第2話 刺される男

 明日は十時に事務所へ顔を出す。間に合うように迎えに来い。


 そんな言葉を残して、斉藤さんは鼻歌混じりで深夜の歌舞伎町へ消えて行った。


 俺の手の中には今日の駄賃だと言われて、斉藤さんに手渡された二万円があった。人殺しの片棒を担がされそうになったのだ。それでこの金額では割に合わないと思いつつも、俺は頭を下げてそれを受け取った。


 ……二万円。

 ヤクザが金を稼いで、いい女を抱いて、いい車に乗ってなんてことは、遥か昔の話らしかった。


 歌舞伎町の外れにあるコインパーキング。そこに斉藤さんの車が停めてある。何年落ちかも分からない、くたびれた黒のドイツ車だ。


 駐車番号は何番だったか。それを確かめようとコインパーキング内に足を踏み入れた時だった。


 背後に人の気配を感じた。次の瞬間、脇腹の左後ろから体の中心に向かって、冷やっとした感覚があった。続いてその場から立ち去る駆け足の音が俺の耳を打った。


 俺は何が起こったのかと背後を振り返ろうとして身を捩った。しかし、何故か両足に力が入らなくなる。俺はそのままコインパーキングの冷たいアスファルトの上に倒れ込んだ。


 何が自分の身に起こったのか分からないまま、俺は立ち上がろうとした。だが、体に力が入らない。


 やがて俺は立ち上がることを諦めて、アスファルトの上で辛うじて仰向けになった。俺から吐き出された白い息が、宙で溶けていくのが見える。


 脇腹にゆっくりと手を伸ばすと、ぬめりとした感触と焼けつくような痛みがあった。その手を見なくても、自分の身に何が起こったのかが分かってくる。


 ……刺されたのだ。

 一体、誰に?


 そんな疑問が俺の中で浮かんだ。だが斉藤さんが主体だったとはいえ、あんなシノギを一年以上も続けてきたのだ。だから恨みを買っているということでいえば、思い当たる節が多すぎた。


 焼けつくような痛みが、脇腹あたりで断続的に続いていた。やはり体に力が入らない。立ち上がるどころか、上半身すらも起こせなくなっているようだった。


 アスファルトが冷たいと俺は思う。

 ろくでもない人生だった。十代で地方の都市から、宛もなく新宿に出てきた。そして、そのまま歌舞伎町に住み着いた。いつの間にかに暴力団の事務所に出入りをするようになって、気がつけばその構成員になっていた。

 

 思い返してみても、本当にろくでもなかったなと思う。


 何で俺はヤクザになんかなったのだろうか。

 最後はこうして、誰に刺されたかも分からずに死んでいくだけだったのに。そんなことを考えながら、俺は吐き出された白い息が、宙で溶けていくのをただただ見ていた。


 大声を出して助けを呼べば、まだ助かるのだろうか。

 そう考えると、俺は死にたくないなと単純に思い始めていた。だが助かったところで、待っているのは、それまでと変わることのない碌でもない日々だけだ。


 これまでがそうだったのだから、きっとこれからだってそうなのだろう。そう考えていると、俺には何もかもが面倒に思えてきた。その時だった。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


 気づくとアスファルトの上で仰向けになっている俺を上から覗き込む顔があった。


 子供? 

 倒れている俺を上から覗き込んでいるのは、六歳児ぐらいの女の子だった。


「お兄ちゃん、どうしたの? 怪我してるの? 痛いの?」


 女の子がもう一度、俺の顔を覗き込みながら言う。


 時刻は深夜の一時を回っていたはずだった。歌舞伎町とはいえ、この時間に六歳ぐらいの子供が一人でいることなど見たことがない。となれば、近くに親がいるのだろうか。


 ……誰か呼んできてくれ。

 俺はそう思って声を出そうとしたが、声が出ない。掠れた呻き声のようなものが出るだけだった。


「やっぱり怪我してるんだね。ちょっと待ってて!」


 女の子は何かを確信したように言うと、小さな両手を重ねて俺の胸の上に静かに置いた。


 何をしているのか……。

 手当をしているつもりなのだろうか?


 助かるかもしれないと思った矢先にこの状況だ。これは何の罰ゲームなのだと俺は思う。お医者さんごっこをしている場合ではない。


 子供に悪気がないことは分かっている。だが俺もそのような余裕がある状況ではないのだ。助かるかもと一瞬でも思った俺が馬鹿だったのだろうか。


「うん、これで大丈夫!」


 一体、何が大丈夫なんだ。俺はそう思って女の子に非難の視線を向ける。


「お兄ちゃん、これで大丈夫なんだよ」


 女の子がもう一度、そう言った。

 俺の中で苛つきが高まってくる。死にかかっているというのにこれ以上、わけの分からない子供の相手などしていられない。


 苛つき?

 ふと俺はその事実に気がついた。死にそうだというのに随分と自分の中に余裕があることに気がついたのだ。


「ほら、大丈夫でしょう?」


 俺を見下ろして女の子は満面の笑みを浮かべている。


 言われてみれば、さっきまであったはずの焼け付くような傷の痛みが感じられない。俺は体を起こそうと上半身に力を入れてみた。


 ……力が入る。


 俺はゆっくりと上半身を起こした。

 

 どういうことだ? 

 俺は刺されたはずの脇腹に手を当てがった。やはりそこには滑りとした感触がある。


「うわあ、真っ赤だね。真っ赤だ、真っ赤だ、真っ赤っかー」


 女の子は俺の赤く染まった手を見ると、調子外れな歌を歌い出した。


 だが、痛みもなくて……血が止まっているのか?

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