第9話 音々襲来
居心地の悪さを感じながら、午前の授業を終えて昼休みを迎えた。
阿久津音々と出会ってから、俺の人生が狂ってしまった。
どこで選択肢を間違えたのか。
職員室か、屋上に登る彼女を見かけた時なのか。
後悔しても仕方ない。
静かに過ごして自然風化を待とう。阿久津本人はしばらく停学になるだろうし、その間に少しは反省するだろう。
……あの動画がインターネットに残り続けるのが不安だが。
相変わらず痛い視線は感じるが、いずれは飽きるだろう。
そう捉えた俺は、堂々とタブレットPCを開いた。
「ねぇ田中くん。ちょっといい?」
「すまん、今は忙しい」
珍しくクラスメイトの女子に声を掛けられたが、俺は堂々と断った。
いい加減、趣味の読書に逃げる時間が欲しい。
「2ーAの阿久津さんが、田中くんに『昼休み2ーAに来い』って伝えといてって」
彼女の爆弾発言で、クラスメイトの視線が俺の元に集まった。
彼らの何かを期待しているような目線……そんなことがどうでも良くなる程の悲報――阿久津の誘い。
何をやっているんだ教師たちは。停学の手続きはまだなのか。
とにかく今は阿久津から逃げることが先決だ。
「……悪いがあいつと会ったら、風邪で早退したと伝えてくれ」
俺は荷物をまとめて、帰宅の準備に取り掛かった。
真面目が売りの田中実が早退をするのは前代未聞。
この異常さがクラスメイトに伝わってくれるといいが。
「……おい、あれは二人だけの秘密の合言葉か?」「田中、見損なったぞ。阿久津さんと危ない遊びをするなんて」「
男子生徒たちの勘違いの声が聞こえ、俺は帰宅を諦めた。
このまま本当に帰ってしまうと、俺はそう言う人間として今後色眼鏡で見られてしまう。
それは避けねばならない。
(……いや、待てよ。こいつらを使うか)
人の目は武器になる。
不本意ながら注目を集めている俺に対して、阿久津は下手に手出し出来なくなるはずだ。
つまりこの教室は逆に安全である。この場に留まるのが吉だ。
一旦腰を上げた俺だったが、堂々と元の席に着席した。
再びタブレットPCと昼食をカバンから取り出して、いつものように昼休みを過ごす体制を整えた。
阿久津が痺れを切らしてここに来るかもしれないが、大丈夫だ。
これだけの生徒に見られる状況で、さすがのあいつも乱暴はしてこないだろう。
適当にあしらって昼休みを乗り切れば俺の勝ちだ。
そう安心したのも束の間、今度は佐々木が血相を変えて俺の目の前に現れた。
「おい田中、大変だ! って言うかお前なんなんだよマジで。どこかの財閥のおぼっちゃまなのか?」
彼は怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない表情で、俺の机をドンと叩いた。
「なんで……お前なんだよ。俺だって、そこそこ勉強できて、そこそこバスケ上手いのに……顔だって……」
佐々木は肩を振るわせながら
突然で意味が分からなかったが、彼が悲しい表情をしていたので、文句を言う気にもなれなかった。
「落ち着け佐々木、何があった? 阿久津に何かされたか?」
「いや、阿久津は関係ねぇーよ。別の人だよ……ただ、めちゃくちゃ美人で、胸デカくて、優しそうな人で」
「順序立てて説明をしてくれ」
「だから、その人……3年の先輩が、2ーFの田中実を呼んで欲しいって言ってきたんだよ。その人めちゃくちゃ美人で、俺のタイプだったのに……俺のことなんか眼中に無いみたいで」
そして佐々木が俺の胸ぐらを掴んだ。
「なんでお前なんかがモテるんだよ! なんだこの理不尽は」
「俺だって理不尽だと叫びたいところだ」
こいつの言う理不尽とは違う意味でな。
……とは言え、俺に用がある3年生がいるとは珍しい。
ある意味例の動画で割る目立ちはしてるが、本人を呼び出すほどのことなのだろうか。
