第30話

「父さん!!」

 勇輝は喜んで父に飛びついた。

「おっと」

 晴彦は穏やかに笑って勇輝の頭を軽く撫でる。

 勇輝は嬉しそうに父に抱きつく。

「おいおい」

 ふふ、と。

 晴彦は笑う。

 勇輝の頭を撫でながら、父は優しく言う。

「随分と今日は嬉しそうじゃないか? 何かあったのか?」

 勇輝は何も言わない。

 頭の中に、さっきの不気味な男の表情が浮かんでくる。一体……

 あいつは……

 解らない。

 だけど。

 父の温かく、大きな手で撫でられると元気が出て来る。不安も少しずつ解消されていった。

「……何でも無いよ」

 勇輝は顔を上げ、父に向かって笑いかける。

「お帰り、父さん」

 勇輝の言葉に。

 父は、何も言わず。

 ただ黙って。

 黙って、笑っていた。


 それから、家族三人の賑やかな食卓が始まった。

 母が作ってくれた夕食を食べ、三人で賑やかに色々な事を話す。目下一番の話題は勇輝の最近の成績についてだ。勇輝はまたしても成績が落ち込んでいる、もともと勉強は得意では無いのだ。これ以上成績が落ちればお小遣いを減らす、とも言われ、勇輝は大慌てで食事をかき込み、自室へと駆け込んだ。

「やれやれ」

 そんな勇輝の様子を見て、晴彦は小さく笑った。

「誰に似たんだか、昔から勉強だけは苦手な奴で困ったものだ」

 ふふ、と。

 晴彦が笑う。

「……似たのは貴方にでしょう? どう見てもね」

 横で優実が笑う。

「……おいおい」

 晴彦は呆れた様に言う。

「僕はあいつよりも、もう少し頭は良かったつもりだぜ?」

 晴彦は優実の顔を見て言う。

「そうかしらねー」

 くすくす、と笑う優実。

 晴彦はじっと優実の顔を見る。

 その顔が……

 本気の笑顔では無い。それは晴彦にも理解出来た。じっと妻の顔を。

 優実の顔を、晴彦は見た。


「優実」

 晴彦はじっと。

 じっと、優実の顔を見る。

「……なに?」

 優実は、じっと晴彦の目を見た。

「本当は、何があった?」

 晴彦は優実の顔を見て問いかける。

「……それは……」

 優実は顔を伏せて言い淀む。晴彦は黙って優実の顔を見る。

「何も無いわよ」

 優実は軽く笑って言う。

 晴彦は、何も言わない。

 沈黙だけが、二人の間に下りる。

 ややあって。

 優実は軽く息を吐いて、覚悟を決めたように顔を上げた。

「……来たわよ」

 優実は告げた。

「……一体誰が?」

 晴彦は問いかける。

「……正体は解らない、けれど……」

 優実は、少しだけ俯いたままで言う。

「……貴方の知人だと名乗っていた不審な男が一人。貴方が調べている一件から手を引け、という話だったわ」

 優実は言う。晴彦は黙ってそれを聞いていた。

 やがて。

 晴彦は、頷く。

「……やはり、そういう事か」

「貴方、一体……」

 優実が、晴彦に問いかける。

「一体何を……」

「……ちょっと、厄介な件でね」

 晴彦は告げた。

「それは……」

 優実は言う。

「……すまない」

 晴彦は、ゆっくりと優実に頭を下げる。

「貴方に言っても無駄だ、と思うけれど」

 優実は、晴彦に向かって言う。

「今の取材、中止する訳にはいかないの?」

 晴彦は目を閉じる。

「……それは」

 晴彦は、目を閉じたままだ。

 ややあって。

「すまない」

 晴彦は目を開ける。

「もしここで投げ出せば、僕は……裏切る事になってしまうんだ」

 晴彦はポケットの中に手を忍ばせる。その中には一枚の紙が入っている。今回の取材において、重要な証言をしてくれる人物の所在が書かれたメモ用紙。既にアポイントメントは取ってある。後は会いに行くだけだ。もしもここで会いに行くのをやめてしまったら、取材を止めてしまったら……彼を裏切る事になってしまう。

 そして。

 晴彦自身の信念をも、裏切る事になってしまうのだ。

 だからこそ。

「ここで中途半端に止めるわけにはいかないんだ」

 晴彦ははっきりとした口調で言う。

 その言葉に。

 優実は、呆れた様な。

 だけど……

 何処か安心したような、穏やかな顔で見ていた。

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