8月(下)

 のんびりと昼食をとってから駅前で浹や市村と別れ、燈子と綾華は寮に戻った。玄関の鍵を開けるよりも早く、電話のベル音が耳に届く。

「ん? 電話鳴ってんな」

 旧型の黒電話の呼び出し音はとにかくやかましい。ジリリリリリリと、今時目覚まし時計でもあまりない甲高いベルの音が、一定のリズムで繰り返されている。

「あー、はいはい出ます出ます」

 相手には決して聞こえない、無意味な受け答えをしながら、鍵を差し込む。その間も、呼び鈴は鳴り続けていた。

 何しろアナログ式の黒電話だ。当然、留守番電話機能などついていない。いや、正確にはこれまた旧式のカセットテープ型録音機――いつの時代のものなのか、見当もつかない――があるにはある。だが長年使い込まれたテープは雑音が酷く、まともに録音を聞き取れないほど傷んでいる。おそらく短時間なら録音できないこともなかろうが、替えのテープも手に入らない昨今、よほどの緊急時でもなければ使う事のない、どのみち使えない代物である。

 これまでの長い年月、なぜだれも電話機の買い換え申請を出さなかったのか。それとも出しても通らなかったのだろうか。そこまで考えて、後者の方がありそうだなと燈子は内心で苦笑した。

「せめて転送機能くらいつけてほしいよなあ」

 電話会社と契約を結べば、燈子の携帯に着信を転送できるはずだが、果たしてその予算が下りるだろうか。否、下りるはずもないし、今更契約する意味もない。そんなことを考えながら手早く解錠し、受付横から駆け込むように寮監室へと入る。

「――お待たせしました。楓葉館です」

 急き込むように受話器に向かって声を発する。ほんの数秒、沈黙が流れた。

『私、早村と申しますが』

「ああ、昨日の」

 昨日と同じ男の声に、燈子は頷いた。名乗るまでに少し間が開いたのは、ちょうど通話を切ろうとしていたからだろうか。慌ただしい燈子の出方に引かれたわけではない、と思いたい。

「申し訳ありません、所用で少々席を外しておりましたもので」

 案の定、留守の間に何度か掛けてきていたらしい早村にそう応じながら、燈子は視線を巡らせた。窓口のガラスの向こうに、脱いだ靴を片付けながらこちらを気にする綾華の姿が見える。

 どうしたもんか、と燈子は思案した。受話器の向こうからは、綾華に繋いでほしいという早村の声が聞こえる。丁寧だが、どこか上からの物言いに「慇懃無礼」という言葉が脳裏を過った。

