クジラと自転車

天雪桃那花(あまゆきもなか)

ひと夏の思い出

「私、鯨を見てみたい」


 君が真顔で言った。潤んだ大きな瞳の奥をキラキラとさせながら。


 綺麗だなと思った。


 ぐっと近寄った距離が恥ずかしくって僕は全身の熱が上がった。

 特に顔。

 ほっぺたも耳も真っ赤なんじゃないかな?


 そんな君の瞳の美しさと二人の手が触れそうなぐらい近づいたことにたじろぐ僕。


 君は一切そんなものにはお構いなしに言葉を続けた。


「私、鯨に会いに行く!」


 今度はニコッと笑って揺らがない強さで決心したかのように僕に語るんだ。


 僕は胸の鼓動のドッキドキがさらに加速した。


 僕は君の喜ぶ顔が見たくて二人で鯨を探しに出掛けることにした。




 島をぐるりと暑い海岸沿いの道路を僕らはひたすら自転車で走る。


 道が広い時は仲良く並んで狭い時は前後になって。


 君はスカートをひらひらさせて自転車を漕ぎながら僕にニコニコと笑うから僕はハッと一瞬君に見惚れて瞬きも汗も暑さも忘れてる。


 心はいつだって眩しい君に奪われたままなんだ。



 坂道、トンネル。

 陽射しを防いで木陰に入るとホッとする。



 海に出たって鯨にそうそう会えるわけがない。

 けれど僕は君が見たいと言うなら見せてあげたいんだ。


 こうして二人で過ごせる時間が愛しくて愛おしくて。


 いつでも君を求めてる。切ない。


 君をぎゅうっと抱きしめてみたい。

 そんな衝動に僕は葛藤を覚えてる。


 鯨に会えなくて君がもしもがっかりしたら――。


 水族館に鯨の仲間に会いに行こう、君にそう言おう。


 僕は君の笑顔と君の気持ちばかりが頭のてっぺんから足のつま先まで支配する僕を知る。

 君が僕をすべて満たしてる。

 まるで鯨が目の前のプランクトンを丸まる飲み込むみたいにすっぽりと包まれてしまう。

 

 君は抗えない圧倒的な魅力で僕の心を奪い惹きつける。

 磁石みたいで惑星の引力重力みたいで。


「鯨、見れるかな〜?」

「うん、きっと見れるよ」


 ほんとは分からない。

 鯨なんて船に乗ってたって見られる確率は低いんだって聞いた。


 だけど君となら鯨と会える気がするよ。


 君と一緒なら不可能だって可能になりそうな僕は無敵な気分だから。


 僕らは鯨に会えると思う。




 出会いと別れは突然だ。

 去年の夏に出会ったばかりの僕と君。

 やっと仲良くなれたと思ったのに、君は夏の終わりに遠い国へと引っ越してしまう。


 自転車を漕ぐ。

 頬を優しく撫でるように爽やかな風が吹いていた。




          了




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