9.うろこ雲
フェリー最終便の出港時刻5分前、こちらにやって来る悠の姿を見つけて、私は胸を撫で下ろした。嬉しい。悠も一緒に来てくれるんだ。
「はるか!」
手を振った私と同じ動作をした悠は「小夜」、とこちらへ駆け寄って来た。
「来てくれたんだね、嬉しいっ」
悠の腕に自分のそれを絡ませて、出港時間が迫った船内へ「早く早く」と急かした。しかしどうしてか、悠の足は根を生やしたようにそこから動かない。怪訝な気持ちを隠すことなく寄せられた私の眉間を、悠の真っ黒な瞳がじっと見つめた。
「はるか……?」
どんよりと沈んだ瞳は私の胸を騒つかせる。ただ漠然と、悠とは一緒に行けないことを察して震えた私の声はなんとも情けなく、底抜けに明るい倫太郎が恋しくなった。
早く倫太郎に会ってあの軽やかな声で「小夜」とたっぷりの愛と共に名前を呼んで、あの逞しい腕で「心配はいらない」と抱きしめてほしい。
そんな風に倫太郎を恋しく思い出した次の瞬間、出港を知らせる汽笛が空気を切り裂いた。そしてけたたましいその音が、僅かに動いた悠の口元から音を奪う。
なんて言ったんだろう。悠は何を感じ、何を思っているのだろう。気になることはたくさんあった。話さなければいけないことだったのかもしれない。しかしその汽笛に急き立てらた私は、悠に背を向けた。
「ごめんね、私、行かなきゃ……!」
それは果たして最後まで紡げた言葉だったのだろうか。暗く沈む意識の中で、悠の私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
▽
「ほら、悠。巫女様に挨拶しなさい」
俺の父は厳しかった。感情的に怒鳴られたり叩かれるようなことはなかったが、いつも眉間に皺を寄せて気難しそうに「やめなさい」とゆっくりと低い声で俺を叱るのだ。
その父が俺と変わらないだろう歳の女の子に深々と頭を下げ、恭しく挨拶をする。それだけで、この女の子は特別な存在なんだと俺は自然と理解した。5歳の頃の話だ。
「はじめまして、みこさま。きたはるかです」
辿々しい挨拶を聞いた巫女様は「うふふ」と目を細めて「やだ、さよってよんで!」と小さな歯を覗かせた。なるほど、巫女様と呼ばれるような特別な存在でも、彼女は俺と同じ人間なのだと途端に親近感を覚えた。
しかしその言葉に慌てたのは父だ。「それはなりません」と否定するが、巫女様はどうやら強情なようで「やだ!ぜーったいにやだ!」と頬を膨らませてそっぽを向く。遂に折れたのは勿論大人たちで、「年頃になれば聞き分けもつくだろう」ととりあえず認めたのだが、結局その年頃になれば狡賢くも、場面で呼び方を使い分けることを覚えてしまった。
今俺の目の前にある小夜の寝顔は幼く、出会った頃とちっとも変わっていないように思う。黒々としたまつ毛が小夜の呼吸に合わせて僅かに震える様を見つめていると、「まだ眠っているのか」と小夜の父親ーー上月剛志が障子を勢い良く開けて入って来た。
俺がその問いかけへ言葉を返す前に上月剛志は「いい加減に起きろ」と小夜の肩を揺らし、頬を軽く叩く。軽くと言っても、ペチペチと音が出るほどの強さで、だ。俺はつい、その手を遮った。
「赤くなってしまえば大変ですよ。明日は幸尽祭です」
「……そんなことは分かっている!」
分かってはいるがこの島から、そして自らの責務から逃げ出そうとした娘を一刻も早く責め立てたいのだろう。そして二度と過ちを犯さぬように、今までよりもさらに縛りつけたいのだ。
上月剛志は大きな舌打ちをし、小夜の肩を再び強く揺すった。
その振動に小夜がゆっくりと覚醒し出す。「んっ、」と彼女の赤い唇から漏れ出た声を聞いた途端、なぜだか俺の身体は悦びに震えた。
「小夜!起きろ!お前、とんでもないことをしてくれたな?!自分の立場を忘れたのか?!!」
上月剛志がそれを言い切る直前、小夜は意識を完全に取り戻したようだ。ハッと目を見開き、眼球だけをキョロキョロと動かして、自分が置かれた状況を確認している。
激昂している父親の後ろにいる俺の姿を見つけたとき、小夜は漸く全てを理解したようだった。その証拠に小夜の大きな瞳から、つぅと涙が一筋流れた。
「はるか、どうして……」
言葉がそれ以上続くことはなかったが、俺には分かった。小夜は"どうして裏切ったの?"と、そう俺を問いただしたかったのだ。
小夜、本当に分からないのか?どうして俺に裏切られ、脱出計画が失敗に終わったのか、本当に分からないのか?