『――もしもし?』

 反応の薄さか、それとも留守にしていたせいか。早村の声に若干の苛立ちが覗く。

「はい、なんでしょう」

 おそらくこちらが本性だろうな、などと考えながら応じる視線の先では、ガラス越しに不安げな綾華が燈子を見つめていた。

 それを眺めながら、燈子は傍らに投げ出したままだったカバンからスマートフォンを取り出し、手早く画面を操作する。

『……本当に、そちらにおられるのでしょうね?』

「はあ」

 相手の意図を掴みきれず曖昧に応じると、早村の声音がややねっとりとしたものに変わった。

『そちらの寮には住んでおられないのでは?』

「……はあ?」

 思わず低い声が出かけた。眉が僅かに寄せられる。

「どういう意味でしょう」

『いるなら出せるでしょう。本家のお嬢様に悪い遊びを覚えてもらっちゃ困るんですがねえ』

 もはや昨晩の温厚な番頭然とした印象は微塵もない。口調だけは丁寧ながら、下衆の勘繰りとしか言いようのない発言だ。

「……お疑いでしたら、どうぞ確認にお越し下さい。ただし規定上、ご両親もしくはご兄弟以外のご面会は承りかねますが」

 今すぐ通話を叩き切りたい気持ちを抑え、燈子は事務的にそう告げた。こういう品性の下劣な輩に真っ向から感情を出せば、却って付けいる隙を与えてしまう。

「あるいは、ご両親様に直接お電話口までおいでいただけましたら、取り次ぎも致しますが」

 言外に、お前はお呼びでないと告げる。受話器の向こうから、ぴきりと青筋の立つ音が聞こえた気がした。ふん、と荒い鼻息が古びた受話器のノイズ音に紛れて耳に届く。

「昨日も申しました通り、ご使用人頭とはいえ、赤の他人の、しかも男性に、本人確認もせずおつなぎすることはできかねます」

 そう言うと、燈子は口元にゆったりと笑みを刷いた。電話の向こうには見えないその微笑は、綾華に向けたものだ。

「お気を悪くされましたら申し訳ありませんが、寮生を守るのも私の職分ですので、ご理解いただければ幸いです」

『……管理人の分際で』

 ぼそりと、おそらくは独り言のつもりであろう言葉が耳を打つ。あんたも似たような立場だろうとは思っても言わない。

「お電話があった旨は桐邑さんにお伝えいたします。では、失礼致します」

 最後まで丁寧に。そう告げると、燈子は受話器を下ろした。ついでに、右手に持っていたスマホの画面もちゃちゃっと操作してから、廊下に出る扉を開ける。

「お待たせ」

「……燈子さん……」

「いやあ。あのおっさん、なかなかにアレだな」

 苦笑まじりに前髪を掻き上げた燈子に、綾華はしゅんと眉尻を下げた。

「……すみません」

「大丈夫、こっちは規定通りに対応してるだけだから」

 と、燈子は受付のデスクに置いたままのスマートフォンを指さした。

「途中からだが、録音した保険もとったからな」

 何となく相手の口調が変わったあたりから、スマホの録音機能を立ち上げて受話器の耳元に寄せておいたのだ。これで、大学事務にクレームが入ったとしても、こちらは規定通りに――丁寧に――対応していると証明できる。なんなら、早村が下劣な発言をした証拠すら残っている――とは、当の発言を聞いていない綾華には決して言わないが。

「まあ気が向いたら、電話の一本でも入れたらどうだ?」

「……そうですね。燈子さんに迷惑が掛かるし」

「だーかーら、どっちにしろ規定上、あのおっさんには繋げないんだって」

 わしゃわしゃと綾華の頭を混ぜるように撫でて、燈子は笑った。

「さて。買ってきたケーキでも食べようかね」

 そう言って、綾華を連れて燈子は集会室の方へと向かう。朝から出かけていたから窓は全て締め切っていたが、集会室は北側ということもあってさほど暑くはない。

 帰り際に駅前で購入したケーキを広げ――全部で6個、うち5個が綾華の購入分だ――、厨房でインスタントコーヒーを入れる間、綾華は沈んだ様子のままだった。

 普段の綾華なら、そわそわと落ち着かない素振りで準備を手伝い、フォークを構えている筈の場面だ。

「ほら、綾。一旦、嫌なことは忘れて食べて元気出せ」

 そう声を掛けても、綾華はなかなか動かなかった。燈子もそれ以上声を掛けることはせず、のんびりとインスタントコーヒーをすすり、ついでに自分用のミルクレープを一口摘まむ。ふわりとしたクレープ生地と仄かにイチゴの香りのする生クリームの甘みを堪能する。

 窓の外からは、相も変わらず蝉の大合唱が聞こえてくる。それをBGMに、燈子はゆったりとコーヒーを飲みながら、待った。

「……私ね、卒業しても実家に戻りたくないんですよねえ」

 ぽつりと綾華が言ったのは、どれくらい経った頃だったろうか。蝉の声にかき消されそうなその声は、しかし芯にはしっかりとした意志を感じさせた。


 綾華の家は、地方の旧家だ。元々は地域の豪農で、戦国の世には地侍として有名な武将の下で功績を挙げたとか、そのおかげで主君の末の姫君を下賜されただとか、嘘か真かも定かではない逸話がいくつも伝えられている。

 その真偽はさておき、江戸の頃には庄屋として多くの小作人を抱え、地域一帯の灌漑事業にも貢献したし、明治以降は今でいうところの金融業にも手を広げ、一帯の顔役として君臨してきた家であることは間違いない。戦後には、綾華の高祖父がいち早く農産物を使った特産品の開発と流通ルートを確保するとともに、大叔父は市議会に出馬して鉄道の誘致や国道の敷設を実現した。以来、その地盤を一族で引き継いできたのだという。

