サラリーマンは魔法少女に勝てますか?

蝋燭澤

第1話 沈む支部

第1節 静寂の前触れ



 ネブラ社・第三支部の監視管制室は、時間の流れを感じさせない場所だった。


 天井に埋め込まれた白色のパネルライトが、窓もない地下室を均一に照らしている。壁一面にはモニタが並び、都市地図、熱源分布、センサーの波形、黒服部隊のヘルメットから送られてくる映像が、静かに入れ替わっていた。


 音と言えば、空調の低い唸りとキーボードを叩く乾いた音、たまに鳴る電子音だけだ。人の声は少ない。ここでは、雑談よりも数字とログが優先される。


 そのモニタ列の一角、中央寄りのオペレーター席で、加賀は画面に顔を近づけていた。


 彼の前には、波形モニタが縦に三段並んでいる。その中段、北セクターを担当するラインの端が、ごく小さく跳ねた。


 ピッ、と短い反応音。


 波形の山は、本当に指先ほどの高さしかない。少し目を離せば、ノイズと言い切ってしまえるレベルだ。


 加賀は、右手を止めた。


 彼は眼鏡の位置を指で直しながら、画面を拡大する。反応の時間、周波、前後のノイズレベル。手元のメモに、癖で数字を書き写していく。


 さっきまで淡々と入力していた日報のフォームが、そのまま開かれたままだ。


 書きかけの文面の最後には、「本日も異常なし」という文言が、入力途中のまま点滅している。


 もう一度、ピッ。


 同じ位置で、同じくらいの高さの波形が立った。


 今度は、それだけでは終わらない。山の裾に、ほんのわずかな凹凸が残る。


「……いや、でもなぁ」


 加賀は、小さく独り言を漏らした。


 北セクターのその座標は、住宅街と小さな公園が重なる一帯だ。過去のログをさかのぼると、猫や野良犬、ドローンの飛行ルート、宅配トラックの通行で、似た反応が出たこともある。


 とはいえ、完全に同じパターンではない。


 報告するべきか、黙って様子を見るべきか。その二択が、彼の頭の中でぐるぐる回り続ける。


 報告して、何もなかったらどうなるか。


 主任に「大げさだ」と笑われるかもしれない。現場の黒服から「また空振りか」とため息をつかれるかもしれない。


 逆に、黙っていて、本当に何かが起きたらどうなるか。


 それはそれで、想像したくない。


 加賀は椅子の上で落ち着きなく体勢を変え、もう一度波形を見つめ直した。


「……主任、まだ来ないですよね」


 思わず、周りを見回す。


 管制室の後方、指揮担当席は空いている。コーヒーカップだけがひとつ置かれていて、中身はもう冷めきっているようだ。


 少し離れた壁際には、黒い装備ラックが並び、その前に黒服の戦闘員たちが二人、無言でライフルの点検をしている。そのさらに奥、壁にもたれて座っている女の姿がひとり。


 ヴァーニ・クロフォード。


 特務防衛課の中でも、名前を知っている者は多い。実際に近くで見たことがある者は、ぐっと減る。


 彼女は黒いタクティカルスーツに身を包み、脚を組んで座りながら、整備兵から借りたアサルトライフルを片手で弄んでいた。分解、組み立て、スライドの引き、マガジンの抜き差し。その一連の動きを、退屈そうな顔で何度も繰り返している。


 視線はライフルに向いているが、周囲の会話とモニタの動きは、全部耳に入っているような雰囲気だ。


 加賀は、彼女の存在を意識しないようにしながら、もう一度波形モニタを見つめる。


 今度は、何も反応しない。


「ノイズ、ですよねぇ……」


 自分に言い聞かせるように呟きつつ、加賀は日報の入力画面に目を戻そうとした。そのときだった。


「んー……加賀くん」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 柔らかいけれど、逃げ場のない声。


 加賀は、椅子ごとびくっと振り返る。


「し、主任っ」


 そこには、黒いスーツに細いネクタイを締めた男が立っていた。


 槙野。ネブラ社・特務防衛課、現地対応戦術部の主任。


 中性的な顔立ちに、薄いフレームの眼鏡。眠そうな目元。片手には紙コップのコーヒー、もう片方の手には小さなタブレット端末。


 彼はコーヒーを一口飲んでから、加賀のモニタに視線を落とした。


「それね、今のところ、君が“自分で考えて処理した”ってことになってるんですよ」


「え? ど、どういう……」


「報告した“気”になってるだけでしょ。違います?」


 槙野は笑いながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「見つけた。ちょっと引っかかった。ログも取った。でもね、誰にも言ってない。ということはね、君の机の上で止まってるんです。会社っていうのはね、机の上で止まってるものを、一番嫌うんですよ」


