた。
唐突に現実へと引き戻される。
(そうだ、たしか虹惟がいなくなって、それから……そう、
雨昏は部屋のなかへと視線を向けた。
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