第2節 侵入警告
中央モニタの映像が切り替わった。
地下エントランス。無機質な白い照明。灰色の床。何もない空間のど真ん中に、その影は立っていた。
ひとりの少女だった。
ブレザーに似た上着と、膝までのスカート。制服にも見えるが、ネブラ社のどの部署とも違う。髪は肩のあたりで揺れ、足元には黒いブーツ。
ただ、普通と違うものが、一つではなかった。
彼女の周囲には、白い光の線が残っている。
動くたびに、その軌跡だけが空中に残り、消えるまでわずかな時間がかかる。カメラのフレームが追いつかず、映像上に残像として貼り付いていた。
足元には薄い靄のような光がまとわりつき、床との境界をぼかしている。照明の反射ではない。エントランス全体の明るさを上げても、そこだけ別の光源のように浮き上がっていた。
「……主任」
加賀が、喉の奥で声を整えながら言った。
「主任、これ……」
一度、言葉を切る。
「これ、人、ですよね?」
「人ではあります」
槙野は、素直に頷いた。
「頭があって、手足があって、立ってますからね」
「そういう問題じゃないんですって」
「分かってますよ」
槙野は、軽く息を吐く。
「大事なのは、“どちらの”人か、です」
「どちらの、って?」
「うちの側か、向こうの側か。ネブラの人間か、そうじゃないか。そこを間違えると、報告書が大変なことになります」
「今それ気にするんですか」
「あとで怒られるの、嫌なんですよ。加賀くんも嫌でしょ?」
「それは嫌ですけど!」
会話をしている間にも、少女の姿はモニタの中で少しずつ動いていた。
大きく動くわけではない。歩幅は小さい。エントランス中央から、左右に数歩。足音は、カメラには乗ってこない。ただ、そのたびに白い線が伸びては消える。
普通の人間より、動きが速いのは明らかだった。
そのとき、管制卓の脇に開いていた分析ウィンドウが、一斉に点滅を始めた。
体温、心拍、筋電反応。いくつものグラフが一気に跳ね上がり、横に並ぶ数値の横に赤いマークが点灯する。
「分析出ました!」
オペレーターの一人が、スクリーンを覗き込みながら声を上げる。
「対象の表面温度、四十二度を超えています。心拍数も、通常の上限の倍以上。筋電の反応も、かなり高いです」
「かなり、ってどのくらい?」
槙野が視線だけ向ける。
「成人の基準値の、三倍から四倍です。動くたびに大きく振れています」
「元気ですねぇ」
「そんなまとめ方しないでください」
「分かりやすいじゃないですか」
槙野は、ウィンドウの下段を指で示す。
「それで? 分類の候補は?」
「ここです」
オペレーターが、英数字の並びを拡大表示する。
M-01。
その横に、小さく説明文が付いていた。
『対象分類候補:Mクラス 既存データとの一致率 六十三パーセント』
「主任。Mクラスって、やっぱり――」
「ええ」
槙野は、その行を見下ろしたまま言った。
「うちが一番関わりたくないグループですね」
「ってことは、これ、ほぼ確定で」
「“そうだと思って動け”、って数字です」
六十三パーセント。
百パーセントではない。だが、現場で迷っている暇はない程度には高い。
『警告。侵入対象の身体反応が、内部データの許容量を超えています』
天井スピーカーから、冷たいアナウンスが流れた。
『既存パターンとの一致なし。識別、不能』
「出ましたね」
加賀が、小さく苦笑する。
「“分かりません”って、遠回りに言うやつですね」
「言ってませんよ。こっちは一言も言ってません」
槙野は、口元だけで笑う。
「ただ、今のははっきりしました。“いつもの”ではない。そういう話です」
「いつもの、で済む話、一度もなかったと思うんですけど」
「じゃあ、余計に困りましたね」
槙野は、モニタの少女を見つめ直す。
少女は、エントランス中央で立ち止まっていた。
カメラの位置は天井近く。見下ろす角度だが、顔はよく見える。
目が大きく、はっきりとした輪郭。どこか幼さの残る顔立ちだ。街を歩いていても違和感がないような、普通の女子高生に見える。
だが、その瞳の奥にあるものは、普通ではなかった。
焦りも戸惑いもない。
ただ、状況を見て、判断している目だ。
「主任」
加賀が、声をひそめる。
「今、こっち見ました」
「見ましたね」