 加賀は、情けない声を出した。


「い、いや、その……もう少し様子見てもいいかなって、思っただけで……」


「いやいやいや」


 槙野は、コーヒーの紙コップを片手に持ち替えながら、軽く首を振った。


「様子を見るのは、いいんですよ。悪くない。私も好きなんです。様子見。それはそれで立派な選択です。でもね、様子を見るっていうのは、誰かに『様子を見ます』って言ってからやるものなんですよ」


「……はぁ」


「君ね、黙って見てるのは、様子見じゃなくて放置って言うんです」


 槙野は、柔らかい声のまま、きっぱりと言った。


「で、何? どのライン?」


「こ、ここです。北セクターの、中段の……この辺りで」


 加賀は慌てて、波形モニタを指差す。ログを遡って、さっきの二箇所の反応をマーカーで囲む。


 槙野は身をかがめ、画面をのぞき込んだ。


「なるほどねぇ」


 彼はタブレットを操作し、同じ座標の過去ログを呼び出す。住宅地の航空写真、地上センサーの設置ポイント、近隣の遺物回収履歴。その全部を、短い視線の動きで追っていく。


「ドローン、猫、宅配車。似たようなのは、確かにありますね」


「ですよね? だから、その……」


「でもね、全く同じじゃない」


 槙野は、指先で画面の一部を軽く叩いた。


「ここ。ここの立ち上がりと、こっちの残り方。昨日までのノイズと、ちょっと違う。ほんの少しだけ、ですけどね」


 加賀は思わず身を乗り出す。


「言われてみれば、そうですけど……これだけで、報告しちゃっていいんですか?」


「君ね」


 槙野は、少しだけ笑った。


「報告して“怒られた”こと、あります?」


「……いえ。あの、その、はっきりした間違いじゃなければ」


「でしょ。怒られたことない。つまりね、報告して困ることは、あんまりないんです。困るのはね、何かあったあとで『あれ、見てました』って言うことなんですよ。それが一番、面倒くさい」


