第一章 4
メルローズが目を覚ますと室内は真っ暗だった。
床には実験室に揃えられていた道具が散乱し、ほとんどは割れている。小屋の扉や鎧戸、窓ガラスも吹き飛んでいた。屋根も一部破れており、藍色の空と薄い紗のような雲の隙間からまたたく星々が見える。
日没からかなり時間が経っているようだ。
痛む身体を無理矢理引き起こしたメルローズは、身体の上に乗っている板やガラスの破片を慎重に払い落とすと辺りを見回した。かぶっていた埃をまともに吸い込んでしまい、繰り返し激しく咳き込む。
見たところ、床に倒れているクラレンスとアルジャナンは外傷がなさそうだ。
メルローズはすぐそばに落ちていた手提げランプを拾い上げると、中に油が残っていることを確認し、エプロンのポケットにしまってあったマッチで火を灯す。
ランプに炎が点いた途端、辺りは仄かに明るくなった。
床に描かれていたはずの魔法陣は消えていた。薄汚れた板だけが残り、白い塗料の痕跡は見当たらない。塗料の悪臭も風で吹き飛んだようだ。
周囲は静まり返っているが、すぐ近くにある海岸から波が崖に打ち寄せる音が聞こえてきた。海風が小屋の隙間から吹き込んできて、彼女の肌を冷たく撫でる。
これほど派手に小屋が壊れたのであれば近所の住人に気付かれたのではないかと心配したが、誰かが様子を見に来た気配はない。
「お父様、アルジャナン、大丈夫?」
クラレンスのそばに駆け寄ると、メルローズは父親の顔にランプをかざした。
苦悶の表情を浮かべた父親は、その呼び掛けに反応しない。
今回はまるで魔法陣が暴走したような動きをしたことに、メルローズは驚いていた。
これまでは、いったん停止した魔法陣が再度動き出すことなどなかった。
失敗は失敗でも今回は意義のある失敗だった、と父親なら理屈をつけて明日からは原因究明にかかり切りになるに違いないと思いつつ、もう一度父親の顔を覗き込んだ。
「お父様」
声を掛けたところで、実験後の父親は魔力の使いすぎで一晩昏睡状態になることを思い出した。
いくら身体を揺さぶったところで、早くても明日の昼近くまでは目覚めはしない。かといって、いつまでもここに放り出しておくわけにもいかない。
初夏が終わりかけの季節だ。温暖とは言い難い気候のフロリオ島近辺は、夏が短く冬は長い。
冷たい夜風が吹き込む場所で寝ていては、風邪を引くおそれがある。
「アルジャナン、起きて」
父親を屋敷まで運ぶ手伝いをしてもらおう、とメルローズは父の弟子に呼び掛けた。
う……、とかすかに呻き声を上げ、メルローズの声に応えるようにアルジャナンが身体を動かす。派手にどこかにぶつかって身体が痛むのか、這いつくばった床からゆっくりと身体を起こそうとする。
「お父様を部屋まで運ぶのを手伝ってちょうだいな」
メルローズ自身も、あの暴風に巻き込まれたせいか手足がじんじんと痛む。
屋敷に戻ったら湿布を貼ろう、と考えつつ、父親の様子を窺った。魔法陣に一番近い場所にいたのだから、誰よりも父親が激しく風に翻弄されたはずだ。
打撲や擦り傷の跡などはないかと心配し、メルローズは父親の腕を掴んだ。そのまま袖口をさらに捲り上げ、身体を調べようとした。
「あ、ら?」
父親の手首を掴んだメルローズは、だらりと力が抜けた父親の腕に違和感を覚えた。いつになく、父親の体温が低く感じられる。自分の腕に触れ、再度父親の腕を握ってみる。どこに触れても父親の身体は冷たかった。
この夜気で身体を冷やしたに違いない、とメルローズは自分自身に言い聞かせる。
「ねぇ、アルジャナン。お父様の様子がおかしいの。見てくれない?」
脳裏をよぎる厭な予感を頭から振り払いつつ、メルローズは父親の手首に指を当てたが脈を確認できなかった。今度は喉元に指を強く押しつけるが、こちらも無反応だ。
「お父様?」
鼻と口元に手を当てるが、呼気が感じられない。
「……嘘でしょう?」
一瞬、頭が真っ白になった。
まじまじと父親の姿を凝視しその左胸に手を当てるが、心臓の鼓動も感じられない。
「ねぇ、こんなの……厭よ……!」
喉から声を絞り出してメルローズは呟く。
その間も、刻一刻とクラメンスの身体は冷たくなっていく。
「お父様! お父様!!」
目の前に突き付けられた現実に恐怖したメルローズは、必死になって父親に呼び掛ける。
「アルジャナン! ねぇ、アルジャナン!」
恐慌状態寸前のメルローズは、父親の弟子に助けを求めた。
「お父様が動かないの! 脈も感じられないの!」
まだわずかに温かい父親の身体を目の前にして、メルローズはアルジャナンに向かって金切り声で叫んだ。
「なんとかして! ねぇ、アルジャナン!」
いまならまだ、死の淵に立つ父親の魂を呼び戻せるのではないかと期待した。
魔術師である父親によれば、死者の魂は死んで数日間はこの世を
魔力がない自分ではできないが、アルジャナンならわずかなりとも魔力を持っている。
これまで助手としてクラメンスの実験や研究を手伝ってきた彼であれば、蘇生術も可能ではないか、と考えたのだ。手順だけならメルローズも文献を読んだことがあった。
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