残響の向こうの旅人
笹目チアキ
第一集:音を拾う人
音を拾う人〔起〕
俺には,音を拾う癖がある。
なんでもない,ただの音だ。老犬の爪がアスファルトを掻く丸い足音。路地を抜ける鋭い風の音。遠くで響く子供たちの笑い声。
ともすれば聞き逃してしまう,誰も気にも留めず聴こうとしない音。耳を通り過ぎて,すぐに忘れてしまうような音。
でも,俺はどうしてかそういう音が昔から妙に気にかかって,だから,小学校中学年くらいに父にねだって買ってもらった安い録音機を手に入れてから,音を拾うようになった。
ポケットの中の小さな
その瞬間――いつも,世界の一部がそこで止まる気がする。
音をたくさん拾った日はいつも,家に帰ると必ずそれらを再生して確かめる。
足音。
風の音。
笑い声。
その一つ一つが,まるで瓶の底に沈めた記憶のように静かで,聴くたびにまるであの時間の中に巻き戻ったような感覚になる。この音の向こうにあの街並みが佇んでいて,その先にまだ知らない世界があるような気がするのだ。
そんな風に,ふとした時に音を拾うのが俺の日常だった。
誰にも見せない,小さな習慣。
今日もまた同じ道を歩く。まだ知らない音を探しながら。
――
その日も,同じ道を歩いていた。
昼と夕の間みたいな,曖昧な時間だった。大学の講義が早めに終わって,バイトもなかったので歩くスピードはいつもよりゆっくりとしていた。
秋晴れの空が空気を冷たく澄ませて,風が音をどこかへ運んでいってしまうような静かな日だった。
少し遠回りをしようと思って,裏の公園を抜けた。殺風景な敷地の中,古いブランコが一つ,錆びた音を鳴らしている。
俺は足を止めて,
その時だった。
「何を録ってるんですか」
驚いて顔を上げると,向かいのベンチに一人の女性が座っているのに気付いた。
年の頃は俺と同じくらいか,少し下だろうか。イヤホンを片耳に差して,肩にかかるくらいの短い髪をそっとかき上げながら,興味ありそうにこちらを見つめている。
それから,彼女は手に持った何かをこちらに見せ,少し笑って言った。
「同じこと,してるんですね」
言葉が,妙に静かに聞こえた。まるでこの小さな公園の音全てが,彼女のその一言を聴くために息を止めたみたいに。
彼女が見せたのは
一瞬,何も言えずに彼女を見つめる。
それから曖昧に頷いて,
カチ,という乾いた音だけが,大きく響いた気がした。
しばらく,どちらも言葉を発しなかった。
風の音だけが響く。冷たい風だった。
ブランコの鎖はもう鳴らない。代わりに,どこかで小さな落ち葉が地面に擦れる音がした。
彼女は両手でベンチの座面の縁を掴みながら,遠くの空を見つめている。何かに耳を澄ましているようで,何も聴いていないようでもあった。
そんな彼女の横顔を見ながら,俺は自分の
――でも,押さなかった。
「……よくこうやって録ってるんですか」
彼女が先に口を開いた。
「まぁ。昔から」
それだけ言って、俺は自分の声の響きを確かめるように黙った。
「私も,よく録るんですよ」そう言って,彼女は笑った。「なんでか分からないけど,録っておかないと落ち着かないんです。忘れるのが怖くて」
声は穏やかだったけれど,少し掠れていた。風に混じって,どこか遠い場所の音のようにも聞こえた。
「……忘れたくない音って,あるよね」
俺は彼女の言う意味を掴み切れずに,曖昧に返事をした。彼女は小さく頷く。
「あの。これで同じ音を録ってみませんか」
彼女が言った。
俺はずっと,彼女の言動を掴みかねていたけれど,悪い提案ではなかったので,頷く。
カチ,と二人の
二つの小さな音が,同時に空気に溶ける。
その瞬間――音が止んだ気がした。耳を澄ましても,さっきまで鳴っていた鎖の軋みも,落ち葉の踊る音も,風の音も,どこかへ消えている。世界の空気が,ふっと一枚薄くなったようだった。
俺たちは顔を見合わせたが,何も言わなかった。
彼女は
雲の形が,妙に静かだった。
――そのあと,俺と彼女はどちらからともなく別れた。彼女は東の道を歩き,俺は西へ向かった。
足音が,なぜか聞こえなかった。それでも,地面の感触だけは確かにあった。
その日の夜,部屋で録音を再生した。風の音。鎖のきしみ。掠れた落ち葉。
全部ちゃんと入っていた。
でもなぜだろう――録音の中の音のほうが,現実よりも生きている気がした。
俺はしばらく再生を聴き続けた。音たちは,瓶の中でまだ息をしていた。
耳の奥で,遠くの誰かが呼吸をしているような気がした。
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