 彼はタブレットを閉じ、紙コップを空の指揮席の端に置いた。


「だから、次からは。引っかかったら、まず言う。そうしましょう。ね」


「……はい」


「はい、じゃないですよ。さっきのは、もう済んだことにします。今からちゃんとやればいいんです。で、今からちゃんとやるためにね――」


 槙野がそう続けようとしたとき、管制室の天井スピーカーから、無機質な女声が流れた。


『通常監視網、北セクターに反応を感知。識別コード、未登録。再判定プロセス開始』


 電子音が一つ、室内に響く。


 加賀の背筋が、ぴんと伸びた。


「ほ、ほらぁ! やっぱりなんか来てるじゃないですか!」


「だから言ったじゃないですか、じゃないですよ」


 槙野は、軽くため息をつきながらも、声の調子は変えない。


「今、彼女が言いましたよ。『未登録』って。うちの台帳にも、警察にも、軍にも、どこのデータベースにも載ってないってことです。新顔ですね」


 モニタ列の上段に、新しいウィンドウが開く。北セクターの地図が拡大され、淡いグレーの街並みに、点滅する小さな光点が浮かび上がる。


 その周囲には、ネブラ社が設置したセンサーと監視カメラの位置が、青いアイコンで示されていた。


 壁際でライフルを弄んでいたヴァーニが、ようやく顔を上げる。


 赤みがかった瞳が、点滅する光点を捉えた。


「北ね」


 それだけ言って、彼女は脚を組み替えた。


 整備兵が、軽く彼女の方を見る。だが、何も言わない。ここで口を挟む立場ではないと、よく分かっている顔だ。


 槙野は、指揮席の前に一歩進み、モニタ全体が見渡せる位置に立った。


「加賀くん」


「は、はい!」


「慌てないでください。慌てるとね、だいたいろくなことがないんです。まず、カメラ」


「カメラ、ですか?」


「そう。全カメラ、南北同期にしてください。北だけ見てるとね、たいてい見落としますから」


「な、南も? でも、反応は北だけ――」


「いやいやいや、違うんですよ」


 槙野は、右手を軽く振って制した。


「反応が出てるのは北だけ。でもね、逃げ道っていうのは、だいたい反対側にあるんです。人でも、車でも、それ以外でも。だから、両方見る。いいですね」


「……了解です!」


 加賀は、慌てて操作卓に手を伸ばした。管制ソフトのカメラ制御画面を開き、北セクターと南セクターの監視ラインを連動モードに切り替える。


 モニタ上では、北の住宅街と、南側の幹線道路・倉庫地帯の映像が並び、同時にスクロールを始めた。


「それと」


 槙野は、背後のオペレーター席を順に見回す。


「外線、閉じてください。支部外との一般回線、全部。社内幹線も、一旦こっちに回す」


「え、外線までですか?」


 一番手前のオペレーターが、驚いたように振り返る。


「こんな小さい反応で、そこまでやったら――」


「君ね」


 槙野は、穏やかな声で割り込んだ。


「小さいうちに閉じるから、被害も小さいんです。大きくなってから閉じるとね、その間にいろいろ飛んでいきます。メールとか、通話とか、動画とか。あとで誰が回収するんですか?」


 オペレーターは口をつぐみ、ほんの少しだけ肩をすくめた。


「……了解しました。外線、遮断手順に移行します」


「はい。ありがとう」


 槙野は、軽く会釈をしてから、再びモニタの方へ向き直った。


 天井スピーカーから、再びアナウンスが流れる。


『外部通信回線、遮断準備モードへ移行。影響範囲、第三支部全域。経路切り替えまで、およそ三十秒』


 モニタの一角に、小さなタイマーが表示された。


 加賀は、その数字を横目で見ながら、北セクターの反応を拡大する。


 光点は、今も同じ場所にとどまっている。住宅街と公園の境界。地図上で薄く色が変わっている細い道の上だ。


「動き、ないですね……」


「そうですねぇ」


 槙野は、腕時計を一度見ると、ヴァーニの方に視線を向けた。


「どうですか」


「どう、って?」


「臭いとか、気配とか。そういうの」


「便利屋じゃないんだから」


 ヴァーニは、軽く鼻で笑った。


「ここ地下よ? コンクリートと鉄の匂いしかしないわ。外の空気なんか分かるわけないでしょ」


「でも、何かあったら、だいたい先に気づきますよね」


「まあ、そうだけど」


 彼女は面倒くさそうに立ち上がり、モニタの方へ二、三歩近づく。ライフルを肩に担いだまま、地図の光点を見下ろした。


「――静かね」


「静か、ですか」


「動いてない。跳ねてない。じっとしてる」


 ヴァーニは、それだけ言って肩をすくめた。


「普通は、人でも車でも、もっと落ち着きがないのよ。少しずつ動く。近づいたり、離れたり。これは、さっきから同じ場所にいる。そこが気持ち悪い」


「気持ち悪い、は十分な情報ですよ」


 槙野は、小さく頷いた。


「ありがとうございます。じゃあ、やっぱり真面目にやりましょう」


「最初から真面目にやりなさいよ」


「いやぁ、私、基本的にサボるところから考える人なんでね」


 軽口を交わしながらも、槙野の視線はモニタから離れない。


 北セクターの反応。南側幹線のカメラ。支部内各所のステータスパネル。どれも、今のところ大きな変化はない。


 ただ、静かだ。


 普段なら、誰かが廊下を歩く足音や、エレベーターの到着音が、管制室にうっすらと届く。それが、今は妙になく感じられる。


 空調の音だけが、やけにはっきりと耳に残る。


 加賀は、無意識のうちに喉を鳴らした。


「……主任」


「はい」


「これ、やっぱり――」


「やっぱり、何です?」


「魔法少女、なんですかね」


 その言葉を出すのに、彼は少し時間がかかった。


 社内の公式文書では、「対象M」「不明戦力」「高危険度異常体」など、いくつかの呼び方がある。それでも、現場の人間の間では、最初に遭遇したときから、ずっと「魔法少女」と呼ばれ続けている。