「カメラ、分かってますよね、あれ」
「慣れている人の目でした」
槙野は、肩をすくめる。
「監視カメラを見慣れていて、見られても気にしない人の目ですね」
「そんな人、あまり会いたくないです」
「会いたくないですけど、来ちゃってますから」
少女が視線を巡らせるたびに、画面のコントラストが微妙に揺れる。
自動補正のバーが勝手に動き、明るさを調整しようとするが、追いつかない。
白い光が強すぎるのだ。
『注意。対象周囲に、未知のエネルギー反応を検出』
アナウンスが、淡々と続けた。
『電磁・熱・音響パターンに該当せず。一部機器への干渉の可能性あり』
「主任。センサーのノイズが増えています」
オペレーターが、別のグラフを示す。
「エントランス周辺のカメラ、明るさ調整が自動で上がりっぱなしです。照度センサーも、近くにいる隊員の分から外れてます」
「つまり、“よく分からない光”が出てる、ということですね」
「はい。そうとしか言えません」
「じゃあ、分かりやすいじゃないですか」
槙野は、中央モニタに視線を戻す。
「うちの資料の言い方で整理すると、“魔法少女”です」
その言葉に、管制室の中が静かになった。
誰も声を荒げない。椅子がきしむ音もない。
ただ、数人の喉がひくりと動き、ペンを持つ手がわずかに止まる。
日常の中でその単語が出てくることは、ほとんどない。
研修のスライドや、訓練用の説明文の中には書かれている。だが、それはあくまで「想定」の話だった。
今、モニタの向こうにいるのは、「想定」の中の存在ではない。
この地下施設のすぐ外にいる「誰か」だ。
「……本当に、来るんですね」
加賀が、低い声で呟く。
「紙の上だけの話で終わってほしかったんですけど」
「紙の上で終わる仕事だったら、楽だったんですけどねぇ」
槙野は、どこか楽しそうな口調で言う。
「でも、現場に来てしまった以上は、対応しないといけません。そこが、うちのつらいところです」
「楽しそうに言わないでください」
「気の持ちようですよ。どうせやるなら、少しでも前向きにやらないと、胃が持ちません」
「もう十分きついです」
ヴァーニは、壁際でもたれたまま、その会話を聞いていた。
黒い戦闘服。腰にはホルスター。手には整備を終えたばかりのアサルトライフル。
金色が混じった髪を指先で払うと、彼女はモニタの少女を一度だけ見て、短く笑った。
「見た目、子どもじゃない」
低く、抑えた声で言う。
「中身はどうか知らないけどさ」
「そこが問題なんですよ」
槙野が、軽く振り返る。
「見た目で判断すると、だいたい痛い目に遭いますからね」
「分かってるつもりだけど」
ヴァーニは、銃のストックを肩に軽く当てた。
「こっちが遠慮してくれるとは思わないことにしておく」
「それは正解です」
槙野は、モニタの上部にちらつき始めたノイズに目を細めた。
白い光が、映像の端から端へと走る。
少女が、何かを試しているようだった。
床を軽く蹴る。空気がわずかに揺れ、その場から数メートル移動している。カメラのフレームの中で、その瞬間だけ、姿が消えかける。
完全な消失ではない。
だが、人間の反応速度では追えない動きだ。
「主任」
加賀の声には、さすがに焦りが混じっていた。
「これ、本当に、こっちの準備が間に合いますかね」
「間に合わせますよ」
槙野は、あっさりと言った。
「間に合わせるために、支部があるんですから」
「そんなきれいなまとめ方されても」
「きれいな話じゃないですよ。間に合わなかったら、怒られるのは私たちですからね」
「そこなんですね、結局」
「そこなんです」
槙野は、管制卓の前に立ち、指揮用のコンソールに手を伸ばした。
モニタには、まだ少女が映っている。
白い光の残滓が、彼女の周りで揺れていた。
管制室の照明が、ほんのわずかに落とされた。
代わりに、壁一面のモニタが一段と明るくなる。
エントランス映像の、少女の姿。
内部通路を映す複数のカメラ。
各階の状況を示すフロアマップ。
そのすべてを見渡せる位置に、槙野は立った。
「では」
彼は、軽く指を鳴らす代わりに、コンソールのキーを一つ押した。
「封鎖します。全域」
その声は、わざと大きくもしないし、小さくもしない。普段の会話と変わらない調子だった。
