第17話 鎌倉幕府は「源氏将軍」を求めていた?

 さて。

 「源氏将軍観」といったばあい、それが「源氏ならばだれでもいいから源氏が将軍になるべき」なのか、「鎌倉将軍家としての源氏将軍家に属する将軍」でなければいけないのかで、意味が変わってくると思います。

 「源氏ならばだれでもいい」のであれば、京都の公家社会には村上源氏の公家がいくらでもいるのだから、そのだれかに来てもらえばいい。

 もし、「鎌倉将軍家としての源氏将軍家」、つまり「頼朝の子孫」のほうであれば、源氏将軍家とは血のつながりがない宗尊親王を急いで辞めさせて、「頼朝の父の娘のひ孫の孫」であっても源氏将軍家とつながっている惟康これやす親王を「源氏将軍」にしたことはいちおう理解できます。


 鎌倉九条家の摂家将軍についても、「鎌倉将軍家としての源氏将軍家」に近づけようという意識を感じることができます。

 成功しませんでしたけど、九条頼経よりつねがまだ幼いうちに「源氏」への改姓を図ったこともあります。

 また、「頼経」・「頼嗣よりつぐ」という名まえからも「源氏将軍家」の後継者として位置づけようという意識が感じられます。

 近世までの家系には、男系子孫には、代々、同じ字を受け継がせるという制度がありました。徳川将軍家の「家康」、「家光」などの「家」、室町時代の足利将軍家(義満よしみつ義教よしのり義政よしまさなど)の「義」、武田信虎のぶとら晴信はるのぶ(信玄)の「信」、伊達稙宗たねむね輝宗てるむね政宗まさむねの「宗」などです。

 これを「通字」といいます。

 頼朝に始まる鎌倉将軍家のばあい、それは「頼」か「朝」であったと考えられます。

 嫡子は「家」、頼家が「失敗した」と認定されたあとを継いだのは「実」です。

 「経」・「嗣」はその「」を継承しています。

 京都の九条家にはとくに「通字」はなく、頼経・頼嗣と同じ世代でも「頼」のついている人物はいません。

 だから、これは鎌倉将軍家の通字を継承したものとみていいでしょう。

 姓を変えることは断念しても、通字のほうで鎌倉将軍家の継承者としての立場を主張したわけです。


 なお、河内源氏の当主の通字は「義」です。ほかにも「頼」や「朝」も多く使われますが、「義」が最も目立つように思います。当主も、頼義よりよしのあと、義家よしいえ義親よしちか為義ためよし義朝よしともです。

 これを継いで、後の足利将軍家も、尊氏以外は「義」を通字にする(「義○」という名を名のる)ことになりました。

 しかし鎌倉の源氏将軍家は「義」は使っていません。三代だけなのでなんとも言えないところはありますが、頼朝の弟の希義まれよし義経よしつね、御家人の北条義時が使っていることもあり、「義」では将軍家の「差別化」が図れないと考えていたのかも知れません。


 なお、九条頼経については、私たちは「朝+義」と連想してしまいがちですが、たぶん、「経」のほうは頼経の祖父の九条良経よしつねを意識した名まえでしょう。

 現在では、おなじ「よしつね」でも源義経のほうが九条良経よりずっと有名人です。しかし、同時代には、義経が行方不明になった後、「義経という名は九条良経とかぶるのでおそれ多い」と本人不在のまま「義行よしゆき」と改名されてしまったくらいで、九条良経のほうが上と認識されていました。


 でも「義経」は京都鉄道博物館で展示されている(運転も可能らしい)蒸気機関車として現存していますからね。現在では最強です。


 ところで、もし、九条頼経が祖父の良経から「経」を継いだのではなく、しかも幕府が頼経をできるだけ「清和源氏に近づけたかった」とすると、清和源氏の祖(この系統で最初に「源」姓を与えられた)である源経基つねもとから取った可能性もあります。経基も関東で平将門の勢力拡大に対処していますので、鎌倉将軍としては適当な字でしょう。

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