 社内のどんな凶悪な実験体よりも、どんな暴走した遺物よりも、彼らはその言葉を嫌う。


 槙野は、すぐには答えなかった。


 代わりに、紙コップをもう一度手に取り、空であることを確かめてから、静かにゴミ箱に投げ入れた。


 カラン、と軽い音がする。


「加賀くん」


「はい」


「そういう名前を、最初に出すのはやめましょう」


「……すみません」


「いや、責めてるわけじゃないですよ。ただね、名前を出すと、それに引っ張られるんです」


 槙野は、指を一本立てた。


「『魔法少女かもしれない』って思った瞬間に、全部それ用に見えてくる。小さなノイズも、大きく見える。普段なら気にしないものまで、気になって仕方なくなる。そういうの、良くない」


「はぁ……」


「今はね、『よく分からない反応が出ている』。それだけです。分からないものは、分からないまま処理しましょう。ラベルを貼るのは、そのあとでいいんです」


 彼はそう言ってから、ふっと笑った。


「それでも、結果的にそうだったら、そのときは一緒に驚きましょう」


「驚きたくないですけどねぇ……」


「私もですよ」


 そのやり取りを聞きながら、ヴァーニが口の端を上げた。


「どっちにしても、来るなら来るでしょ。あたしの出番があるなら、呼んで。ここで待ってるの、退屈だから」


「はいはい。ちゃんとお願いするときは、頭下げますよ」


「最初から下げときなさいよ。楽になるわよ」


 軽い言葉が行き交う中、管制室の照明は変わらない白さを保っている。


 だが、モニタの一つが、ゆっくりと色を変え始めていた。


 北セクターの地図画面の端、別のセンサーラインが、薄い緑から黄色へと変調し、その上に新たな波形ウィンドウが重なって開く。


 加賀は、それに気づいて目を見開いた。


「主任、今度はこっちも……!」


「はいはい。落ち着いて」


 槙野は、片手を上げたまま、モニタの変化を追う。


「さっきのと同じラインですか?」


「いえ、少し北寄りです。同じセクターですけど、別のポイントで……」


「全部まとめて、北の反応として扱いましょう。個別に追いかけると、頭がこんがらがりますから」


 加賀は、指示に従い、複数の反応をひとつのグループとして管理画面上で紐づける。波形が重なり、色分けされて表示される。


 さっきまで単発に見えた反応が、少しずつ間隔を詰めながら続いているのが分かる。


『再判定プロセス、継続中。未登録反応、閾値を超過。注意レベルを一段階引き上げます』


 天井スピーカーの声が、静かに告げた。


 管制室の空気が、目に見えないところで、わずかに変わる。


 誰も大声を出していない。立ち上がる者もいない。モニタの表示も、派手な赤色にはなっていない。


 それでも、全員の視線が、同じ方向へ少しずつ集まり始めている。


 槙野は、その変化を確認してから、小さく頷いた。


「――さて」


 彼は、指揮席の背もたれに手を置いた。


「とりあえず、ここまでは“いつも通り”です。ここから先を、いつも通りにするかどうかは、君たち次第ですよ」


 誰にともなくそう言ってから、再び加賀の方へ視線を向ける。


「加賀くん」


「はい!」


「さっきのことは、もういいです。今からちゃんと動きましょう。まず、記録を一本残してください。『北セクターに未登録反応。再判定進行中。外線、閉鎖準備』。難しい言葉はいりません。それだけで十分です」