 綾華はその本家の一人娘だ。家の存続を第一に考える両親や親族の関心は、誰を綾華の婿として本家の跡継ぎにするかという、その一点にもっぱら集約される。

「早村家は元々うちの分家筋なんですけど、次男が今20代の後半でして。大学を出てからは父の秘書みたいなことをしてまして」

「あー、なるほど」

 つまり分家筋の中でも比較的年齢が近く、それなりに仕事ができると評されるその次男が今のところ、綾華の婿として有力なのだろう。

「でもね、うちの親はどうも別のことを考えてるっぽいんですよね」

 大叔父が最初に市議会に進出してから70年。その土壌を継いで市議会入りした後、早々に県議会へと進出を遂げた綾華の父は、そろそろ中央政界への進出も視野に入れているのだという。

「…………おおう」

「まー、そーいうことです」

 そう呟いて、綾華はやけくそのようにチョコレートケーキにフォークを刺した。

 そもそも、綾華が地域を出て大学に進学すること自体、親族の大半はいい顔をしなかった。本家の娘に学歴など不要だと口々に主張するのは、女は家を守るのが仕事である以上、地域の外に出ること自体ほとんどないと彼らが心底信じていたからだ。女が学など付けても、むしろ家が滅びる元だなどとまで言う親族達に、しかしそれらの意見を退けて綾華の進学を許したのは、本家の主である父だった。

「英藍はお嬢様学校で知られてるからなあ」

 つまりは英藍卒という肩書きで、娘をブランディングしたいのだろう。あわよくば、中央政界との繋がりのある相手と結び付けるために。

 だが、そこには一切、綾華自身の意志や希望が織り込まれていない。それではただの道具と同じだ。

「多分、この夏に帰ったら見合いさせられる気がするんですよね。早村の次男もキモチワルイし」

 はあ、と溜息を吐く様子からして、件の次男は綾華にとって歓迎できない相手なのだろう。まあ、何となく分からなくはない。

「で、綾はどうしたいんだ」

 燈子の問いに、綾華は目を伏せた。

 英文科を選んだのも父の意向が強かったが、それでも学び続けるうちに、語学を習得することの楽しさが勝るようになった。

「通訳とか翻訳の方面に進めたらなって。留学もしてみたいですし」

 けれど、両親や親族がそれを許すとは到底思えない。

「それは親御さんに伝えたのか?」

 燈子の問いに、綾華は首を横に振る。

「言ってもどうせ反対されるだけですし」

 綾華個人の意志など、これまでほとんど相手にされた記憶がない。

 自宅で生活していた頃は、毎日が息苦しかった。寮に入り、永津子や咲良と生活するようになって、綾華は初めて自分が自分自身の手元に戻ってきたように感じた。本家の娘として振る舞わなくても、好きなものを食べたいように食べても、誰も文句を言わない。綾華を綾華自身として見てくれる。受け入れてくれる。

 そんな毎日を過ごすうち、実家に帰ることに苦痛を覚えるようになった。休みの度に帰省の日程を短縮し、実家からの電話を無視した。

 もうこれ以上、自分を殺して生きることは耐えられなかった。それは逃げだと言われたとしても、嫌だった。

「じゃあ、言わずに諦めるのか?」

 静かな燈子の言葉に、責められているように感じて綾華は身を竦めた。人よりも裕福な家で何不自由なく育ててもらっただろう、それに何の不満があるのかと問う声は、親不孝者と詰る声は、綾華自身の裡からも耐えず湧き上がる。

 そんな彼女を眺め、燈子はがしがしと頭を掻いた。

「――ま、正直、私も人のことを偉そうに言えないんだけどな」

 急に声音が変わった燈子に、綾華がパチリと目を瞬いた。

「私もさ、両親とはもう何年も連絡とってない」

「……え?」

 意外だったのだろう。驚きを隠さない綾華の反応に、燈子は苦笑した。

「うちは両親が離婚してな。私は成人するまでは母のところにいたんだが、まあ……なんつーか、ちょっと問題のある人だったもんで、そうだな、今の綾くらいの頃に大喧嘩して飛び出してからは、住所も知らせてない」