「加賀くん。文句言う前に、手を動かしてください」
「言ってないですよ、まだ!」
反射的に突っ込みを入れながらも、加賀の手はすでに動いている。
「防御扉、閉鎖シーケンス起動。対象セクター、地下エントランス、サービス通路、搬入口」
専用のキーを順番に叩き込み、画面上のチェックボックスを素早く選択していく。
フロアマップ上で、通路を示すラインが一つずつ赤に変わっていく。
『警告。施設内の一部区画を閉鎖します』
アナウンスが、館内全体に流れた。
『指定された通路の移動を中止し、最寄りの安全区画に退避してください』
「現場の隊員にはもう入ってます」
通信担当が、インカムを耳に押し当てながら報告する。
「地下通路のパトロール班、退避開始しました」
「遅れないように急がせてください」
槙野は、モニタの中で動く青いマーカーを確認する。
「閉まる扉に挟まれると、あとが面倒です」
「面倒ですまないですよ」
「面倒なんですよ。処理が」
彼は、ぼそりと付け足した。
「書類も、説明も」
「やっぱりそこなんですね」
「そこなんです」
隔壁が降り始めたのは、その直後だった。
分厚い鋼鉄製のシャッターが、重い音を立てて下りていく。
通路の天井近くに収納されていた板が、カシャン、カシャンとロックを外しながら落ちてくる。
監視モニタの一つ一つに、「閉鎖中」の表示が重なった。
地下エントランスでも、非常扉が左右から滑り出ている。
少女は、その様子をただ見ていた。
逃げようともしない。扉に近づいて阻もうともしない。
その場で、じっと。
「……動きませんね」
加賀が、思わず呟く。
「普通、出口が閉まったら、せめて走りません?」
「普通の人なら、そうでしょうねぇ」
槙野は、腕を組み直した。
「でも、さっきから何度も言ってますけど、普通ではないんですよ」
「だからって、落ち着きすぎです」
「こっち側から見るとそうですが、向こうから見たら、“ちょっとした準備運動の合間”かもしれませんよ」
「そういうこと言わないでください」
ヴァーニが、肩に担いだライフルの位置を少し直した。
「どっちにしても、閉じ込めるつもりなんでしょ」
「そのつもりです」
槙野は、素直に認める。
「その上で、叩けるなら叩く。無理なら、時間を稼ぐ。それしかありません」
「分かりやすくて、いいわね」
ヴァーニは、口の端をわずかに上げた。
「そういうの、嫌いじゃない」
「好きとは言わないんですね」
「好きって言ったら、主任が調子に乗る」
「よく分かってますね」
隔壁の閉鎖状況が、フロアマップの右側に一覧表示される。
緑のバーが伸び、九十パーセント、九十五パーセント――
『報告。地下エントランス周辺の閉鎖率、八十五パーセント』
「主任」
通信担当が、急いだ声で呼ぶ。
「パトロール班の一部が、まだ移動中です」
「どこですか」
「エントランス手前の管理用通路。隔壁の閉鎖ラインに、まだ一名残っています」
「名前」
「第三小隊、二番。山下です」
「間に合いそうですか」
「あと十メートルです!」
「十メートルなら――」
そのとき、モニタの一つで、カメラが震えた。
通路を映す映像。
黒い防弾ベストを着た隊員が、全力で走っている。
頭にはフルフェイスのヘルメット。手にはライフル。背中には装備の入ったバックパック。
その先で、天井からシャッターが降り始めていた。
「山下、急げ!」
通信担当が、マイクに怒鳴る。
「そこ、閉まるぞ!」
シャッターと床の間が、狭まっていく。
隊員は、最後の数メートルを滑り込むように飛び込んだ。
間一髪――のはずだった。
だが、背中のバックパックの一部が、シャッターの縁に引っかかった。
「っ――!」
金属同士がぶつかる鈍い音。
シャッターは自動的に止まりかけたが、閉鎖プログラムはそのまま進んでいる。数センチ刻みで、さらに下へ押し込もうとする。
「ロック解除! 一度止めて!」
「手動に切り替えます!」
オペレーターが慌ててボタンを連打する。
数秒遅れて、シャッターの動きが止まった。
だが、その間に、隊員の左肩と背中は、鋼鉄に押しつけられていた。
肘から先が、わずかに不自然な角度で曲がっている。
「山下、大丈夫か!」
通信担当が、マイクに叫ぶ。
「返事しろ!」
『……い、いてぇ……』