「了解です!」


 キーボードを叩く音が、さっきよりも少しだけ速くなる。


 加賀の画面には、先ほど「本日も異常なし」と入力しかけていた日報とは別に、新しい報告フォームが開かれていた。


 そこに、槙野が言った通りの文言が、ひとつずつ打ち込まれていく。


 その文字列を、モニタ越しに確認しながら、槙野はゆっくりと目を細めた。


「そうそう。それでいいんですよ。『何かおかしいので見ています』って言えるようにしておく。それだけでね、あとがだいぶ違いますから」


 淡々とした会話と、無機質なアナウンス。規則正しく並ぶモニタの光。


 第三支部の地下監視管制室は、まだ静かだった。

 しかし、その静けさのすぐ下で、少しずつ何かが動き出していることを、この場の全員が、はっきりと意識し始めていた。




 北セクターの波形が、じわじわと増えていった。


 一本だった山が二本になり、三本になり、間隔が詰まる。高さはまだ低い。だが、さっきまでの「たまたま」より、はっきりとした「続き」に変わっていた。


 モニタの片隅では、さきほど開いたタイマーの数字がゼロに近づいていく。


『外部通信回線、切り替え準備完了。第三支部、外線遮断に移行します』


 天井スピーカーの声が告げた、その瞬間。


 音が、消えた。


 空調の音も、キーボードの打鍵音も、スピーカーのノイズも。管制室を満たしていた細かな音が、一秒にも満たない短さで、すっと途切れた。


 照明は点いたままだ。モニタの画面も消えていない。


 それなのに、耳に入ってくるものがない。


 すぐに、空調の唸りが戻る。スピーカーのバックノイズも元通りだ。


 誰も叫ばない。だが、数人のオペレーターが、同時に息を飲んだ。


「……今の、分かりました?」


 沈黙を破ったのは、槙野だった。


 彼は顔色ひとつ変えずに、管制室の天井を見上げる。


「全部、一緒に止まりましたよ。音。空調も、ファンも、雑音も。こういう止まり方は、あんまり良くないです」


「瞬間的な停電、とかじゃないですよね」


 加賀が、慌てて電源系統のステータスパネルを確認する。


「電力は安定してます。電圧も落ちてないですし……」


「ということはですね」


 槙野は、ゆっくりとモニタの方へ向き直った。


「どこかで、線がいじられたってことです。電気じゃなくて、情報の方の線が」


 その言葉に合わせるように、モニタの一つが赤く点滅を始めた。


 通信経路監視画面。第三支部と外部ネットワークをつなぐルート図の中で、一本の線が黄色からオレンジ色に変わり、その先のノードが「応答なし」と表示される。


「主任っ、ここです。外部バックアップ回線の一部が応答しません!」


「はいはい。驚かなくていいですよ」


 槙野は、オペレーター席の後ろに立ち、画面を覗き込んだ。


「元々、切る予定の線です。向こうから先に触られただけ。考え方としては、あっちが少し急いでくれた、ぐらいで受け取りましょう」


「でも、外から先に触られてるってことは……」


「そう。中から先に切るつもりが、外から一歩早く来た。だからね」


 槙野は、指揮席の端に置いた紙コップを指でトントンと叩いた。


「急いで、こっちからも全部切りましょう。中途半端が一番良くないんです」


「か、完全遮断ですか?」


「そうです。どうせ閉じるなら、全部。出口を半分残すと、だいたいそこから漏れます」


 加賀は、ごくりと喉を鳴らした。


「わ、分かりました。遮断手順、実行に移します!」


 彼は操作卓の一段下にある、滅多に触らないタブを開いた。画面の配色が変わり、「外部通信遮断」「社内幹線迂回」「非常回線待機」といった項目が並ぶ。


 加賀は手順書をちらりと確認し、一つひとつの項目にチェックを入れていく。


「外部回線、遮断設定……社内幹線、管制室経由に切り替え……非常回線は待機のみ……」


「いいですよ。その調子です」


 槙野は、横からその指の動きを見ながら、口を挟んだ。


「マニュアル通りで十分です。こういうときに、変にアレンジするとね、あとで自分が困りますから」


「前にやらかした人がいるみたいな言い方やめてくださいよ」


「実際にいましたからね。どこの支部とは言いませんけど」


 軽口を交わしている間にも、画面の表示が変わっていく。


 支部外との通信ルートが、一本ずつグレーアウトされる。代わりに、支部内局所ネットワーク同士をつなぐ線が、太く表示される。


『外部通信、遮断。ネブラ社本社および公共網との回線を、すべて閉鎖しました』