 父とは完全な没交渉ではないものの、基本的に浹を介してしかやりとりをしていないので、関わりが無いことには違いない。

「……意外です」

「だろ?」

 他の寮生には内緒な、と片目を瞑る燈子に、綾華の表情がようやく緩む。

「大人の建前としては、一度ちゃんと親御さんと話し合えって言うべきだろうけど。そんなわけで、綾華のこともあんまり強くは言えないんだよなあ、これが」 

 三十六計逃げるにしかず。どうしても正面突破できない相手、できない時というものがあることを、その状況に身を置くことの苦しさを知っている身としては、大人の建前で素知らぬふりを決め込むこともまた、難しい。

「――ま、そうは言っても、一度本音をぶつけておいた方がいいとは思うがな」

 育ってきた環境を全て捨てて、一人、新天地で生きるには様々なものが必要だ。生活の糧、それを得るための技能、強い意志。そして何より――支えてくれる人。燈子とて、浹とつながっていなければ今頃前職のまま使い潰されていたかもしれない。いや、それどころか母の元から離れることすらできなかったかもしれない。

 だからこそ、初めから全てを諦め、切り捨てるのではなく。

 無駄かもしれないと思いながら、それでも一度正面から向き合うことで、得られる伝手もあるかもしれない。使えるものは上手く使って、肩に掛かる負担を少しでも減らせるなら、その方がいい。

 そもそもが駄目で元々、そのくらいの心構えでぶつかっておけば、上手くいかなくても却って思い切りやすいというものだ。

「別に、わざわざ帰らなくても電話とかメールで伝えるだけでも、相手の出方は分かるだろ」

「……おぉ」

 ぽん、と手を叩いて綾華が大きく頷いた。

「なんか、それなら電話できる気がしてきました」

 そう言うと、綾華はスマホを取り出した。

「今、電話しちゃうんで。燈子さん、見ててもらっていいですか?」

「ん。終わったらケーキ食べるぞ」

「あいさ!」

 ようやくいつもの調子を取り戻した綾華に、燈子は内心でほっと息を吐いた。


 *


 綾華とケーキを食べ終えて、燈子は寮監室に戻った。

 受付のデスクに放り出したままだったスマートフォンのライトが明滅していることに気づき、燈子はスマホを取り上げる。

 画面には、メッセージアプリの着信を示す表示が出ていた。浹からだ。

『今日はおつかれー』

 ヤギがカレーを食べているスタンプに続いて、メッセージが続いている。

『きりむらさん、いつもより元気ないみたいだったけど、大丈夫だった?』

 浹も気づいていたのか、と思うよりも前にその下のメッセージが目に入る。

『ってミツが気にしてた』

「市村かい」

 おもわず苦笑して、燈子は返信を打つ。

 自宅に電話を掛けた綾華は、電話口に出た両親に自分の進路の希望について伝えた。色よい返事ではなかったものの、想定していたよりは悪くない感触だったらしい。ついでに早村が寮に失礼な電話をしていたことも告げ口してから、通話を切った綾華の表情は数日ぶりに晴れ晴れとしていた。

 当たり障りのない所だけをピックアップして、問題ないと伝える。

『で、とーこは? 大丈夫?』

 既読マークがついたかと思えば、ぴょこんと新たなメッセージが表示される。返信が早い。

『ってミツが言ってる』

「お前もいんのかい」

 そう言いながらも、燈子の口元に浮かぶ笑みは柔らかい。浹も、そして――認めるのは悔しいけれども、市村も。気に掛けてもらっているというその事実が、燈子に力を与えてくれる。

 大丈夫だ、とメッセージを打ち込むと、燈子は居室の方へと戻っていった。


 休みはまだ、始まったばかりだ。

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英藍女学院大学学生寮、最後の日々 きょお @Deep_Blue-plus-

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