3、はじまりの夜


 その日はなぜか村のみんなが優しかった。

 愚痴ばかりでいつも八つ当たりしてくる母も、寡黙ですぐに手をあげる父も、雨昏ユーフアンの重湯をへつる姉も、酒浸りで滅多に帰ってこない兄も、まじないごとのために朝夕の祈りを強要してくる祖母も、石や死んだ蛙を投げつけてくる幼馴染みも、そんな息子を野放しにして溺愛するその両親も、借金を返せと怒鳴る村長もみな、見たこともないような豪勢な食事を雨昏の前に並べて、好きなだけ食え、足りないならまだ持ってこさせる、こっちの魚はどうだ、いや鶏がいいと忙しなくすすめてくる。さらに花嫁衣装にも似た刺繍の美しい長衣を与えられ、擦りむいたままだった膝には清潔な包帯を巻いてもらった。

 すっかり満たされて眠っていた雨昏は、夜半、地面の揺れと雨のにおいで目を覚ました。だが体を動かそうにも動かない。手足は縄で縛られ、水甕のような狭い箱に入れられて運ばれているようだった。さいわい、声をあげることはできた。

「ねえ誰! お願い、縄をほどいて!」

 返事はない。

 聞こえてくるのは、地面を打つ雨音と、泥濘んだ道を進む足音だけだった。

 雨昏は助けてと叫び、内側から箱を揺らし続けたが甲斐はなく、二度ほど吐いて箱の底でぐったりとした。

 やがて足音がとまり、頭上の蓋が開けられる。見上げた夜空からなまぬるい雨が降り注いだ。雨昏は父の手で抱きかかえられ、背負われた。灯りのない険しい山道を、父は這うようにして登っているようだった。

「おとう、おろして」

 雨昏は震える声で言った。恐怖がないわけではなかったが、それより寒くて仕方がなかった。縛られたままの手足は自由がきかないほど痺れている。

「おとう、おねがい、もうわがまま言わないから……」

「いいんだ。もうわがままを言っていいんだ」

「だったらおろして、家に帰りたい。この縄もほどいて」

「すまないが、それだけはできないんだ。すまない」

 いつもと風が異なるのか潮のかおりはほとんどせず、雨に濡れた土と繁ったばかりの草の青いにおいが満ちていた。父の首筋からは燻されたような懐かしいにおいがする。雨昏はそこへ額をこすりつけながら、いい子になるからと繰り返した。けれど父がそれに応えることはなかった。

 岩場の隙間に、長年風に晒された朽ちかけの祠がある。父はそこへ雨昏をおろした。父の袖を掴んで引き留めたかったけれど、縛られた両手では叶わない。熱があるのか、体が熱くて、寒い。せめて置いて行かないでと伝えたかったが、舌がもつれてうまく声にできない。雨か涙かわからないが、視界が歪む。父は雨昏の視線を避けるようにして足早に去っていった。

 隙間風のような息が口からもれる。雨昏は冷えきった岩場に体を横たえたまま、次第に雨がやんでいくのを頬で感じ取っていた。閉じた瞼の裏が滲むように明るくなった気がして目をひらくと、いつしか夜空は晴れていて、星々がこぼれそうなほどひしめきあっていた。

 いつもの潮風が吹く。

「ずぶ濡れだね」

 そう声がして、雨昏はすぐそばに人がいることに気づく。うつくしい男だった。兄くらいだろうか、いやそれよりもっと大人びて見える。だとしたら雨昏より十五ほどは年嵩だろうか。そんなことを考えていると、彼は雨昏の頬に張りついた髪を少し伸びた爪の先で払い、冷たい肌に触れた。あとから思えばそれは冷たくも温かくもない指先だったけれど、そのときの雨昏にはどんな肌よりあたたかかった。

 男は赤銅色の瞳をすらりと細くして笑う。

「ぼくのところへ来る?」

 雨昏は力を振り絞ってうなずく。男の尖った指先は頬から耳を撫で、首筋をなぞり、ふくらみはじめた乳房のふちをたどると、臍のまわりをぐるりと引っ掻いた。

「もう、もとの生活には……家へは帰れないよ。それでもいいんだね」

「いい……」

 息を吐き出すようにして掠れた声で答えると、男は雨昏の体を抱き起こして、刃物で切るようにして縄をほどいた。

 男はじっと雨昏の黒い瞳を見つめて言う。

「うつくしいね。いいよ、おいで。……そうだな、きみは今日から雨昏だよ」

 ぼくのことは虹惟ホンワイと呼んでと囁き、言葉の最後は重なり合う唇のあいだに消えた。雨昏はまさぐるようにして差し入れられる彼の長い舌を受けとめながら、腹の奥底が鈍く脈打つのを不思議に思っていた。

 ふいに潮騒が聞こえて、雨昏は閉じていた目を薄くひらいた。

「虹惟……」

 頼りない呟きはどこへ響くこともなく、雨昏の胸もとで小さく砕ける。ああ、と噛みしめる思いがある。夢を見ていたと思い返す。虹惟に出会ったあの日の、夢にも思える出来事。まだどこか夢のなかにいるような心地もあった。だが身をよじろうとして、自分が椅子に拘束されていることに気づいた。

 唐突に現実へと引き戻される。

(そうだ、たしか虹惟がいなくなって、それから……そう、宵青シウチェン!)

 雨昏は部屋のなかへと視線を向けた。

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