 スピーカーが、機械的な声で宣言した。


『外郭扉、段階閉鎖を開始。閉鎖率、五十パーセント。残存通路は緊急退避時の利用のみとします』


 別のモニタでは、支部の立体図が表示される。地上の搬入口、地下通路、貨物エレベーター。その一部に、赤い「閉」マークが次々と重なっていく。


 外のカメラ映像では、厚いシャッターがゆっくりと降りていく様子が映っていた。


「……ほんとに、全部閉じちゃうんですね」


 加賀が、思わず呟く。


「開けるの、大変ですよね」


「大変ですよ」


 槙野は、あっさり認めた。


「だからこそ、間違って開けないようにしましょうね。閉めるのが面倒な場所は、開いてるときはもっと危ないんです」


「そう聞くと、余計怖いんですけど」


「怖がるのは、悪くないですよ。適度に怖がってる方が、慎重になりますから」


 そのやり取りを聞きながら、ヴァーニが小さく鼻を鳴らした。


「ねぇ」


「はい、何でしょう」


「さっきからちょこちょこ反応は出てるけどさ」


 彼女は、地図上で点滅する光点を指先で示した。


「ここまでやるほどの反応? まだ爆発も銃声もないのに」


「爆発してから閉めると、ガラス片と人が一緒に飛び回りますからね」


 槙野は、真顔のまま答える。


「それ見ると、誰も得しないんですよ。整備も大変ですし、掃除も大変。書類も増える」


「書類の話?」


「うちは会社ですからね。最後はだいたい、書類で決着がつくんです」


 加賀が、半分笑いながら振り向いた。


「主任、そういう話、今はあんまり聞きたくないんですけど」


「じゃあ、あとで聞きましょう」


 槙野は、肩をすくめる。


「今は仕事です。ね」


 そのとき、北セクターの波形が、急に大きく跳ねた。


 今までの控えめな山とは明らかに違う、はっきりとした立ち上がり。しかも一本ではない。複数のポイントが、ほぼ同時に反応した。


「主任!」


 加賀の声が、自然と少し大きくなる。


「今の、見ましたか? 一気に――」


「見ました見ました。いいから、記録してください」


「き、記録……!」


「後で説明するときに、一番役に立つのはね、『そのとき何がどう動いていたか』です。驚いてる時間があったら、ログを残しましょう」


 加賀は、「はいっ」と返事をして、ログボタンを叩いた。


 波形がピークに達したあと、一瞬だけ平坦になり、その直後――


 別のモニタで、別の場所が光った。


「……あれ?」


 加賀は目を丸くした。


「主任、今の反応、外側のセンサーから消えたと思ったら、中の方で出てません?」


「どこです?」


「ここです。空調ダクトの分岐点のところ。さっきの北セクターの座標と、同じ高さです」


 支部の立体図が拡大される。


 地上近くで光っていた点が消えた直後、地下のメンテナンス用ダクト周辺に、同じ波形の反応が現れていた。


 移動距離の割に、時間がほとんど経っていない。


「……走っても、間に合わないですね、これ」


 槙野は、淡々と口にした。


「車でも無理です。エレベーターでも無理。ということは、普通の移動じゃない」


「ま、またそういう言い方を……」


「事実ですよ」


 槙野は、視線をモニタから離さない。


「『普通じゃない』ことが分かるだけでも、だいぶ進歩です。あとは、その普通じゃないものが、どこまで来るか」


 彼は、立体図の中で光る点の経路を、目で追った。


 メンテナンスダクトから、支部内のサービス通路へ。そこから、さらに別の階層へ続く縦シャフトへ。


 それは、まるで支部の構造を最初から知っているかのように、迷いなく進んでいるように見えた。


「主任。これ、誰かがルートを……」


「導いてる、って言いたいんですよね」


「はい」


「言いたくなる気持ちは分かります。でも、今は『よく知ってる』ぐらいで止めましょう」


 槙野は、軽く息を吐いた。


「導かれてるのか、自分で知ってるのか。そこは、あとでゆっくり考えればいい。今は、中に入ってきてるってことだけ、はっきり認めましょう」


「……支部内侵入、確定、ってことですよね」


「そうですね。文面としては、そう書きましょう」


 加賀は、改めて報告フォームを開き、「支部内部センサーで未登録反応を感知。外周から内周への移動が確認された」と入力した。


『警告。第三支部内サービス通路にて、未登録反応を感知。注意レベルを第二段階に引き上げます』