そうならば、俺は本当に悲しい。それは正しく、小夜にとっての俺はその程度の存在なのだと突きつけられていることと同義ではないか。
薄らと笑みを湛えた俺は、未だに怒鳴り散らす上月剛志の背中から絶望に染まった小夜を見つめ続けた。
▼
今年の巫女神楽はいつにも増して神々しかったと、神通力を宿した子を孕むには今年が良いのではと、幸尽教の信者たちは大盛り上がりだ。
昨夜の脱走劇も相俟って、上月家の面々は早く既成事実を作れと、巫女神楽が終わるなり俺と小夜を離れの寝室に閉じ込めた。
「素晴らしい巫女神楽だったと評判だぞ。お前のその憂いが余程魅力的に映ったらしいな」
小さな顎先に指をかけ、光を失った小夜の瞳を覗き込めば、彼女は忌々しげに顔を背けた。行き場を無くした手をプラプラと振って肩を竦めた俺に、小夜は「スマホを返して」と刺々しい声で言葉を吐いた。
「俺が預かってるわけじゃないし」
「アイツに頼んでよ!悠のお願いなら聞いてくれるかもしれない」
小夜は父親のことを"アイツ"と呼ぶ。
「昨日逃げ出そうとした奴に、今日スマホを返すと思うか?」
尤もな言い分に小夜は押し黙った。そうして少しの沈黙の後、言いづらそうに「じゃあ、悠が倫太郎に連絡をして」と声を震わせた。
正直に言えば、倫太郎からは何度も連絡をもらっている。『待ち合わせ場所に着いた』から始まり、『どうした?なにかあった?』『小夜と連絡が取れない』『今どこにいる?』『なんで電話に出ない?』『何があった?』『無事か?』などと、少しのニュアンス違いの同じような内容を山ほどだ。それどころか着信もしつこいほど。俺はそれを小夜には言っていないし、これから先言うつもりもない。
「お前は何も心配するなよ。倫太郎にはちゃんと俺から連絡を入れてやるから」
「…………悠のことは信じられない。今この場で、私の目の前で倫太郎に連絡をして」
「ふっ……傷つくなぁ」
大袈裟に悲しんでやれば、小夜は、当たり前でしょ?とでも言いたげな視線を寄越す。
「『小夜は俺と子供を作って、この島で幸せに暮らすことにしたよ』って送ればいいな?」
「……っ!違う!必ず倫太郎の所に行くからって、待っててって……!」
私はこの島では幸せになれない……、と弱々しく呟いた小夜は、丁寧に敷かれた布団に顔を埋めて肩を震わせる。
いつもよりさらに小さく見える小夜の背中を抱きしめてやれば、体全体が恐怖に強張ったことがありありと伝わってきた。
「そんな悲しいこと言うなよ。訳の分からないおっさんじゃなくて、俺と子供を作って、俺と一生を共にするんだ」
どうして不幸なことがある?俺はお前にとって、気心が知れた大切な人間だろ?
「俺がお前のことを守るよ。一生をかけてお前のことを幸せにするから」
そう言い切って小夜の体を反転させて布団の上に組み敷いても、彼女はまだ諦めがつかないのか「やだやだ」と首を左右に振って俺を拒絶する。
「倫太郎がいなきゃダメなの。私は倫太郎がいなきゃ幸せになれない」
「……俺のことも大切だって言っただろ?倫太郎と俺と何が違う?」
心が冷えていく。小夜はもうここから逃げられないことをはっきりと自覚していながら、それでも倫太郎を求めることをやめない。
俺の方が小夜のことを昔から知っているのに。俺の方が小夜の辛さを理解してやれるのに。俺の方が小夜の家族とも上手くやれるのに。俺の方が倫太郎よりずっとずっと小夜のことが好きなのに。
どうして、どうして。どうして俺は小夜のたった一人になれない。どうして倫太郎に向けるような曇りのない笑顔を見せてくれない。
「り、倫太郎は私の太陽なの。倫太郎がいればなんだって出来そうなの」
あぁ、そうか。そうだよ。小夜はこの地獄みたいな生活から救い出してくれる人を求めていたんだ。確かにそれは俺じゃあダメだ。俺は地獄の底で一緒に苦しんであげることしかできねーもんな。だけどそんなのって。
「お前は本当に自分勝手だな」
俺の言葉に小夜は深く頷いた。その開き直った態度にもまた腹が立つ。
「散々『一人にしないで』と俺を縛りつけておきながら……倫太郎と上手くいきそうになれば、俺はもうお役御免ってか?」
「ち、ちがう!悠とも一緒に居たいよ。だから一緒に逃げようって……」
「、俺は!俺は、お前の特別に、お前の太陽になりたかった!倫太郎の代わりなんかじゃなくて、お前のたった一人に、」
なりたかった……と、小夜の胸元に顔を埋めれば、戸惑いがちな手つきで俺の髪を梳く小夜に「ごめんね」と何も救われない謝罪を贈られた。
こんな言葉が欲しかったんじゃないのに。小夜を不幸にしたいわけじゃなかったのに。
「俺、どんどん嫌な奴になってく」
「…………、」
「俺はこのどうしようもない嫉妬心を飼い慣らせない。なぁ、どうしたらいい?」
埋めていた顔をゆっくりと持ち上げれば、小夜の揺れる瞳と視線が交わった。あぁ、こんな風に泣かせたいわけでもなかったのになぁ。
だけど大好きな小夜が俺だけを見つめ、俺に心を乱されている今が、こんなに幸せだなんて知らなかったなぁ。やっぱり倫太郎にやりたくねーな。手に入らないならいっそ。
「……このままここで、俺と一緒に死んでくれない?」
俺は今どんな顔をしているのだろう。それをはっきりと確かめる術はないけれど、小夜の黒曜石の瞳に映った俺は、今まで一番幸せそうで晴れ晴れとしているんだから、ほんと救えねーよなぁ。
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