途切れ途切れの声が返ってきた。
『腕、やりました……でも、生きてます……』
「救護班を向かわせてください」
槙野が、落ち着いた声で言う。
「扉は、その状態で固定。無理に動かさないで。中からこじ開けようとすると、余計にひどくなります」
「了解」
「それから」
彼は、一瞬言葉を切る。
「さっきのシーン、あとで私にまとめてください。速度、位置、シャッターの反応時間。全部」
「報告用ですね」
「そうです。こういうときだけ、数字が役に立ちます」
フロアマップ上で、閉鎖率のバーが再び動き出した。
九十パーセント、九十五パーセント、九十八パーセント――
『報告。地下エントランス封鎖、完了』
アナウンスが、機械的に告げる。
『出入口シャッター、全基閉鎖。外部からの侵入経路を遮断しました』
「エントランス、完全に囲いました」
オペレーターが、短く報告する。
「対象は、中央に留まったままです」
「いい位置ですね」
槙野は、モニタ上の少女の立ち位置を確認した。
閉じられた扉。囲むように配置された柱。天井の換気ダクト。
その中央に、白い光をまとった小さな影がいる。
「動きは?」
「今のところ、歩き回っているだけです。扉を叩いたりはしていません」
「なら、今のうちです」
槙野は、指揮卓の別のパネルをタッチした。
新たなウィンドウが開き、「神経ガスライン」という項目が画面に現れる。
配管の図。バルブの位置。圧力計の表示。
『警告。神経ガス管制モードに移行します』
『担当者は、認証コードを入力してください』
「主任」
加賀が、思わず声を上げる。
「本当に、ガス使うんですか」
「“使う準備”です」
槙野は、軽く言い直した。
「準備までしておけば、使わずに済んだときに、“よくやった”って言われますからね」
「使ったら?」
「そのときは、そのときで、また別の人に怒られます」
「どっちにしても怒られるじゃないですか!」
「そうなんですよ。だから、少しでもマシな怒られ方を選ぶんです」
「そんな仕事、他にないですよ」
「他にもありますよ。世の中、だいたいそうです」
ヴァーニが、ふっと息を漏らして笑った。
「いいから、さっさと決めなさいよ」
彼女は、銃を肩に担いだまま、モニタに顎を向ける。
「殴り合いにするなら、開けて。ガスにするなら、閉じたまま。どっちでも構わないけど、ぐずぐずしてるのが一番嫌い」
「はいはい」
槙野は、軽く両手を上げる。
「そう言うと思ってました」
「分かってるなら早く」
「分かってるからこそ、迷うんですよ」
彼は、コンソールに視線を戻した。
認証コードの入力欄が、点滅している。
その上に、シンプルな文が表示されていた。
『神経ガス散布準備 はい/いいえ』
『地下エントランス封鎖完了。神経ガス、準備完了』
アナウンスが、同じ内容を声にして繰り返す。
管制室の照明が、さらに一段階落とされた。
代わりに、天井近くに並ぶ非常灯が赤く点る。
白かった光が、赤に塗り替えられていく。
モニタの枠も、警告色のラインに縁取られた。
静かなまま、赤だけが増える。
誰も椅子から立ち上がらない。誰も大声を出さない。
それでも、室内の空気は、さっきまでとはまるで違っていた。
「主任」
加賀が、改めて呼ぶ。
「本当に、やるんですか」
「“やる”とは限りませんよ」
槙野は、穏やかな口調のまま答える。
「選択肢を目の前に出しておいて、“押さない”というのも、一つの決断ですからね」
「だったら、出さなきゃいいじゃないですか」
「出さないと、“何もしなかった”と言われます」
短く息を吐く。
「出しておけば、“考えた上でやめた”と言えます」
「そんなの、言葉の問題じゃないですか」
「言葉の問題が、一番面倒なんですよ」
槙野は、そう言いながらも、指を認証欄の上に置いた。
ためらいがないわけではない。
だが、完全に止まっているわけでもない。
ゆっくりと、キーの上に重さを預けていく。
そのときだった。
「主任」
別のオペレーターが、緊張を含んだ声を上げた。
「対象、動き始めました!」
中央モニタの少女が、顔を上げる。
白い光が、一段と強くなった。
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