 天井スピーカーから、少し低い音のアラートが鳴った。


 管制室の壁際に取り付けられた警告灯が、ゆっくりと赤く点滅を始める。


 まだ本格的なサイレンではない。だが、「何かが中にいる」という事実が、視覚的に突きつけられた。


「……嫌な風の匂い」


 ヴァーニが、小さな声で呟いた。


 彼女は、空調の吹き出し口をちらりと見上げる。


「さっきから、空気の流れが変わってる。換気の向きが、何回か逆になったでしょう」


「気づきませんでしたねぇ」


 槙野は、素直に認めた。


「毎日ここにいますけど、空気の向きまでは見てませんでした」


「だから、あたしがいるんでしょ」


 ヴァーニは、ライフルのストックを肩に当て直した。


「主任。あたし、そろそろ動いていい?」


「そうですね」


 槙野は、腕時計をもう一度見る。


「まだ大騒ぎする段階ではないですけど、そろそろ誰かが前に出ておかないと、あとで全部押しつけられますからね」


「押しつけられるの、嫌いじゃないけど」


「こっちも、書類の量が変わりますから」


 彼は、壁際のインカムラックからヘッドセットを一つ取り、ヴァーニに放った。


 ヴァーニは片手でそれを受け取り、耳にかける。骨伝導タイプの小さなユニットが、髪の下に隠れた。


「ヴァーニさん」


 槙野は、少しだけ真面目な声になった。


「サービス通路のカメラを、順に見ながら進んでください。ドアは無理に開けないで。開ける必要が出たら、そのとき言います」


「何かあったら?」


「まず、報告してください。戦うのは、そのあとで構いません」


「順番、逆じゃない?」


「会社ですから」


 ヴァーニは、ふっと笑った。


「了解。じゃあ、“会社”のやり方で行くわ」


 彼女は、ライフルを構え直し、管制室を出ていく扉へ向かった。


 扉が閉まる音がしたあとも、ヘッドセット越しに彼女の足音が小さく聞こえている。


「主任」


 加賀が、不安そうに尋ねた。


「本当に、一人で大丈夫なんですか?」


「大丈夫ですよ。あの人、一人の方がやりやすいタイプですから」


「そういう意味じゃなくてですね……」


「分かってますよ」


 槙野は、少しだけ表情を引き締めた。


「ただ、人数を増やすと、それだけ危険も増えます。今はまだ、『何がいるか分からない』段階ですからね。まず一人で、そっと覗いてもらう。それが一番、後戻りしやすい」


 加賀は、モニタに映るサービス通路の映像を見つめた。


 白い蛍光灯に照らされた、何の変哲もない廊下。メンテナンス用の扉が等間隔に並び、床にはケーブルが束ねられている。


 カメラの先に、黒い影が見えた。


 ヴァーニだ。ライフルを構えたまま、ゆっくりと視界を横切っていく。


『サービス通路、異常なし。匂いも、気配も、今のところは特に変わらない』


 ヘッドセット越しの声が、管制室のスピーカーにも共有される。


「了解。ありがとうございます」


 槙野は、短く返事をした。


「そのまま、次のカメラの範囲へ。無理はしないでください」


『そっちが無理を言わなければね』


 軽いやり取り。


 その裏で、北セクターの波形は、まだ細かく動いていた。


 外側のセンサーに残っていた微弱な反応は、徐々に減っていく。代わりに、支部内部のサービス通路と機械室付近の反応が、少しずつ増えていた。


「主任」


「はい」


「外の反応、ほとんど消えました。全部、中に移った感じです」


「なるほど」


 槙野は、腕を組んだ。


「じゃあ、今この支部には――」


「“外から来た何か”が、中にいる」


 加賀が、先に言葉にした。


「そういうことになりますね」


 槙野は、ゆっくりと頷く。


「いいですよ。そうやって、はっきり言葉にしておくのは大事です」


 彼は、北セクターの地図を閉じ、支部内部の立体図だけを前面に出した。


 そこに浮かび上がる、小さな点滅。


 名称はまだない。コードも割り振られていない。ただの「未登録反応」として表示されている。


 それでも、この場の誰もが、その点を目で追っていた。


 数時間後、記録ログにはこの時点の反応が、「対象M候補」として整理されることになる。


 魔法少女――そう呼ばれる存在の、最初の侵入サインとして。


 ただ今は、まだ誰も、その言葉を口にしていなかった。

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