今はとにかく、邪魔な佐々木の誤解を解いておくほうが良さそうだ。
「冷静に考えてくれ佐々木。俺のような秀でたところのない地味な男に好意のある女性が存在すると思うか? その先輩はせいぜい興味本位で、あの動画の本人確認をしたかったとか、その辺りだろう」
「そ、そうだよな。お前がモテるなんて何かの間違いだよな。良かった、俺は失恋したわけじゃなかったんだな」
俺は自分を客観的に見れるので、自分が女性に好意を抱かれるはずがないことを理解している。
だから佐々木がそのことを否定しなかったことに対しては何も感じない。
落ち着きを取り戻した佐々木を引き剥がしながら、俺は冷静にその先輩の対処について考えた。
もはやその人に
俺がその人を受け入れる決心をすると、タイミングを測ったかのように、彼女が教室の外に現れた。
一目見ただけで分かる。
ウェーブのかかった短い髪に
「いらっしゃったぞ。あれがその美人の先輩だ」
佐々木は扉の外で教室を見回している、その美しい女性を指差す。
確かに彼が言う通り優しそうではある。俺を貶めよるようなことはするとは思えない。
「まぁ幻滅されてフラれてこい。骨は拾ってやるぞ」
すっかり気を持ち直した佐々木は、ポンと俺の背中を押して、彼女の元へ向かわせた。
ため息をついて、俺は彼女の元へ向かう。
「おい田中、そう言えば阿久津が――」
佐々木が何かを言いかけた途中で、弾頭ミサイルのようなネオンカラーの塊が、こちら目掛けて押し寄せてきた。
扉の側に立つ先輩の横を通り過ぎ、それは俺に目掛けて飛んでくる。
「――なんか走ってるの見たぞ。もしかしたらお前のとこに」
大事なことは全部伝えておいてくれ――その情報を聞き終えると同時に、俺は天井を眺めていた。
「実くん遅いっスよ! お仕置きっス」
ラグビー選手のようなタックルを受けて、俺は後ろ向きに倒れた。
阿久津はそのまま仰向けになった俺の上に
かつて無いほどの注目が集まった。
中にはこの様子をスマホで撮影し始める生徒もいる。
当然、先輩も目を見開いて驚いていた。無理もない、あんな珍獣の奇行なんて見たことないだろう。
阿久津は周りの視線など気にも留めなかった。悪童のような笑みを浮かべながら、黒板から何かを取り出す。
腰をかがめてそれを俺の近づけようとした時、先輩が初めて口を開いた。
「やめなさい! あなた何をしようとしているの?」
「実くんは白い粉が大好物なんスよ」
そう言って阿久津は、手に持っている黒板消しを俺の顔に近づけた。
俺は両手で彼女の腕を掴んで、必死に抵抗する。
「やめろ阿久津、俺はその人に用があるんだ。お前の相手は後でしてやるから、大人しくしていてくれ」
都合良く声をかけてくれたので、先輩を利用することにした。そうでもしないと、阿久津の暴走は止まらない。
「あなたが田中実くんよね?」
「はい、そうで……ゲフッ」
力の抜けた阿久津の腕から、黒板消しが俺の顔の上に落ちる。幸いメガネをしていたおかげで目は無事であったが、舞い散るチョークの粉が俺の気管に入り込んでむせ返った。
「田中くん、大丈夫?」
居ても立っても居られなくなった先輩は、阿久津の首根っこを掴んで引き剥がすと、そのまま俺の頭に付いた粉を払ってくれた。
「田中……コロス」
先輩に介護されたせいで佐々木が殺意を向けてくるが、それよりももう一つの殺意が恐ろしい。
阿久津が番犬のように喉を鳴らしながら、こちらを睨みつけている。彼女は部外者の登場に驚いているようだ。
「誰っスかこの女!」
「田中くん、こっちよ」
クラスメイトの熱視線と阿久津音々から逃げるため、先輩が俺の手を引く。
「ちょっと実くん、どこ行くんスか!」
当然それに乗らない手はない。俺は彼女に身体を委ね、この教室から脱出した。
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